2020年10月25日日曜日

暖冬の秋田旅行:白岩平城(秋田県仙北市)

 2020年2月1日訪城。

白岩氏は1590年に山城の白岩城を破却して城下町と同じ段丘上の平城に居城を移したとされるが、城下町と城を隔てる大規模な空堀の存在から見て、恐らく元々段丘の西が城下町、東が根小屋のエリアだったと思われる。


大空堀
城下町と平城は南北約700mほどの長さの空堀によって隔てられており、幅はだいたい50~80mほどある。当初は沢を加工したものかと思ったが、地形を見て周るとここに南北に沢が出来るのは不自然で、人為的に掘った空堀が雨水で更に削られた跡だと思われる。


城口稲荷神社鳥居
大空堀東側に接する段丘上やや北寄りの場所に白岩氏の平城跡があり、こちらは今は城口稲荷神社が鎮座している為わかりやすい。城口稲荷神社は名前から言って、元は門脇あたりに鎮座していた城の守護神だろう。居館跡がそのまま神社の境内になっているなら、鳥居のある位置が門跡なのかもしれない。


城口稲荷神社
城口稲荷神社は小さな御社で、覆堂は近代に造られたものだろう。中身は確認できなかったが、もしかすると当時のままかもしれない。


居館跡中枢?
神社の境内はほぼ方形の雑木林になっており、恐らく境内全域が居館跡のあった場所ではないだろうかと思われる。一応、土塁の痕跡もあるが、崩されたのか全体的に不鮮明である。

2020年10月24日土曜日

暖冬の秋田旅行:多賀谷平城(秋田県仙北市)

 2020年2月1日訪城。

白岩城の麓から小川を挟んですぐの段丘上には、佐竹氏家臣の多賀谷氏がこの地の領主だった頃の居館跡がある。白岩氏が段丘上に設けていた居館跡は利用せずに、同じ段丘上の別の位置に新築しているため、領民に新領主であることを明確に伝える等の意図もあったのだろうか。

城跡?
ただ、城跡想定地の段丘は開墾されていたり、開墾された後に荒れ地になった跡だったりして明確な痕跡は見当たらなかった。画像は想定地のやや北寄りの箇所で、奥に見える山は白岩城。

城跡?
画像は想定地のやや南寄りの箇所で、今は水田で北側よりやや高くなっている。画像右奥の外側には民家があるが、むしろそのあたりが居館跡かもしれない。


薬師堂
民家の脇の林の中には薬師堂があり、居館の跡地に寺や神社(祠等も含む)がよくあることを考えると、ここが多賀谷氏の居館跡の可能性が高い気がする。ただ、何にせよ城館跡のハッキリした遺構は見つけられなかった。


2020年10月22日木曜日

暖冬の秋田旅行:白岩城(秋田県仙北市)

 2020年2月1日訪城。

例年通りなら2月頭の秋田内陸は豪雪のはずなのだが、今回は記録的な暖冬で2月だというのに雪が無く地面が見えているという異常事態だった。スキー場も冬だというのに営業できずに終わっており、こんな冬の秋田は生まれて初めて見た。

今回は祭りが目当てで一月前から旅行プランを立てて訪れたのだが、払田の柵のイベント等は雪不足で中止になっていたため計画を修正せざる得なかった。とりあえず、初日は今回の宿泊地の仙北市郊外のあきた芸術村に移動し、早めの昼食をとってから芸術村から比較的近い白岩地区へと移動した。

白岩は中世に戸沢氏重臣の白岩氏(下田氏)が治めていた場所で、近世の佐竹氏の時代には家臣の多賀谷氏がこの地に配置された。丘の上にある町の「前郷」は城下町だった場所で、今もその名残が所々残っている。

白岩城址(館山)
館山にある白岩城はこの日の祭りの舞台でもある為、装備さえきっちりしていれば登れると踏んで訪れたのだが、結局雪は全く無く冬用の重装備が無駄どころか重荷になってしまった。なお、画像奥の鳥居の場所が登山道入口である。


行人沢ルート
登山道は杉沢ルートと行人沢ルートに別れていたが、とりあえず「井戸の台」へと向かう行人沢ルートから登り、後で杉沢ルートから降りることにした。ちなみに画像の山道沿いに並んでいる缶の付いた棒は祭りで使用される篝火の台である。


井戸の台
何度か折れた山道をしばらく登ると「井戸の台」という比較的広い腰郭に出た。名前から言って明らかに水の手曲輪であるが、残念ながら井戸らしきものは見当たらなかった。


