2017年5月28日日曜日

2017年度のお花見:厳美渓 (岩手県一関市)

2017年4月23日訪問。

薄衣城散策後は再び一関市内に戻り、今度は逆方向にある一関市の名勝の厳美渓へと向かった。なお、一関市には似た名前の名勝の猊鼻渓もあるため、一瞬どっちの名前だったかわからなくなる時がある。

温泉神社の桜
厳美渓のバス停からほど近い場所にある温泉神社の境内には立派な桜の木があり、ちょうど満開で綺麗だった。


厳美渓の貞山桜
厳美渓沿いにも桜が植えられており、いずれも満開で渓谷に花を添えていた。この桜は名前を見て気付く方も居ると思うが、伊達政宗(貞山公)が厳美渓に来た時に植えるのを指示した桜だという。


厳美渓の川幅が狭いとこ
まさに渓谷という景色が眼前に広がり、岩場の上から写真を撮るときも少し足が震えるほど緊張した。

厳美渓の川幅が広くなるとこ
少し下流に行くと流路は広くなり、吊り橋より下流はかなりゆるやかな流れになっていた。画像は吊り橋の上から撮ったものだが、この吊り橋は人がひっきりなしに通るため、ぐらぐら揺れて写真を撮るのも大変だった。


空飛ぶ団子
厳美渓名物の空飛ぶだんご。ざるにお金を入れて対岸に送ると団子が送られてくる仕組みだが、この時は凄い行列が出来ていたため利用できなかった。替わりに別の団子屋で滝見団子を食べたがなかなか美味しかった。

2017年5月21日日曜日

2017年度のお花見:薄衣城 (岩手県一関市)

2017年4月23日訪城。

千厩城の散策後、再び気仙沼街道を戻り川崎の街へと移動した。ここはかつて北上川に面した川湊だったが、今では新北上大橋が架かり護岸もされているためその面影はない。この街の南の北上川に突き出るような山の上に薄衣城があり、葛西氏家臣の薄衣氏(千葉氏)が居城としていた。


新北上大橋から見た城の遠景
新北上大橋から南側を見ると川に突き出た城跡の山が見え、遠目でも山の上が削平されていることと、満開の桜が何本かあるのが見えた。岬の先端に砕石の跡が見えるが、その上の目新しい崩れた跡は2011年の震災によるものだという。


城の本丸から新北上大橋を望む
逆に城に登ってから新北上大橋のある北側を望むとこんな感じで、満開の桜もあってなかなかの絶景だった。また、一方の南側には遮る樹木は無く、雄大な北上川の流れが眼下によく見えた。

二の丸
二の丸は一面の草地で、西側に土塁と呼ぶには妙な位置の盛り土がある。ここには桜の木が3本植えられており、満開の花が綺麗であった。恐らく古墳か経塚の跡と思われるが、城の説明板にはこの部分の言及が無かった。


本丸
頂上の本丸は半分ほどが畑になっており、中央には今も畑で使われていそうな井戸もあった。案内板には特に書かれていなかったが、どうやら私有地の史跡を開放している場所のようだ。


本丸と三の丸間の堀切
本丸と二の丸の間には明確な堀は無かったが、本丸と三の丸の間にはちゃんと堀切の跡があった。今は車が通れる私道が堀を通っているが、道の通っていない箇所にも堀跡は残っていた。


麓の南坂口にある注意書き
登るときは城の北西部の搦手口から登ったが、降りるときは城の南東の南坂口から降りた。実は城のある山から東側の山々に繋がる箇所の鞍部に民家があり、そこから北と南に降りる山道がある。山道は小型オフロード車じゃないときつい砂利道で、万が一降りる車と出くわしたらバックで麓まで戻るしかないことと、車の方向転換ができるスペースが無いためおススメできない。

2017年度のお花見:千厩城 (岩手県一関市)

