ラベル 山 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 山 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年1月3日日曜日

新春の奥久慈への旅:鏡城(茨城県大子町)

 2020年2月24日訪城。

棚倉町から矢祭町に戻って一泊した翌日は水郡線で再び水戸方面へと移動し、大子町で代替バスに乗り換える為に駅から出た。バスの待ち時間が勿体ない為、乗るバスは何本か後に回し、大子の街中を抜けて久慈川を渡った先にある鏡城を目指した。

鏡城は707年に近津明神のお告げを夢で見て近津神社を創建した藤原富得の居城と伝わっており、子孫は代々宮司を務めて中世には佐竹氏の家臣となっている。16世紀の白川結城氏の常陸侵攻時に家臣の関氏によって攻め落とされており、白河結城氏家臣の深谷氏が一時城代を務めたが、後の佐竹義篤の反攻で奪還されている。

山倉稲荷神社
城のある山への登山口はおおまかに2つあるようだが、登りは山倉稲荷神社という目印がある南の尾根先から登った。


南尾根
南尾根は一旦尾根に登ってしまえば緩やかな登りで歩きやすかったが、途中に画像のような岩場があって道が折り曲げられていた。尾根筋の道を登ってきた敵を迎撃するにはちょうどいい構造だが、見た感じでは自然石のため意図して造られた構造なのか偶然たまたまこうなっただけなのかは判断がつかない。


尾根の分岐点
南尾根は途中で南東方面に伸びる尾根と合流し、北に鏡山があるため逆Y字型の構造になっている。今回は南東尾根も気になったので、鏡山に登る前に確認しておくことにした。


南東尾根のピーク
南東尾根は見た感じでは自然地形で、しばらく進むと南尾根よりも高いピークに辿り着いた。地形的には東に広がる山々と繋がっているが、このピークの先は急斜面になっており、実質ここで切断されている。


南東尾根ピークからの眺め
ピークの上は狭くハッキリ言って城の遺構らしいものは確認できないが、画像のように街の方面を眼下に見ることが出来たので、物見台があった可能性があるかもしれない。


鏡山鞍部
南東尾根から再び合流点へと戻り北に進むと一旦鞍部になるが、ここでもう一つの登山道と合流している。また合流ポイントに城址の説明板も設置してあった。


文化二年の供養碑
鞍部から更に進んで鏡山斜面の山道を登っていくと、途中に文化二年の供養碑があった。時代的には江戸時代で、ちょうど伊能忠敬が地図作成のために東海道付近を測量していた頃である。梵字でオンの後に「最勝三□讀誦供養」(※□は該当する漢字が見当たらなかった)と書いてあるので法要に関するものだとは思うが、何故ここにあるのかは謎である。


雷神社
山道をしばらく登ると頂上の雷神社の鳥居が見えてくるが、鳥居の手前には帯曲輪があることが確認できた。ただ、この帯曲輪に至るまでは特にこれといった遺構は見られなかった。


主郭
主郭部分は想像していたよりも広く、神社の東側には画像のように削平地が広がっていた。この主郭以外は小さな腰郭や帯曲輪でしか無い為、山城としてはかなりシンプルな構造である。

帯曲輪
主郭の一段下に帯曲輪があり、北側は腰郭と合わせて三段になっているが、曲輪自体はかなり狭い。斜面がやや急なので年月の風化で削れたのかもしれない。


鏡山南西麓の登山口
結局、見所は山頂の周囲にしか無かったので、ぐるりと見た後は下山した。帰りは鞍部から西側に降りる登山道を使ったが、こっちは雨水で道が削られていたりして意外と歩きづらかった。登山道を下りて行くと画像の畑のあたりに出てくるが、車道に出るまで農道や民家裏を通る為、予め知っていないと判り辛いかもしれない。

2020年12月30日水曜日

新春の奥久慈への旅:羽黒山城・その2(福島県塙町)

 2020年2月23日訪城。

その1からの続き。

出羽神社
帯曲輪から階段を登った先が主郭で、現在は出羽神社が鎮座している。神社の縁起によれば源義家が勧請したらしいので恐らく1063年頃(出羽守に任ぜられた源義家が総本社の羽黒山の社殿を修理している為)には祠か社が祀られたものと思われる。


