2016年10月23日日曜日

安芸城 (高知県安芸市)

2016年9月24日訪城。

高知城散策後に本当は岡豊城に行く予定だったが、岡豊行きのバスの時間が長く空いてしまった為、高知市電とくろしお鉄道を乗り継いで安芸市にある安芸城へと向かった。

安芸城は1308年頃に安芸親氏によって築かれた平山城で、土佐七雄の安芸氏代々の居城である。安芸氏は1569年の八流の戦いで長宗我部氏に敗れ、安芸城に籠城するも進退窮まり、領民家臣の助命を条件に自決して滅亡した。長宗我部氏の改易後に土佐に入った山内氏は、五藤為重を安芸城に配置し、五藤氏は安芸城の平野部を改修して屋敷とした。


武家屋敷の通り
武家屋敷のあったあたりは今もその雰囲気を残しており、観光マップ等では「土居廓中」と呼ばれていた。生垣のある画像の通りが印象的だったが、道の先は袋小路なので安芸城に抜けるには途中の十字路を曲がる必要がある。


武家屋敷の野村家
武家屋敷の通りで唯一一般公開されているのが野村家で、塀重門という内門を設けていたり、入口のあたりが狭かったりするのが武家屋敷の工夫のようで特徴的だったが、建物自体はけっこう空間があって暮らし易そうであった。


安芸城の堀と桝形門
安芸城の平野部には内堀と土塁と石垣が残っており、桝形門と周辺の石垣は五藤氏が来た頃に築かれたものだという。


歴史民俗資料館
廓の内部には歴史民俗資料館と書道美術館があり、後者の方は何やら工事中だった。歴史民俗資料館の展示は安芸市出身の有名人の展示がメインで、安芸氏に関しての展示も少しだけあった。


城山の麓の石積み
城山の麓部分にも石垣があるが、五藤氏の石垣よりもやや不揃いな野面積みのため、もしかすると長宗我部時代の護岸用の石積みかもしれない。


城山の本丸
城山は小高い独立丘で、登るだけなら3分とかからずに頂上まで登れる。内部は土塁と横堀のシンプルな造りで、今も遺構がハッキリ確認できた。


本丸に残る石積み
本丸の北側には古い石積みが残っており、これは明らかに粗さが目立つため長宗我部氏か安芸氏が築いたものだと思われる。

2016年10月16日日曜日

山内家下屋敷跡 (高知県高知市)

山内家下屋敷跡には現在は温泉旅館の三翠園があるが、ここには下屋敷の長屋が現存していて内部を見学できた。


長屋の外観
外観は御城の多聞櫓と比べても遜色の無いもので、さすがは山内家の使用人の長屋といった感じである。内部を見学するには三翠園の門を潜って右側に行く必要がある。


長屋の内部
長屋の内部は部屋ごとに分割されており、ひとことで言うならアパートであるが、内部は下手なアパートよりも広かった。

2016年10月15日土曜日

高知城 その2 (高知県高知市)

2016年9月24日訪城。

前日夜景を見た高知城へ次の日は朝から向かった。現存天守は大体お昼前後から15時くらいにかけては他の観光客や団体客が殺到して大変な目に会うからだ。


高知城の水堀
城下町とお城の間には水堀が残っており、ここを渡って城内に入るのだが、高知県庁のあるあたりからはフェンスで仕切られて休日は城内に入れない袋小路になっているため注意が必要。(南から向かったため見事に罠にかかった)


橋廊下(詰め門)
夜は閉鎖されていた詰の門だが9時からは開放されている。外から見るとまるで櫓門だが、上部は二の丸と本丸を繋ぐ廊下橋なのが面白い。


黒鉄門
本丸の逆側には黒鉄門があるが、この門も出入り口が片側に寄っていて面白い。


見張り用の狭間
本丸内部は門の他にも多聞櫓に本丸御殿、天守閣と現存する建物が多かったが、中には他の城では見たことのない造りもあった。それが土塀に見られる「見張り用の狭間」で、矢狭間や鉄砲狭間からだと、戦場の様子が分かり辛いため設けられたのだという。


天守から見た城下町
やはり早い時間だと御殿内部も天守閣内部もほとんど人が居ないため、すんなりと見て回ることが出来た。天守閣最上階からは城下町を見渡すことが出来たが、少し曇った感じの天気だけは残念だった。


天守から見た二の丸
天守閣から見下ろすとよくわかるが、現存する建物のほとんどが本丸に集まっており、二の丸や三の丸は今は広い空き地状態である。


太高坂城時代の石垣
なお、三の丸のその空き地の一画には、発掘調査で出土した大高坂城時代の石垣が露天展示されていた。この石垣は長宗我部元親が築いたもので、確かに山内一豊の築いた石垣よりも荒くて古いタイプの野面積みである。


御台所屋敷跡
他、城の西側の御台所屋敷跡付近は今も発掘調査を実施しているためか、辺り一帯立ち入り禁止となっていた。

山内一豊像
余談になるが、山内一豊の銅像は画像のように立派な装いだが、観光客に気づかれないような立地場所にあった。妻の千代と馬や板垣退助の銅像は追手門から本丸に向かう道中にあるだけに余計泣けてくる。

2016年10月9日日曜日

高知城 その1 (高知県高知市)