2017年4月23日訪城。

一関の街で一泊した翌朝、一関から北上山地を通って気仙沼に続く気仙沼街道の中間地点の千厩へと向かった。千厩は前述の街道の宿場町であったが、それ以前は千厩城の城下町でもあった。千厩城は葛西氏家臣の金野氏の居城跡で、金野氏は元は奥州藤原氏や安倍氏の時代に北上山地の金山経営に携わっていた在地豪族である。


千厩川
千厩の街を流れる千厩川の歩道橋を渡る途中、満開の桜に川を渡る鯉のぼり、そして奥に名峰の室根山が見えるという、なかなか風流な景色を見ることが出来た。

千厩城(舘山公園)
千厩城跡は街の南の丘陵地帯にあり、城の西舘の跡が今は舘山公園として整備されていた。公園の桜は満開一歩手前といった感じで十分見応えはあったが、曇り空と技術不足によりあまり良い絵は撮れなかった。


館山公園からの眺め
城はさほど高くない丘の上にあるものの、それでもここから街が一望できるため眺めは悪くなかった。

館山公園の頂上
丘の頂上の公園の広場が西舘で最も広い郭の跡で、ここの西の一段下に二番目に広い明確な郭跡があるが、他は腰曲輪や見張り台程度と思われる小さな郭が散見されるだけである。なお、千厩城跡の標柱がここに立っているが、ここは城の外れで中心部ではない。


千厩城主郭跡(市民センター)
城の中心部は公園から沢を挟んで東側の丘の上にあり、今は市民センターや市民体育館が建っているため、元はどうだったのか全く分からなかった。なお、ここから南にさらに高くなっている場所があって、そこが主郭跡にも思えるが定かではない。


千厩宿の桝形
千厩の街中には宿場町特有の桝形の道が残っており、正面奥の折れ曲がった箇所に「大夫黒」の顕彰碑が立っている。「大夫黒」は藤原氏が源義経に与えた名馬で、千厩の松沢が産地だという。

2017年5月16日火曜日

2017年度のお花見:一関城 (岩手県一関市)

2017年4月22日訪城。

花泉から一関市の市街地に移動した頃にはすっかり日が落ちており、本来ならホテルに直行するところだが、一関城がある釣山公園でライトアップをしているのを思い出したため、そのまま公園へと向かった。釣山公園に来るのは今回が2回目で、前回の昼間に来たときは桜はかなり散っていた。


ライトアップされた本丸の桜
山頂の本丸まで登ると本丸北側の桜がライトアップされており、花もちょうど満開で美しかった。なお、山頂まで街灯のない東側の道を登ってきたため、地味に足元が見えず苦労した。

本丸から見た城下の夜景
本丸から城下を眺めると、街に明かりが灯って綺麗な夜景だった。肉眼だと空は真っ暗だったのだが、カメラで撮ると雲がハッキリ見えたため、これにはちょっぴり驚かされた。


愛姫桜
本丸の南側に見覚えのない何かがあるなと思ったら、最近植えられた桜があった。この桜だけやけに厳重に柵があるなと思ったら、どうやらあの「三春の滝桜」の娘さんらしい。一関藩の田村氏が元は三春の田村氏の流れの縁で植えられたという。


ライトアップされた中腹の郭の桜
城内は山頂以外もライトアップされており、山腹の夜桜もなかなか幽玄で美しかった。だいたい、公園北口の麓から山頂まで数か所のエリアごとにライトアップしていたようである。

2017年5月14日日曜日

2017年度のお花見:涌津城 (岩手県一関市)

2017年4月22日訪城。

GWに入る1週間前の週末も花見のために桜前線を追って岩手県と宮城県の県境付近へと向かった。最初に向かったのが一関市の花泉町にある涌津城で、現地の標柱だと「紫館」と呼んでる中世の涌津氏(岩淵氏)の居城跡である。


