2019年11月18日月曜日

春の山梨の旅:勝山城(山梨県都留市)

2019年4月7日訪城。

躑躅ヶ崎の散策後、甲府市街に戻って昼食を取り、信玄公祭りの出店等を少し楽しんだ後に帰途についた。途中まだ明るい時間だったこともあって都留市の勝山城へと立ち寄った。

勝山城は元は小山田氏の山城だったとされるが、そのあたりの歴史は定かでは無い。1594年に甲府城の城主浅野長政の家臣の浅野氏重が城を築城(改築)し、川を挟んだ対岸の谷村城の詰め城として運用した時に現在の勝山城の形になったという。浅野氏の転封に伴い、勝山城の城主も鳥居氏、秋元氏に変わるが、1657年には廃城になっている。

麓の外堀
市街地から橋を渡って南からアクセスするとちょうど城の麓の外堀が確認できたが、広い幅で東西に伸びて川まで続いており、なかなか見事なものだった。


内堀
山道を登り始めるとすぐ左手に内堀が見えたが、内部は坂のようになっており、本来は堀底道の登城路のようにも見える。


川棚見張り台
山道を登っていくと、城の南東に突き出た尾根を回り込むように登っていくが、ここは川棚見張り台という曲輪跡だった。文字通りここから眼下に川が見えるのだが、現在は木々の関係で景色はイマイチである。


三の丸跡
山の中腹を過ぎたあたりで比較的広い曲輪にたどり着いたが、ここが三の丸跡だという。この辺りから山頂にかけて桜の木が植えられており、ちょうど満開に近い状態で綺麗だった。


二の丸跡
三の丸跡から一段上に登ると二の丸跡で、三の丸よりも小さく感じたが、どうやら後から確認してみたら画像の奥に行くと広くなるようである。


眼下に市街地を望む
この付近からは満開の桜越しに眼下の市街地を望むことができ、なかなかの絶景であった。なお、写真には写らないようにしているが、地元の方と思われる人々が何人か花見と景色を楽しんでいた。


本丸石垣
二の丸から本丸に登る道を進むと石垣の角石が急に見えて、かつてこの山が近世山城だったことを物語っていた。山自体はかなり急峻なので切岸だけでもかなりの要害だったと思うが、土留も兼ねて石垣を使用したのだろうか。ちなみに勝山城の絵図を見ると本丸は当時は3方向を石垣で構築していたようである。


本丸跡
山頂の本丸はそこそこ広く、南西の土塁(櫓台か?)のあたりには東照宮が祀られていた。山頂には城址碑の他に説明版もあり、城の歴史関係はここに書かれていた。なお、縄張り図については麓の説明板の方にだけ描かれている。


山頂の桜
山頂の斜面には桜が植えられており、ちょうど満開で綺麗だったが、何よりもその立地が既に絶景でった。ちなみに山頂からも城下が見下ろせて眺めはいいが、山の逆側は針葉樹のせいで視界が全く効かない。


焔硝蔵跡
山から北東に伸びる尾根の中腹に焔硝蔵跡があるが、目で見て分かるのは平場があることだけである。ちなみにこの更に下に源生見張り台があるが、この時は降りる道が分からず確認出来なかった。


本丸北側の石垣
山の北西に伸びる尾根にある大沢見張り台に向かう途中、本丸の北斜面を通るが、ここでは現存する石垣が確認出来た。確認する限りでは、本丸は野面積みの石垣で、角石だけ加工した石が使用されていたようである。


北腰郭の石垣
本丸から北に少し下った場所の腰郭にも石垣が使用されていた形跡が残っており、当時の記録によると宇治から江戸に運ぶ御茶壷を保管しておく重要な曲輪がここだったようである。


竪堀と堀切
大沢見張り台に向かう途中には城内で一番ハッキリ残る堀切があり、両側は竪堀で削っていて見事なものだった。


大沢見張り台
大沢見張り台は他の見張り台よりも広く、帯曲輪も付随しており、他の見張り台とは一味違う役目があったように感じられる。なお、現在は木々で視界が遮られているため、眼下の眺めは悪い。