帯曲輪の土塁
井戸の台から更に山道を登ると帯曲輪にたどり着いたが、ここには仕切のような土塁が造られていた。なお、杉沢ルートとはここに来る途中で合流している。


帯曲輪の虎口
画像は帯曲輪に登ってから通ってきた虎口を振り返ったもの。虎口の先は帯曲輪の斜面を降る坂の為、何気にこの曲輪の防衛上の役割は重要である。


横堀(堀底道)
帯曲輪から更に登った先は横堀になって側面を移動しており、堀底道として通路の役目もあったものと思われる。


山の上の曲輪群
堀底道の途中から更に山道を登るとついに山の上の曲輪群へと到着するが、予想以上に大きな曲輪が4段に渡って階段状に連なっている光景はなかなか圧巻だった。主家の戸沢氏の居城と比べても劣らないほどの規模である。


土橋と空堀?
曲輪群は基本的に切岸で隔てられていたが、最高部の主郭跡手前はやや凹んでおり、ここだけは空堀を設けていたようにも見える。


空堀ではなく通路か?
ただ空堀ではなく通路のようにも見え、側面の坂に繋がっているので、ここは主郭に入る道を鍵の字に折る為の馬出に近い役割の区画だったのではとも考えられる。


主郭跡と古城神社
連郭式に連なった曲輪群の最高所が主郭跡で、広い曲輪の奥には古城神社が鎮座していた。遺構としては土塁の跡が確認出来たが、それ以外に特にこれといったものは無く、当時はこの広い曲輪の中に何があったのか非常に気になる。


巨木
主郭の中で一番目を引いたのが一本の巨木で、これがなかなか見事で圧倒された。木の種類までは確認できなかったが、麓にある看板にもこの木と思われるものが描かれている為、どこかしらかには情報があるはずである。


堀切
主郭背後の山塊に続く場所はしっかりと堀切で遮断されており、堀切の向こう側に曲輪は見えなかった為、これ以降は城外になるものと思われる。


杉沢ルートの腰郭
主郭跡の散策後は元来た道を戻って下山を開始したが、途中で杉沢ルートの方に移動した。分岐を少し下ると、井戸の台と同じくらい広い腰郭に出るが、こちらの曲輪の名称は無かった為、どのような役割があったのかは不明である。


腰郭から見た最も麓に近い曲輪
腰郭からさらに折れ曲がる山道を降っていくと、広くは無いがそこそこの広さの曲輪に出た。曲輪だと明確に判るものの中では最も麓に近い位置にあるため、杉沢ルートは本来の大手道で、この曲輪は大手の番所があった場所では無いだろうかと思われる。


2020年10月21日水曜日

郡山市街と湖南地方への旅:亀山城(福島県郡山市)

 2019年12月15日訪城。

鶴山城への突入を断念した後、鶴山城と対になっている亀山城にも向かった。亀山城は1261年頃に宗像氏によって築かれた城館で、宗像氏は866年に九州から陸奥国安積郡の西部に入植したのが始まりなので伊東氏よりも遥かに古くからの土着勢力である。この地方の鎮守である隠津島神社は宗像氏が宗像大社から勧請したもので、先に立ち寄った小倉城の小倉神社もこの神社の系統である。


亀山城
福良の古町から見て北西側の菅川を挟んだ対岸に小さな島のような丘があり、ここが亀山城と伝わっている。ただ、一見すると不自然な長方形をしており、例えるなら大宰府の水城の防塁のような感じである。


亀山城周辺
国土地理院の地図を見ると亀山城の丘を含めてL字に不自然な高低差があり、つまり画像の右に見える城址の丘は本来はもっと左側に伸びており、画像左の民家のある部分まであったのではと思えてくる。なお、画像奥の地名は「穴尾」で弘法大師に退治された大蛇が逃げ込んだ穴があった場所という由来がある。恐らく穴尾は宗像氏の居館があった場所で、そこを囲むように高い塁壁があった為、塁壁の隙間の入口を「穴」に見立てたのではないだろうか。


丘へ登る階段
丘は東端部に階段が付いており、そこから上に登れるようになっていた。階段があるということは上に何かあるということだが、この時点では事前情報でも地図でも情報を得られておらず何があるか分からなかった。


