2019年1月20日日曜日

9月の3連休の旅:一戸城(岩手県一戸町)

2018年9月24日訪城。

九戸城の散策後、二戸駅前の通りで見かけたラーメン屋で昼飯を食べ、その後に二戸市の隣の一戸町へと向かった。目的地は一戸南部氏の居城だった一戸城である。

北館跡(一戸公園)
とりあえず城址北端にある北館の曲輪にまず向かったが、ここは今は水道タンクと公園になっているものの内部は草が茂って藪化しかけていた。城跡は町の東の段丘の上にあるため、街を見下ろすことができるはずだが草木のせいで眺望はまったくダメだった。


標柱
北館内部で藪を漕いでも見つからないと思ったら、城址の標柱は曲輪より一段低い帯曲輪の場所にあった。


三神社
この帯曲輪には「三神社」という神社があったが、横に立っている旗は秋葉山神社だった為、三社合祀神社のことかもしれない。


虎口跡?
この神社のある個所の帯曲輪から北館の内部に登る箇所があるため、ここが本来の虎口かもしれない。


北館の堀切跡
北館の東は山に続いている為、堀切で切られていたらしいが、堀切があった場所は今は国道が通っているため消滅している。


八幡館の堀切
北館から沢を挟んで南側に最も大きな曲輪の八幡館があり、この八幡館の堀切は画像の通りよく残っていた。この画像右側の上が八幡館の曲輪になるが、堀切についている階段から登ると民家の玄関前に出る。内部は今は民家と畑だったので写真には撮っていない。


神明社
八幡館から沢を挟んで南には主郭とされる神明館の曲輪があり、この内部は数段に別れていて主に畑になっていた。この神明館の曲輪の南西部の中腹に神明社があり、これが曲輪の名前の由来だと思われる。ちなみに神明館内部も一枚撮っていたはずだが、帰ってから確認したら何故か無かった。


常念館の南端部
神明館から沢を挟んで南には常念館があるが、曲輪は小さく、ちょっと離れているので城の南の方を監視するための出城なのだろう。実際、文献によっては常念館が一戸城から省かれている。なお、内部は住宅地でこれといったものは無かった。

2019年1月7日月曜日

9月の3連休の旅:九戸城(岩手県二戸市)

2018年9月24日訪城。

岩谷観音堂へと参拝した後は、九戸城の中枢へと向かうためにまず市街地化した三の丸の小路の奥にあるガイドハウスへと向かった。


九戸城ガイドハウス
ガイドハウスは地味に判り辛い場所にあり、車で来た場合は県道274号線から岩谷橋付近の交差点にある九戸城の案内表示に従って曲がり、進んだ先の裁判所前を右に曲がった奥の砂利道の所にある。文字通り九戸城をガイドしてもらえる場所であるが、軽く資料も展示しており、特にプロモーション映像はなかなかよく出来ているので一見の価値はある。


九戸城中堀
ガイドハウスの隣には九戸城の中枢を囲っていた堀が残っており、復元図では水堀になっているが、現状を見る限りでは泥炭堀だったと思われる。


二の丸と在府小路の間の堀跡
二の丸と在府小路の段丘の間の空間もかつての堀の跡で、今はここに車道が通っている。このため、観光客はここまで車で来てしまうようだが、この先に駐車場は無いため、二の丸大手口前に路駐している光景をこの日も何度か見かけた。一応、トラブルになるとまずいので車はガイドハウス前の駐車場に置いてきた方がいいと思う。


二の丸大手口
二の丸と在府小路の丘との間には土橋が架けられていたようだが、今は車道が横切っている為、土橋は破壊されている。現在、二の丸大手口へはこの車道から斜めに道が取り付けられており、ここから城の中枢に入ることになる。


本丸内堀
二の丸大手口から入って奥に進むと本丸を囲む内堀があり、画像では草で判り辛いが内堀の側面は石垣になっている。この辺りは蒲生氏郷によって改修された箇所で、九戸政実の頃は石垣では無かった。


本丸南虎口
本丸の南側の虎口は外枡形になっており、二の丸とは直接繋がっている。本丸東の虎口が大手門とされているので、特に記載は無いがこちらは搦手門なのだろう。


本丸東虎口
 本丸の東側の虎口は内桝形になっており、二の丸とは木橋で繋がっていたとされる。現在はここに何故か斜めに仮設の橋が架けられている。古城絵図などによればこちらが大手門だそうである。


本丸内部
本丸内部は二段になっており、今は境界部分に生垣が植えられている。本丸の土塁は内堀沿いにだけ造られており、3隅には櫓台の跡があった。本丸は段丘の端にあるため、眼下には三の丸跡の市街地が見える。


