2017年10月29日日曜日

10月の3連休旅行:赤穂城(兵庫県赤穂市)

2017年10月7日訪城。

10月の3連休は予てから行きたかった山陽地方へと久々に遠出の旅に出た。季節の変わり目でひいた風邪が治らない等の問題を抱えた状態だったが、なるべく山城以外に行くことで負担を軽減して乗り切る方針で強硬する旅になった。

最初に訪れたのは赤穂城で、新幹線を降りた時の姫路が雨だったので不安だったが、赤穂は曇り空で後ほど晴れ間も僅かに見え、天候にはなんとかギリギリ助けられた。赤穂城は1648年に浅野長直が加里屋城を大改築して造った近世の平城で、この浅野氏は備中国赤穂に来る前は常陸国の笠間の領主をしていた。実を言うと、先月たまたま立ち寄った笠間城で浅野氏や大石氏の話が書かれていた為、赤穂城に行くことを思い立ったという経緯がある。

三の丸大手口
播州赤穂駅から来るとまず見えるのが三の丸大手隅櫓で、この大手口周辺は昭和30年頃に再建されたという。ただ、再建されたのが文化財関係の扱いが厳格でなかった昭和の頃のため、再建した建造物はあまり正確ではないという。


三の丸大手の番屋
大手門を抜けると内側には番所も外観再建されており、内部は休憩所と展示パネルになっていた。


近藤源八邸長屋門
三の丸内部には現存する建物も一部残っており、画像の近藤源八邸の長屋門もその一つだが、これは長屋門の1/4ほどを住居に改造していた為、その1/4が今も残ったものだという。


大石邸長屋門
近藤源八邸跡の向かいには赤穂藩家老で知られる大石内蔵助の大石邸があり、こちらには立派な長屋門が残っていた。


大石神社
大石邸そのものは残念ながら残っていないが、屋敷のあった付近は今は大石神社になっており、この日も人々が多く訪れていた。この神社の御利益は「念願成就」で、なんとも納得のいく御利益である。


二の丸の水堀
三の丸と二の丸の間には水堀があり、画像の部分は特に整備前の部分のようで、石垣等の残骸が散らばっているのが見えた。


二の丸の櫓台と水堀
画像も同様の三の丸と二の丸間であるが、ここは二の丸の復元で整備された部分で、石垣と水堀がなんとも立派であった。


二の丸の大石頼母邸庭園
二の丸の大石頼母邸跡周辺が綺麗に整備されてあり、屋敷の建物跡自体は芝生の広場になっているが、屋敷の門と庭園が復元されていた。一つ残念だったのは庭園の奥の2/3ほどが立ち入り禁止になっていたことで、庭園の通路等は整備されていたのでそのうち入れるのだろうか?


本丸大手門
二の丸と本丸の間も水堀で、土橋の先に立派な大手門が復元されていた。ただ、困ったことにこの日の10/7はこの本丸が音楽フェス?のようなイベントの会場になっており、内部に入ることが出来なかった。今回の旅の初日で一番ショックだった出来事である。


本丸厩口門
しょうがないので二の丸をそのまま散策することにした。画像は二の丸から見た厩口門で、ここも綺麗に復元されているが、当然ながら門は固く閉ざされていた。(普段は開いているらしい)


本丸刎橋門
本丸大手門からちょうど反対側に回り込んだ位置に本丸刎橋門があるが、この部分だけは復元されていなかった。本丸側の門口と二の丸の間にかなり落差があるが、ここには文字通り刎橋(跳ね橋)があったらしいのでこんな構造なのだろう。


二の丸米蔵
二の丸の奥には米蔵も外観復元されていたが、内部は休憩所である。この周辺は桜の木が多いみたいなので、今度赤穂に来るときは春にでも来たいものである。


二の丸水手門から外を見る
米蔵の前には二の丸の水手門跡があるが、ここで言う水手とは水源のことではなく海のことである。つまり、この門の外は海で画像の場所は船着き場だった場所である。現在は海は埋め立てられてしまったため、かつて海だったこの周辺もただの御堀に見える有様である。


三の丸外堀の埋め立てられた部分
水手門跡から外に出た後は城の周囲をぐるりと散策したが、驚いたことに赤穂城の二の丸、三の丸の外と接する石垣はほとんどが現存しており、三の丸の西側の堀が埋め立てられたこと以外は縄張りが綺麗に残っていた。埋め立てられた堀は最初車道になっている部分と思ったが、実際は車道よりも広く車道の隣の民家も堀跡の上にあることが判った。画像の場所はその埋め立てられた堀の幅がよく判る北西隅の場所。