2016年9月23日訪城。

四万十市から移動して高知市に着く頃にはすっかり夜になっていたが、そのままの足で高知城の夜景を見に向かった。

高知城は、長宗我部元親の築いた大高坂山城を改築して山内一豊が1601年に築いた近世城郭で、以後は山内氏代々の居城、後に土佐藩の藩庁となって明治時代まで続いた。高知城の天守閣は現存十二天守の一つ。


二の丸から見た天守閣と詰門
高知城はライトアップされており、夜間でも二の丸までは行くことが出来た。ただ、足元が暗い場所が多いため、階段の移動は少々苦労した。


追手門
ライトアップで天守閣の次に見栄えが良かったのが追手門で、夜でも意外と人がここを通るのが意外だった。

中村城 (高知県四万十市)

2016年9月23日訪城。

四万十川の散策後、再び市街地に戻って今度は一条氏の詰めの城である中村城跡へと向かった。


中村御所から見た中村城
市街地の中心にある中村御所跡(一條神社)から見て北西にある山が中村城跡で、郷土資料館の模擬天守閣が城下からも確認できる。


東城跡
裁判所等があるあたりから山頂まで車道が伸びているため、ここから登るとまず最初に東城跡の郭を通る。いわゆる中村城の中腹の出丸のような場所で、ここには土塁が残っていた。



中村城址碑と現存石垣
車道を登り切った場所は堀切になっており、そこで現存する石垣が確認出来た。堀切をそのまま抜けると山の裏側に下山するようである。


模擬天守の展望台から見た城下
堀切から案内に従って郷土資料館に向かうと、主郭の端の立派な土塁に囲まれた中に郷土資料館の模擬天守閣が建っていた。中は中村城についての展示もあったが、基本的に四万十市の歴史資料についての展示施設である。ここの最上階からの眺めはなかなかの絶景だった。


本丸跡(為松城)
資料館のある郭から堀切と土橋跡を通って登った山頂が本丸跡で、元々は為松氏が居城としていたため、この場所を為松城とも呼称していた。現在は遊具がある公園で、ここから今城跡まで雛壇状になった公園が続いていた。


中の森の端?
公園化のためかどうも資料館で見た地形と一致しなかったのだが、公園の端には今城とあった。だが、地形的には中の森の端に見えるのだが、どうなんだろう?


不明郭
最初に辿り着いた堀切の東側に本丸や資料館のある郭があるのだが、堀切の西側にも比較的広い郭がある。だが、謎なことに資料館の地形図にはこの部分が描かれていなかった。今は桜の木があるみたいなので花見の場所に利用されているのだろうか。

2016年10月1日土曜日

渡川古戦場と佐田沈下橋 (高知県四万十市)

この日はレンタサイクルで四万十川沿いを散策するのが目的だったため、市街地中心から一旦赤い鉄橋を渡り、そこから川上に向かって移動した。


渡川古戦場
赤い鉄橋を渡ってすぐの場所に「渡川古戦場跡」の石碑と説明板があった。渡川古戦場は長宗我部元親によって九州に追いやられた一条兼定が、大友氏の援助で舞い戻って再起をかけて戦った戦場で、一条軍3500と長宗我部軍7300がぶつかったが、一条軍の完敗で決着が着いた。


古戦場跡の風景
画像の対岸に長宗我部軍が布陣し、こちらに向かって渡河してきたという。一条軍は川を渡っている最中の長宗我部軍に向かって弓矢を射かけたが、長宗我部軍にほとんど死者が出ていないというのが恐ろしい。


佐田の展望台から見た沈下橋
自転車で上流に向かって進むと川船の船着き場当たりから道が山道のようになり、その途中の展望台からやっと四万十川名物の沈下橋を望むことが出来た。ちなみに道中の河川敷に彼岸花の名所があったそうなのだが、河川敷の工事車両以外通行止めのおかげで見逃してしまった。


佐田沈下橋
沈下橋は川の増水時に川底に沈む橋で、流木などがひっかからないように欄干などの突起物が一切無い。佐田の沈下橋は四万十川の最も下流にあって、距離も一番長い。対向側から車が来ないうちに急いで渡ったが、けっこうヒヤヒヤするものがあった。


さこや
沈下橋を渡った後は橋の近くの食堂でアオサのそーめんと鰻を食べた。鰻は天然と養殖の2種類あったが、さすがに2種類頼むほどブルジョアじゃないため天然の方だけいただいた。鰻は天然ものだからなのか関西焼きだからなのかは分からないが、とにかく弾力がある食感が印象的だった。

中村御所 (高知県四万十市)

2016年9月23日訪城。前日天候に悩まされただけに、出発直前まで天候をチェックしてから四万十市を訪れた。

まず向かった先は市街地の中心にある一條神社で、中村御所の跡でもある。中村御所は1468年に一條教房が京より幡多の荘園に下向して築いた館で、正確には神社のある丘の周囲の平地にあった。

一條神社
画像のすぐ左はアーケード街で、一條神社はまさに街の中心にある。神社の本殿がある場所は小高い独立した丘で、丘の中腹に神主さんの御自宅と思われる家があり、そこの中庭に当時の化粧井戸が残されていた。


丘の頂上の境内
丘の上は菱形に近い形の平坦地になっており、一條神社の本殿と天神社の本殿と、倉?のような建物が建てられていた。中村御所の当時は維摩堂という宗教施設があったようだ。


説明板
一條神社の本殿のそばに説明板があり、これを見ると御所が丘を中央に置いた方形の館という面白い縄張りだったことがわかる。