本殿
出羽神社の本殿は背後の一段高い場所にあり、ここが羽黒山の山頂になる。この場所は佐竹氏の時代には物見台として使用していたとされている。


主郭西側の堀切
主郭の西側には堀切が設けられているが、ただでさえ狭い主郭がこれでさらに狭くなっており、西側の出丸のようになった部分を切り離す必要が本当にあったのか疑問が残る。


出丸下の腰曲輪
その出丸付近から西側の腰郭を見下ろしてみると嫌になるほど密集した笹薮になっており、ちょっと気が滅入る。


出丸から二段下の腰郭
主郭から帯曲輪に戻ってそこから南の尾根にある腰郭に回り込むが、ここもやはり笹薮化して通れそうにない。縄張り図によればこの先に西尾根の二番目の堀切があるはずなのだが…。


南尾根の堀切
しょうがないので南尾根の方に降ってこちら側の堀切を確認する。なお、この堀切は山道の分岐点にもなっており、このまま南に下れば愛宕神社裏に出る。堀切を通って西側に下れば街中に出るはずである。


西側の山道
というわけで、西側の山道から下山を開始したのだが、途中で山道が笹薮に侵食されて大変なことになっていた。それでも辛うじて足元に道が見えていたので、強行突破することにした。


西側の山道
ある程度笹薮を強行突破した結果、やっと笹薮の無い山道に出ることが出来たが、改めて見返してみると道がかなり見づらくなっている。ちなみに画像の中央から右の笹薮に曲がるルートが正しいルートである。


西側の山道
山道をある程度下山してきたら途中に行き止まりの看板があったが、要するに西側の山道は使用できない認識のようだ。画像奥が山頂側なので、この看板の通りなら道は不通という意味になる。


出羽神社の鳥居
山道を只管降りて線路の踏切を越えて街中に出ると画像の鳥居の場所に出る。これだけ立派な鳥居があるにも関わらず参道は自然に飲み込まれて消滅しかけているのだから、なんとも困った話である。

2020年12月28日月曜日

新春の奥久慈への旅:羽黒山城・その1(福島県塙町)

 2020年2月23日訪城。

塙の町で昼食をとった後、いよいよ町の中央に鎮座する羽黒山へと向かうが、羽黒山は登山口が東西南北に存在しており、街中に近い西側ではなくあえて山を回り込んだ東側から登ることにした。東側が大手道だからというのが自分の場合の理由だったが、登ってみた感じでは基本的に東から登るのが正解のようだった。

羽黒山城の始まりは不詳で、伝承だと源義家が奥州へ向かう際に築いたというのが一番古いが事実かは定かではない。説明板だと南北朝時代に築かれたものとされている。現在見られる遺構は16世紀に佐竹氏によって築かれたもので、南郷を支配するための重要な拠点だったこともあって、何度か結城氏と佐竹氏の戦いの舞台となっている。

東側の登山口
出羽神社の参道や林道羽黒山線の起点にもなっており、登山口には画像のように色々目印が立っている。ここから中腹までは舗装された林道を進むことになる。


城代屋敷跡
登って道なりに進むと林道がU字に急カーブしている箇所があり、ここの北側に城代屋敷跡がある。なお、住所の「竹之内」はここを指す館(たて)の内が由来とされている。所々藪があって散策し辛いが、画像のような土塁や堀が今でも確認できた。


二重堀跡(外側)
しばらく登っていくと林道の左右に広い曲輪跡が確認できるようになるが、二重の横堀があるとされている箇所は今は配水場に変わってしまっていた。画像は恐らく二重堀の外側の堀だったと思われる箇所。


二重堀跡(内側)
二重堀の内側とみられる箇所は一部が残っており、この画像の右側の方に先ほどの配水場の入口がある。なお、平成三年度の発掘調査で画像左の切岸の上に石積みがあったことが確認されているが、現在はどこらへんが石積みだったのか確認できなかった。


曲輪跡と櫓台跡
前述の切岸の上は同じ調査で主殿クラスの建物跡が見つかっており、切岸側に見える土塁は櫓台の跡とされている。林道を挟んで南側の曲輪跡には大手門跡とされる場所もあるため、この辺りからが城の重要区画だったのだろう。


石積み
北側からは結局石積みは見つけられなかったが、南側の曲輪には石積みらしきものが確認できた。野面積みの石垣と違って、整えずに石を積んだものであり、中世の伊達氏の城なんかでもよく見かける奴である。