二の丸搦手口
二の丸の搦手口は堀底に降りる坂になっており、石沢館や若狭館の曲輪へは堀底を通って連絡していたようである。


二の丸と若狭館の間の堀底
この堀底がなかなかの曲者で、若狭館へ向かう場所は道が泥に埋もれており、すっかり靴が汚くなってしまった。


石沢館跡内部
なお、石沢館の曲輪の内部は画像の通り広く、現在は草原になっている。石沢館と若狭館は改修される前の九戸城の様子を色濃く残しているとされており、九戸政実の頃は南部氏特有の群郭式の縄張りの城だったと思われる。


若狭館跡内部
若狭館の曲輪も内部は広いが、こちらは石沢館と違って内部に木々が生えている。


松の丸内部
さらに離れた場所にある松の丸にも立ち寄ったが、ここの内部は二つに別れており、今は南側が公園、北側が墓地になっている。城の中枢からは離れているが、ここも本丸二の丸同様に福岡城時代に整備された曲輪だという。


松の丸の土橋
松の丸と在府小路は恐らく同じ段丘で、この間は深い堀で隔てられている。ここの堀は城内でもなかなかの深さで見応えがあったが、草木が邪魔で写真に撮るとその迫力が全く伝わらないのが悩ましい。画像はその堀に架かる土橋。

2018年12月9日日曜日

9月の3連休の旅:岩谷観音堂と九戸城の外堀(岩手県二戸市)

2018年9月24日訪城。

この日、八戸を後にした次は二戸へと向かった。ややこしいようだが九戸城がある二戸市である。

馬淵川と大崩崖
二戸市の九戸城がある一帯は川と険しい山で隔離された段丘の上にあり、この地域自体が天然の要害になっているため、豊臣軍6万の軍勢でも容易に攻めれなかったのはよく判る。画像の馬淵川は九戸城の西側の外堀でもあった。


白鳥川
城の北側は白鳥川が流れており、ここは渓谷になっていて城側は断崖なため取りつくのも難しい。

岩谷観音堂
この断崖の箇所に岩谷観音堂という名刹があり、以前来た時は見ていなかったので立ち寄ったものの、どうも写真で見たのと景色が違っており少々困惑した。


破損した岩谷観音堂
岩谷観音堂をよく観察してみると鉄製の橋の手すりが明らかに不自然に凹んでおり、状況から見て観音堂の上部の方の岩盤が崩落して破損したようだ。

2018年12月4日火曜日

9月の3連休の旅:八戸城(青森県八戸市)

2018年9月24日訪城。

八戸で一泊した翌日の連休最終日は朝はとりあえず八戸城へと出かけた。根城の方ではなく、八戸藩の藩庁だった城の方である。

八戸城址碑
八戸城の本丸跡である三八城公園は以前来た時と特に代わり映えはしていなかったが、変わっていたのは公園の近くにあった民家が駐車場になっていたくらいだろうか。


発掘現場
八戸市庁舎前では発掘調査が行われていたが、ここはちょうど二の丸堀よりも外側にあたるため城下町側である。パッと見では柱穴のようなものが見えるが、何の跡なのかは素人には分からない。


駅前の道路の付け替え
本八戸駅に降りていく道路は新しく東側に造る車道に付け替えるようで、計画の絵図が本八戸駅前の商店街に飾られていた。


新道路予定地
現場と見比べてみるとここから右の奥の方に新しい道が出来るようだ。しかし、現状だとまだ道を通せる状態じゃないので、右に見える龗神社の敷地を削るのだろうか?ちなみに今ある左の車道は八戸城本丸の内堀だった場所である。


新道路予定地
先の新道はこの場所に出てくるようで、そのまま直進して高架の手前の車道と繋がるようだ。なお、本八戸駅は左の画面外にある。


八戸城角御殿表門
ちなみに八戸城の一番の見所は現存する角御殿の表門で、棟門らしいが明らかに普通の棟門と構造が違う。

2018年12月2日日曜日

9月の3連休の旅:平良ヶ崎城(青森県南部町)

2018年9月23日訪城。

聖寿寺館から東へ少し行った場所にある山から南に伸びた舌状丘陵の先に平良ヶ崎城があり、これも南部氏のある意味居城であるため南部五ヶ城に数えられている。聖寿寺館は南部氏が普段住んでいる屋敷で、一方の平良ヶ崎城は領内の政治を行う役所であった。要するに今で言う家と仕事場の関係である。

堀切跡
聖寿寺館方面から来るとそのまま平良ヶ崎城の堀切跡に造られた車道に入るが、この車道はまだ未完成なのか丘の向こう側に行くと砂利道になる。平良ヶ崎城には昔まだデジカメが無い頃に一度訪れており、その時も堀切に道があったがこれほど広くはなかった。たぶん北曲輪側がかなり削り取られたと思われる。


北曲輪
北曲輪(北古舘)は現在は畑になっており、背後の山との境界は曖昧な状態である。


北曲輪から見た南曲輪
北曲輪側が高いため、そこから南曲輪(南古舘)をのぞいてみたがどうやら今は草が生える荒れ地のようだ。昔来た時にはここには学校が建っており、校庭の前に平良ヶ崎城の説明板があった。現在は立ち入り禁止になっているため、内部の詳細は判らないが、聖寿寺館のように発掘して整備する予定なのだろうか。