斎藤稲荷大明神
丘の上にあったのは斎藤稲荷大明神という小さな社で、恐らく斎藤家の氏神を兼ねた稲荷神社か。とりあえず亀山城とは無関係と思われる。


丘の上
丘の上は平場になっているが、幅が5mあるかどうかというレベルで、とてもじゃないがこの上に建物があったとは思えない。やはり丘自体は塁壁で、居館は北側の平地にあったのではないだろうか。ただ、いち地方の土豪が築いた土塁にしては大きすぎる為、元は西の山から伸びた岬状の丘だった可能性もある。


2020年10月19日月曜日

郡山市街と湖南地方への旅:福良宿と鶴山城(福島県郡山市)

 2019年12月15日訪城。

新城から下山後、福良宿の本陣があった場所と福良が城下町だった頃の初期の城である鶴山城へと向かった。鶴山城は新城が出来るよりもずっと前の城で8世紀頃に築城されたというが、だれが築いたのかは不明である。その後、湖南地方に進出した安積伊東氏一族の城となり、最後の城主は伊東玄蕃と伝わっている。


福良宿
福良宿は西から順に古町、中町、荒町と並んでおり、画像は荒町のL字カーブから古町方面を見た景色。元々は古町が城下町だった場所で、城下町と鶴山城との間には中川が流れて水堀に近い役割を果たしていたという。


本陣入口
福良宿の本陣は荒町の中町寄りの場所にあり、街道沿いに画像のような標柱が立っている。本陣跡はこの民家と民家の間の狭い道を通った先にあり、標柱が無ければ絶対気付かないレベルである。


本陣跡
本陣跡といっても今は石碑と祠があるだけで、建物などは全く残っていない。なお、福良宿の本陣は主に会津藩が利用したもので、他の藩や巡見使は三代宿の本陣を利用した。



中川
中町と荒町の間には中川が流れており、元々は城下町と御城との間を流れる唯一の川だったが、度々氾濫を起こして町屋と田畑に被害を出したという。この為、15世紀頃に蘆名氏から秦を名乗る土木技師が派遣され、菅川という人工河川を新たに西の山際に造った。これにより水量の大半は菅川に流れ、中川は画像のとおり水路のような小川となった。


鶴山城の斜面
福良宿の北側で中川を越えた先にある岬状の丘が鶴山城で、名称は福良の西にある亀山城と対になっており、当時の領主(伊東氏?)が縁起を担いで名付けたという。肝心の丘は登り口が分からず、結局丘に登るのは断念した。一応、丘の先端付近は藪が薄かったので、無理すれば登れるとは思う。


鶴山城遠景
文献によれば別名を鬼渡城とも言いい、今は鬼渡神社が鎮座していると記載があるが、パット見た感じでは丘の上に社殿があるようには見えない。ただ、南側から見た時に丘の中腹あたりに鳥居が見えたので、神社自体は存在してそうである。画像は遠景で判り辛いが、右側奥の民家の屋根の向こうに鳥居が見えている。ただ、そこに行くには民家の中を通っていかねばならない為、結局確認は出来なかった。


2020年10月17日土曜日

郡山市街と湖南地方への旅:新城(福島県郡山市)

 2019年12月15日訪城。

福良の集落に到着した後は、一旦昼食を取り。その後に集落の背後に聳える山の上にある新城へと向かった。新城は中地伊東氏が築いた城とされ、最後の城主は伊東盛恒と伝わる。中地伊東氏の本拠地の中地は蘆名氏の命で新国信濃守が治めていた時期があり、想像になるが恐らくその時に福良に移った中地氏が新たな居城とすべく築いたのが「新城」なのではないだろうか。

わかの屋
昼食は福良の集落に南側から入ってすぐのとこにあった「わかの屋」で食べた。洋食和食中華のオーソドックスなレストランで、半日野山を歩き回っていたせいもあって飯が美味かった。


愛宕神社鳥居
城跡の大手口はよく判らなかった為、新城跡に現在鎮座している愛宕神社の参道から登ることにした。福良の町がL字に折れ曲がる場所のちょっと南側に参道の入口があるが、ここにある鳥居の幅が高さに比べて極端に狭い為、何気に衝撃的だった。


参道の階段
参道は山の急斜面を一直線に登っており、踏み段の幅が狭くて地味に踏み外しそうなのが怖かった。階段は高低差約80mを一気に登っており、この日の前半に野山を歩き回った疲れもあって息が上がり大変だった。


帯曲輪
階段を登り切ると主郭の下の帯曲輪に到着するが、やっと主郭跡にある愛宕神社の社殿が見えてくる。


愛宕神社
まずは主郭跡の愛宕神社に参拝するが、神社自体は主郭の南西隅を削って掘り下げて建てられたような感じだった。画像の左に見えるのは土塁ではなく、上が主郭の地面である。