大手曲輪跡
先の曲輪跡の一段下にあった曲輪で、大手門跡があったらしいので便宜上呼び分ける為に大手曲輪と呼ばせてもらう。前述の石積みは記録と分布を見る感じではこの大手曲輪と建物があった曲輪の間の切岸を補強するために築かれたと思われる。なお、画像の中央奥に大手門があったとされる虎口跡がある。


出羽神社入口
林道羽黒山線から出羽神社の参道が分岐する箇所が画像の部分で、ここから先は舗装されていない山道になる。なお、林道の方は本来の登城路とは関係なく通っている為、ここから先が本来の登城路と同じルートとなる。


礎石建物があった曲輪
参道を登った先には比較的広い曲輪跡があり、平成四年度の発掘調査では建物の礎石が見つかっている為、ここに重要な施設があったようである。それにしても、礎石は埋め戻されているから分からないのは当然にしても、現状からはそれが全く分からないから恐ろしい。


横堀と土塁を横切って登る道
個人的に見所だと思ったのが画像の箇所で、横堀と土塁を横切って山道が通っており、藪の中に入らなくても遺構がハッキリと確認できた。


主郭下の帯郭
山道は大小の曲輪跡を縫って山頂へと続いていくが、山頂の主郭跡の直下にある帯曲輪は北側が藪になっており、主郭方面以外の北側の曲輪に行くのは困難な様子だった。

2020年12月18日金曜日

新春の奥久慈への旅:月居峠と前山(茨城県大子町)

 2020年2月22日登頂。

水戸で復元された水戸城を見た後に一旦昼食を取り、改めて今回の旅の目的地である茨城県と福島県に跨る奥久慈方面へと向かった。移動には水郡線を利用したが、先年の台風で線路は寸断されており、西金駅からはバスでの移動となった。

月居山登山口
電車2両分の乗客をバス1台に詰め込んだせいで、バス車内は通勤ラッシュ時のような混雑になっており、流石にこれに嫌気がさして袋田駅代替バス停で下車してしまった。気分転換に袋田の滝に寄り道しようと思ったのだが、途中で山に登りたくなり、気づくと月居山へと向かっていた。


月居山登山道
登山道は緩やかな道で歩きやすかったが、所々に岩が転がっており、この辺りは基本的に岩山なんだなということがよく判った。画像は登山道に転がる岩の上に登山者が積んだと思われる石塔。


岩山の上に見える建物
しばらく登っていくと目の前の岩山の上に何やら建物があるのが見えてきたが、地図を確認すると月居峠付近にある観音堂だというのが判った。つまりここまで来れば峠は目と鼻御先である。


月居峠の大銀杏
峠までたどり着くと目の前にイチョウの巨木が現れ、否が応でも興味をそそられるが、どうやら江戸時代までこの場所にあった光明寺の境内に植えられた木のようだ。


月居山城跡
月居峠から月居山へと登ろうとするが、袋田の滝にも行くことを考えると、山に登った後に再びここに戻ってこなければならず、今のペースだと滝に行く頃には日が沈む計算になるためここで無念の断念。そして計画を変更して前山を通って袋田の滝に降りることにした。


光明寺跡
なお、月居峠にあった光明寺は807年の創建で、1083年には源義家も戦勝祈願に訪れている。1864年の水戸藩の諸生党(約2千)と天狗党(約1千)の戦いがここで行われ、光明寺に陣を構えた諸生党が天狗党を破っているが、この時の戦いで寺は焼失したという。


石仏
境内にある石仏は意外にも最近、というか昭和の頃に水戸藩家老の末裔の方が寄進したものらしい。それにしてはやけに古ぼけてよく馴染んでいる。


観音堂
登ってくるときに見えた建物は観音堂で、この建物も昭和の頃に再建されたものだが、
「月居峠の戦い」の際に麓に避難させた観音様が再びここに戻って祀られている。なお、けっこう窮屈な場所に建っている為、納得のいく写真が撮れなかった。


前山の登山道
観音堂に参拝した後は前山に登る登山道をひたすら登り頂上を目指した。山道は先人によって造られた階段のお陰ですんなりと登れたが、急こう配がなかなかきつかった。


前山の山頂
ひたすら登った末に山頂に辿り着いたが、意外にも山頂を示すようなものは何も設置されていなかった。山頂からの景色は絶景ではあったが、目と鼻の先が断崖で足がふらふらの状態だとなかなか怖いものがあった。

2020年10月22日木曜日

暖冬の秋田旅行:白岩城(秋田県仙北市)