佐藤館跡の堀
聖寿寺館から平良ヶ崎城に来る途中の段丘端に佐藤館がある。聖寿寺館と同じく堀で段丘に曲輪を形成しているが、今は民家があるため内部は詳しく確認は出来なかった。平良ヶ崎側から見ると確かに段丘に切れ目が入っており、遺構図のように堀があることだけは確認出来る。

2018年12月1日土曜日

9月の3連休の旅:聖寿寺館(青森県南部町)

2018年9月23日訪城。

馬場館から奥州街道に沿って北に移動した先にあるのが聖寿寺館で、南部晴政の代まで長らく三戸南部氏の居城だった城である。

内堀東部(奥州街道)
奥州街道は聖寿寺館の内堀を通っており、この部分は堀底道として利用されていたことがわかる。


内堀北部
城跡は内堀の跡がよく残されており、台地上の内堀北部も画像のように畑などに利用されて残っていた。なお、画像の右側が主郭で白いものは城址の標柱。


鍛冶建物や納屋跡
過去に一度来た時は城跡は果樹園と民家だった記憶があるが、今回来てみたら城跡の建物跡が平面復元されていた。画像の建物跡は鍛冶を行っていた痕跡が発掘された鍛冶施設と納屋の跡だという。まだ、整備途中のようだが将来的には史跡公園になるんだろうか。


発掘現場
訪れたこの日もちょうど発掘調査が行われている真っただ中で、人の姿は見当たらなかったが、ロープが張られて立ち入りが制限されていた。


内堀北西部
発掘現場は立ち入り禁止なため、内堀を通って北西部に移動したが、この部分は車道等になっていない為、内堀の中では最も昔の状態を留めている箇所かもしれない。


館神
主郭北西隅には館神が祀られており、城にはほぼ必ずある祭祀や守護を兼ねた施設である。城が移転したり廃城になっても大抵祠等になって残るため、ある意味城の生き証人でもある。


井戸跡
主郭北西部は既にある程度整備したようで、井戸跡などが表示されていた。ここは穴のままだと安全上まずいと思ったのか、井戸跡の中は白い石で埋め尽くされていた。


史跡聖寿寺館跡案内所
聖寿寺館跡から少し三光寺側に移動した場所には新しく聖寿寺館の案内所が建てられていたが、内部はちょっとした歴史説明や発掘遺物の資料館にもなっていた。中では2~3組の観光客と地元民っぽい人々が訪れて閲覧しており、聖寿寺館跡が予想よりも興味を持たれていることが判ったのが意外だった。

2018年11月27日火曜日

9月の3連休の旅:馬場館(青森県南部町)

2018年9月23日訪城。

三戸城を散策後、馬淵川沿いに北上して馬場館跡へと向かった。馬場館は三戸五ヶ城の一つで、聖寿寺館が南部氏の居城だった頃に家臣の御宝蔵奉行の馬場吉武が館主を務めていた。


地獄沢土橋跡
三戸の街から馬場館のある段丘の上に登る道は山と川の間の狭い道で、これでも江戸時代の奥州街道であるが、実は馬場館が現役の頃は奥州街道はここを通って居なかった。馬場館にとってはここが搦手口であり、画像では判り辛いが沢の上に道を通している。地獄沢という名前が付いているのだから難所だったのだろう。(※名称は坂の下にあった処刑場からきている説もある)


稲荷神社
ちょうど搦手口を見下ろす絶好の位置に稲荷神社が祀られているが、今はもう氏子が居ないのか朽ち果ててしまっている。


馬場の郷
段丘の上は山裾の広い台地になっており、大部分が果樹園や畑となって残りは住宅地となっている。中央あたりに馬場の郷という集会所があり、ここのT字路を西側に曲がった場所に馬場館の標柱がある。


馬場館跡
当初はこの標柱のある民家のあたりが館跡だと思っていたが、台地全体が城の縄張りであるという。たぶん屋敷は今の民家のあるあたりにあって、残りは文字通り「馬場」や「的場」として使用していたのだろう。


本三戸八幡宮
馬場館跡の東端部には南部氏の守護神である本三戸八幡宮が祀られているが、八幡宮のある場所と馬場館跡の標柱のある台地の間は土取りで消滅してしまい、今は飛び地の独立丘陵みたいになってしまっている。


古町
馬場館の丘の北側の麓は「古町」と呼ばれているが、聖寿寺館や馬場館が現役の頃はここが三戸城の城下町だった。聖寿寺館が放火で焼失した後、現在の三戸城へ移転したため、城下町も現在の三戸の町へと移転したのである。ちなみに画像の「古町」の標柱の背後に見える丘が馬場館で、ちょうど丘への登り口に大手口(天神坂口)があるのだが、どうみても民家を通らないといけないため確認していない。