帯曲輪南側
神社から主郭跡には入らず、一旦帯曲輪に降りて曲輪伝いに東へと移動する。画像の左手に見えるのが主郭の切岸と土塁になる。


南東側の尾根
帯曲輪から南東側の尾根に分岐する箇所は、普通なら堀切を置きたいところだが、残念ながら堀らしきものは見当たらなかった。後で資料を確認したらもうちょい先にいった場所に堀っぽいものがあるようだ。


古い墓地
帯曲輪の東端に急に古い墓地が現れて驚いたが、周囲の雑木林と違ってちゃんと手入れが入っている形跡があり、定期的にここまで人はやってきているようだ。未確認だが恐らく麓の感鷹寺の裏あたりからここまで登る道があるような気がする。


主郭枡形虎口
愛宕神社から主郭に入らずにわざわざ帯曲輪を移動したのは訳があって、主郭の北東にある虎口から中に入りたかったのである。この虎口の部分は小さな枡形になっており、やはり安積郡で激化する戦闘に備えて以前よりも城を強固にしようという意思が見て取れる。ただ、どうも上手く写せなかった為、画像のようによく判らない絵になってしまった。


主郭
主郭跡は東西に伸びたやや長方形に近い形で、曲輪の南半分にハッキリと土塁が残っていた。内部は雑木林で、山の山頂にも関わらず視界が遮られて展望は全く利かない。



主郭跡の中央には祠が一つあり、恐らく山頂だからこの山の神を祀っているのだろう。もしかすると元は城の守護神だったものかもしれない。


二の曲輪跡
主郭から北西に一段低い場所に二の曲輪があり、比較的広いが内部は主郭跡同様に雑木林である。北端部に虎口があるらしいが、残念ながらこの時は確認し忘れた。恐らくこっちの虎口の先は麓の長泉寺に繋がっている気がする。

2020年10月13日火曜日

郡山市街と湖南地方への旅:三代の一里塚と三王峠(福島県郡山市)

 2019年12月15日訪問。

満福寺からは山裾の農道伝いに西に移動し、三代宿(御代宿)の町はずれから再び街道に戻った。今度は会津五街道の一つの白河街道で、会津藩から江戸に向かう正式ルートで、古くは豊臣秀吉も通った道である。

三代宿(御代宿)遠景
農道を歩いている時に遠くに見た三代の町は江戸時代には三代宿として栄えた場所で、この宿場町の南には白河街道の難所の勢至堂峠があるため、峠越えのための重要な拠点であった。今回は町をスルーしてしまったが、いずれはちゃんと散策してみたい。


京塚(経塚)
農道から街道に出た場所の近くに小さな丘があったが、この丘は京塚というらしく、そのまま住所の地名にもなっていた。平安時代に末世思想がはびこった頃、経典を未来に残そうと埋めた場所らしく、要するに「経塚」の事である。


三代の一里塚
京塚の隣にえびな食堂があり、その駐車場?に白河街道の一里塚が残っていたが、街道を挟んでいた2つの塚が完璧に近い形で現存しており、なかなか貴重なものを見れて感動してしまった。一里塚の大半は国道整備の際に破壊されており、残っていても片側の塚のみというのも多いため、両側が残っているのは非常に珍しい。


三代宿(御代宿)入口
一里塚の西側の方には御代宿の看板があるが、三代宿も御代宿も読み仮名は「みよ」の異字体である。なお、画像中央左の建物の隣に一里塚があるため、旧街道は現在の車道ではなく左に見える看板の方向に向かって伸びていたことになる。そして一里塚を通った先で京塚にぶつかる為、そこで鍵の字に折れていたものと思われる。


三王峠入口
三代宿から会津方面へと街道を進むと三王峠があるが、今はトンネルが通っている為わざわざ峠越えをする車は居ない。画像の左の車道が国道294号でこの先にトンネルがあり、峠は右の脇道の先にある。


三王峠
峠道はトンネルが出来るまでは現役だった為、当然舗装もされているが道はなんとなくせまく感じる。峠のピークはやや切通のようになっており視界は悪い。三王峠という名前だけに山王権現でも祀ってあるのだろうかと思ったが、それらしきものは見当たらなかった。なお、地図を見ると八幡の文字もあるため、八幡様も近くに祀っていたのではないだろうか。


三王峠の出口
峠を越えて道を降ると再び国道294号に合流するが、結局道中にはこれといって面白いものは見当たらなかった。