 2020年2月1日訪城。

例年通りなら2月頭の秋田内陸は豪雪のはずなのだが、今回は記録的な暖冬で2月だというのに雪が無く地面が見えているという異常事態だった。スキー場も冬だというのに営業できずに終わっており、こんな冬の秋田は生まれて初めて見た。

今回は祭りが目当てで一月前から旅行プランを立てて訪れたのだが、払田の柵のイベント等は雪不足で中止になっていたため計画を修正せざる得なかった。とりあえず、初日は今回の宿泊地の仙北市郊外のあきた芸術村に移動し、早めの昼食をとってから芸術村から比較的近い白岩地区へと移動した。

白岩は中世に戸沢氏重臣の白岩氏(下田氏)が治めていた場所で、近世の佐竹氏の時代には家臣の多賀谷氏がこの地に配置された。丘の上にある町の「前郷」は城下町だった場所で、今もその名残が所々残っている。

白岩城址(館山)
館山にある白岩城はこの日の祭りの舞台でもある為、装備さえきっちりしていれば登れると踏んで訪れたのだが、結局雪は全く無く冬用の重装備が無駄どころか重荷になってしまった。なお、画像奥の鳥居の場所が登山道入口である。


行人沢ルート
登山道は杉沢ルートと行人沢ルートに別れていたが、とりあえず「井戸の台」へと向かう行人沢ルートから登り、後で杉沢ルートから降りることにした。ちなみに画像の山道沿いに並んでいる缶の付いた棒は祭りで使用される篝火の台である。


井戸の台
何度か折れた山道をしばらく登ると「井戸の台」という比較的広い腰郭に出た。名前から言って明らかに水の手曲輪であるが、残念ながら井戸らしきものは見当たらなかった。


帯曲輪の土塁
井戸の台から更に山道を登ると帯曲輪にたどり着いたが、ここには仕切のような土塁が造られていた。なお、杉沢ルートとはここに来る途中で合流している。


帯曲輪の虎口
画像は帯曲輪に登ってから通ってきた虎口を振り返ったもの。虎口の先は帯曲輪の斜面を降る坂の為、何気にこの曲輪の防衛上の役割は重要である。


横堀(堀底道)
帯曲輪から更に登った先は横堀になって側面を移動しており、堀底道として通路の役目もあったものと思われる。


山の上の曲輪群
堀底道の途中から更に山道を登るとついに山の上の曲輪群へと到着するが、予想以上に大きな曲輪が4段に渡って階段状に連なっている光景はなかなか圧巻だった。主家の戸沢氏の居城と比べても劣らないほどの規模である。


土橋と空堀?
曲輪群は基本的に切岸で隔てられていたが、最高部の主郭跡手前はやや凹んでおり、ここだけは空堀を設けていたようにも見える。


空堀ではなく通路か?
ただ空堀ではなく通路のようにも見え、側面の坂に繋がっているので、ここは主郭に入る道を鍵の字に折る為の馬出に近い役割の区画だったのではとも考えられる。


主郭跡と古城神社
連郭式に連なった曲輪群の最高所が主郭跡で、広い曲輪の奥には古城神社が鎮座していた。遺構としては土塁の跡が確認出来たが、それ以外に特にこれといったものは無く、当時はこの広い曲輪の中に何があったのか非常に気になる。


巨木
主郭の中で一番目を引いたのが一本の巨木で、これがなかなか見事で圧倒された。木の種類までは確認できなかったが、麓にある看板にもこの木と思われるものが描かれている為、どこかしらかには情報があるはずである。


堀切
主郭背後の山塊に続く場所はしっかりと堀切で遮断されており、堀切の向こう側に曲輪は見えなかった為、これ以降は城外になるものと思われる。


杉沢ルートの腰郭
主郭跡の散策後は元来た道を戻って下山を開始したが、途中で杉沢ルートの方に移動した。分岐を少し下ると、井戸の台と同じくらい広い腰郭に出るが、こちらの曲輪の名称は無かった為、どのような役割があったのかは不明である。


腰郭から見た最も麓に近い曲輪
腰郭からさらに折れ曲がる山道を降っていくと、広くは無いがそこそこの広さの曲輪に出た。曲輪だと明確に判るものの中では最も麓に近い位置にあるため、杉沢ルートは本来の大手道で、この曲輪は大手の番所があった場所では無いだろうかと思われる。