2020年2月24日訪城。
棚倉町から矢祭町に戻って一泊した翌日は水郡線で再び水戸方面へと移動し、大子町で代替バスに乗り換える為に駅から出た。バスの待ち時間が勿体ない為、乗るバスは何本か後に回し、大子の街中を抜けて久慈川を渡った先にある鏡城を目指した。
鏡城は707年に近津明神のお告げを夢で見て近津神社を創建した藤原富得の居城と伝わっており、子孫は代々宮司を務めて中世には佐竹氏の家臣となっている。16世紀の白川結城氏の常陸侵攻時に家臣の関氏によって攻め落とされており、白河結城氏家臣の深谷氏が一時城代を務めたが、後の佐竹義篤の反攻で奪還されている。
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山倉稲荷神社 |
城のある山への登山口はおおまかに2つあるようだが、登りは山倉稲荷神社という目印がある南の尾根先から登った。
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南尾根 |
南尾根は一旦尾根に登ってしまえば緩やかな登りで歩きやすかったが、途中に画像のような岩場があって道が折り曲げられていた。尾根筋の道を登ってきた敵を迎撃するにはちょうどいい構造だが、見た感じでは自然石のため意図して造られた構造なのか偶然たまたまこうなっただけなのかは判断がつかない。
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尾根の分岐点 |
南尾根は途中で南東方面に伸びる尾根と合流し、北に鏡山があるため逆Y字型の構造になっている。今回は南東尾根も気になったので、鏡山に登る前に確認しておくことにした。
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南東尾根のピーク |
南東尾根は見た感じでは自然地形で、しばらく進むと南尾根よりも高いピークに辿り着いた。地形的には東に広がる山々と繋がっているが、このピークの先は急斜面になっており、実質ここで切断されている。
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南東尾根ピークからの眺め |
ピークの上は狭くハッキリ言って城の遺構らしいものは確認できないが、画像のように街の方面を眼下に見ることが出来たので、物見台があった可能性があるかもしれない。
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鏡山鞍部 |
南東尾根から再び合流点へと戻り北に進むと一旦鞍部になるが、ここでもう一つの登山道と合流している。また合流ポイントに城址の説明板も設置してあった。
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文化二年の供養碑 |
鞍部から更に進んで鏡山斜面の山道を登っていくと、途中に文化二年の供養碑があった。時代的には江戸時代で、ちょうど伊能忠敬が地図作成のために東海道付近を測量していた頃である。梵字でオンの後に「最勝三□讀誦供養」(※□は該当する漢字が見当たらなかった)と書いてあるので法要に関するものだとは思うが、何故ここにあるのかは謎である。
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雷神社 |
山道をしばらく登ると頂上の雷神社の鳥居が見えてくるが、鳥居の手前には帯曲輪があることが確認できた。ただ、この帯曲輪に至るまでは特にこれといった遺構は見られなかった。
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主郭 |
主郭部分は想像していたよりも広く、神社の東側には画像のように削平地が広がっていた。この主郭以外は小さな腰郭や帯曲輪でしか無い為、山城としてはかなりシンプルな構造である。
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帯曲輪 |
主郭の一段下に帯曲輪があり、北側は腰郭と合わせて三段になっているが、曲輪自体はかなり狭い。斜面がやや急なので年月の風化で削れたのかもしれない。
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鏡山南西麓の登山口 |
結局、見所は山頂の周囲にしか無かったので、ぐるりと見た後は下山した。帰りは鞍部から西側に降りる登山道を使ったが、こっちは雨水で道が削られていたりして意外と歩きづらかった。登山道を下りて行くと画像の畑のあたりに出てくるが、車道に出るまで農道や民家裏を通る為、予め知っていないと判り辛いかもしれない。