赤穂市歴史博物館
三の丸の清水門跡から外に出た場所のかつて舟入(港)と蔵があった場所に赤穂市の博物館が建っており、外観は蔵を模しているためお城側から見ると蔵に見えて面白い。内部には当然赤穂の歴史や城跡の模型などもあったが、製塩の歴史の解説も熱かった。

2017年10月15日日曜日

9月の3連休旅行:笠間城 (茨城県笠間市)

2017年9月18日訪城。

9月の連休は台風と前線を回避しながら津々浦々を彷徨い、最終日の18日に関東へ戻ってきた際に晴天となった為、帰路の途中で笠間へと立ち寄った。笠間にはまだ訪れていなかった笠間城があったからである。

笠間城は鎌倉時代に藤原時朝(笠間氏)が築いた山城で、1598年に蒲生氏が宇都宮の転封された際に蒲生家の蒲生郷成によって天守台等の石垣を築く大改修が行われている。その後、松平氏が城主となって笠間藩が誕生し、以後目まぐるしく藩主が変わった。余談だが、歴代藩主の中には赤穂浪士で有名な浅野家もあった。

笠間城下屋敷跡(山麓公園)
まずは山の麓の下屋敷跡である山麓公園に立ち寄ったが、ここには当時の時鍾があり、画像の建物が時鍾楼である。この建物自体は現代のもので、中に収められている時鍾が文化財となっている。下屋敷と直接関わり合いのあるものは無いが、地形そのものはまさに絵図の下屋敷の通りだった。


山道
下屋敷跡の公園から奥に進むと山道があり、そこから城山へと登れるのだが、絵図には屋敷から直接登る道は無い為、後世に造られた道だろう。ただ、いざとなった時に屋敷を出て大手門に回るというのも妙な為、当時から搦手の道はあったようにも思える。


本丸跡
途中車道を横切り山を登りきると広い平場に出るが、ここが本丸跡である。本丸に登る直前に石垣があるが、そこが宍ヶ崎櫓跡らしい。画像の奥に見える土塁が八幡台櫓跡で、本丸の土塁は本丸南側(この画像の右側)に良く残っている。


本丸の土塁の上
土塁はかなり大きく、土塁の上も画像の通り幅が広い。復元図だとここには塀が描かれているだけだが、多門櫓的な用途があったようにも感じられる


本丸の奥の空間
本丸の土塁はちょうど八幡台櫓跡の部分が仕切りのように本丸を分割しており、奥側の空間には石柱に囲まれた木が中央に一本あったが、特にこれについての説明は見当たらず、結局今も謎である。


本丸と天守曲輪の間の堀切と土橋
本丸と山頂がある天守曲輪との間は堀切で切られており、ここに土橋が架かっている。復元図だとここは木橋になっており、頂上に神社が移された際に土橋になったのだろうか?


天守台の石垣の最下層
天守曲輪の階段をしばらく登ると天守台に到着するが、ここは岩山を利用しつつ石垣の台が造られており、なかなか立派で迫力があった。


天守台の石垣と佐志能神社
石垣の天守台は4層になっており、最下層には登れたのだが、それより上は立ち入り禁止となっていたた為、画像の写真のみ撮影した。よく見ると画像でも所々崩れているが、震災によって一部崩落して危険な状態らしい。


本丸の側面の石垣
山頂まで行けなくて残念だったが、帰路は本来の登城路を辿って戻ることにした。本丸から二の丸に降りる部分には石垣がハッキリ残っており、いかにも大手道らしさがあった。二の丸の内部はただの雑木林と藪だったので割愛。


倒木
大手側には登城路の他に本丸まで車道が設けられているが、ここの道は倒木で塞がれていた。まぁ、一般人は下の駐車場までしか車で来ないので影響は無いとは思うが、これは台風によるものだろうか?


大手門跡
二の丸から登城路を降っていくと大手門跡があり、ここは内枡と外枡を堀切で挟んだような構造になっていてその造りに驚かされた。なお、ここにもしっかり石垣が使用されている。


千人溜(駐車場)
大手門跡の外側は広い空間になっており、現在は駐車場になっているが、当時は千人溜と呼ばれた場所だった。所謂、兵が集合点呼したり、馬を揃えたりした場所なのである意味では今も昔も駐車場である。


大黒石
山を下山中に見つけた「大黒石」。笠間城が出来る前に、佐白山の頂上付近にあったものらしく、佐白山の正福寺の僧兵と徳蔵寺の僧兵が争った際に、劣勢だった正福寺の僧兵が転がして落としたものらしい。徳蔵寺の僧兵はこの落石に巻き込まれて打撃を受けたため撤退したという。


笠間稲荷神社
城山から下山した後は笠間稲荷に参拝した。ここは稲荷寿司が名物らしいが、時間が遅かった為かどこの店も売り切れていたので、結局酒造店でソフトクリームを食べただけで帰途についた。