2021年2月21日日曜日

九州の西半分ついで旅:唐津城・その1(佐賀県唐津市)

 2020年8月4日訪城。

福岡県での用事を済ませた後は佐賀県での用事の為、筑肥線に乗って唐津へと移動し、ここでは空き時間を利用して唐津城跡へと向かった。唐津城は唐津藩の藩庁で、1602年に寺沢広高によって築かれたという。


三の丸隅櫓(辰巳櫓)
唐津城の三の丸は今は市街地と化しているが、曲輪の外周部の遺構はよく残っているようで、三の丸の南東隅には辰巳櫓が復元されていた。オリジナルは明治時代に取り壊されたようだが、石垣修復後の平成四年に復元されたという。


三の丸の石垣(南東部)
隅櫓から西に向かって石垣は続いており、画像の駐車場のあたりで途切れる。ちなみに画像左の駐車場部分は昔は水堀だった場所で、絵図には「柳堀」という名前が付いている。


旧唐津銀行
石垣が途切れた先にはこれまた歴史ありそうな建物が建っており、明治45年頃に建てられたかつての唐津銀行の建物だという。場所としては水堀跡の上に建っている為、震災などに弱そうな感じがするが、よく現代まで残ったものと思う。


三の丸大手門跡
唐津城の絵図によれば旧唐津銀行から西に少し向かった先で三の丸の塁線は北側に鉤の字に折れているが、ちょうどこの位置にかつては三の丸の大手門があった。現在は石垣も何も確認できないためサッパリだが、交差点の名前が「大手口」になっている箇所の道が明らかに歪んでおり、ここに大手門跡があったことが伺える。


模擬櫓(トイレ)
大手口交差点から唐津バスセンターを越えて西に行くと再び石垣が復活する。この石垣の上に平櫓っぽい建物が建っているが、これは櫓を模したトイレであって復元ではない。


肥後堀
石垣が復活した箇所には水堀もあるが、実はこの堀は廃城後に一度埋め立てられており、平成元年に石垣を修復した際に元の水堀へと復元したのだという。


三の丸隅櫓跡
肥後堀から先は再び堀が埋まってしまうが石垣は続いており、画像の櫓台の場所で三の丸の南西隅に到達する。ここから石垣は北に向きを変えて続いていく。


三の丸石垣(南西部)
ただ、石垣が続いているのは確認できたものの、西部の方は住宅地の裏側に入ってしまうため、確認は南部のようにはいかなかった。


三の丸西の門跡
とりあえず、西側の石垣が続いているのは確認出来、北西部まで行くと画像の三の丸西の門跡も確認出来た。画像の左側が外側で、右側の方にかつては城門があったようである。手前の車道部分がかつての道で、本来は右側で城門に向かって道が折れ曲がっていたが、現在は桝形になっていた内側の石垣が消滅して道は真っ直ぐになっている。


石垣の上
西の門跡の石垣の内側には階段が付いており上に登れるようになっていた。上の方はコンクリートで舗装されて転落対策と思われるフェンスまで設置されていたが、ここまでガチガチなのはなかなか珍しい気がする。


三の丸北西隅の櫓台から東を見る
石垣の上を進むと三の丸北西隅の櫓台へと到達する。ここから石垣は東へと向きを変えて画像のように続いているが、残念ながらここから下に降りることは出来ない為、元来た道を戻って石垣から降りてから北側に向かう。なお、画像の右側が三の丸で、左側は元は城外の砂浜だった。絵図を確認する限りでは北側の砂浜方面には堀は無かったようである。


三の丸埋門跡
三の丸北側の石垣の外側にある車道伝いに東へ向かっていくと、途中横矢の箇所で道が折れるものの道は続いていき、画像の箇所で道は鉤の字に折れて石垣の内側の方に入ってしまう。この箇所はどうやら三の丸の埋門跡で、かつては三の丸から北の砂浜に出る為の城門だった。

旧高取邸
埋門跡から石垣の追跡が困難になるが、それというのも石垣の北側が広大な屋敷の中に組み込まれてしまうからであり、ちょうどこの位置にあるのが国の重要建築物にもなっている旧高取邸である。画像の手前が三の丸側で高取邸があるのは城外側のため、手間の道より奥の屋敷のある方が低くなっているのが判る。時間があれば旧高取邸も確認したかったのだが、唐津城へと行くのが目的の為、今回は屋敷内部の方は見て周っていない。