水堀?
「紫館公園」の案内板に沿って向かうと丘の中腹に不自然に伸びた水堀のような池があった。手持ちの資料でも堀かどうかは判断が付かないと書いており謎である。


城址中腹の桜
「紫館公園」の駐車場と公衆トイレがある公園入口に城址の説明板があり、そこから見上げた桜はまさに満開であった。


紫清水
丘の上の公園を目指して登ると紫清水があり、屋根のついた覆いがあって立派に保護されているのだが、「大腸菌が検出されたため飲用に適さない水」だとそばの看板に記載してあった。垂れ流し状態で飲用に適さないほど検出されるということは、畑の等の肥料から流入しているということだろうか…。


紫清水(井戸跡?)
紫清水の源泉は実際は湧き出ている位置より高い場所にあり、今は埋まっているようだが元は井戸だったようである。


水仙と桜
城址のある丘の上は公園なのだが、中腹あたりの腰郭跡は畑になっていて、畑と公園の間の斜面には水仙が多く咲いていた。上の公園では桜が満開なため、春のコントラストが見事だった。強いて言えば天候がやや曇り気味だったのが悔やまれる。


頂上の公園内部(二の郭)
丘の上の公園部分は恐らく二の郭の跡で、郭の半分は雑木林になっていた。公園部分には満開の桜と東屋があり、決して高い場所では無いが景色はそこそこ良かった。郭としては一番広い場所のため、城主もこの郭に住んで当時の城下を眺めていたのだろう。


神社(一の郭)
公園から雑木林の中の道を通り奥に行くと、二の郭より一段高い場所に神社があった。ここが恐らく一の郭で、背後には堀と切岸も確認できる。広さはあまりないので、当時も氏神を祀っていた場所なのだろうと思われる。

2017年5月11日木曜日

2017年度のお花見:福田古舘 (福島県新地町)

2017年4月16日訪城。

新地城を散策後、太陽が山に沈みかけてそろそろタイムアップと言ったところだったが、最後に近くの福田古舘(黒木館)へと立ち寄った。ここは南北朝時代に結城氏家臣の黒木氏一族が居館を構えた場所である。

薬師堂のしだれ桃?
福田古舘に向かう途中の島状の小高い丘に薬師堂があったが、そこに綺麗な花が咲いていた。遠目で見た時はシダレザクラかと思ったが、近くで見ると桜の花じゃなかった為モヤモヤしていたが、数日たってから「しだれ桃」だと断定できた。


福田諏訪神社の桜
館跡がある丘陵に登っている途中、北側に満開の立派な桜の木が見えた。遠くの諏訪神社の境内の桜も含めて、ここからの景色がここの館跡で最も桜が綺麗な光景だった。


古舘公園(主郭跡)
主郭の一段下まで登ると古舘公園の看板があり、ここら辺が駐車場になっていて小さな公衆トイレが立っていた。

主郭内部
低い丘のため登ってすぐに主郭となるが、ベンチと石碑が一つあるだけで特にこれと言った見所は無かった。一応、桜の木があるのだが、天狗巣病にかかっており明らかに神社の桜と比べて花が無かった。下草も微妙に伸びているため、普段はほとんど人が来ない場所なのだろう。

北側から見た城址
丘を降りて北側の水田越しに見た館跡。館跡にあった説明板によれば、この手前の水田は堀の跡じゃないかとのことである。

福田諏訪神社
上の方で遠目に見ていた神社には一旦丘を降りて西側から入ることになる。ここが館跡の北端で、神社は黒木氏が氏神として勧請したものだという。


舞楽殿
神社は小さいながらも舞楽殿(神楽殿)を持っており、ここで行われる「福田十二神楽」は県の重要無形文化財に指定されている。

2017年度のお花見:新地城 (福島県新地町)

2017年4月16日訪城。

中村城散策の後はさらに北上して新地町へと向かった。目的地は新地城で、16世紀に相馬氏が新地の丘陵の上に築いた城で、後に伊達氏によって攻め落とされた城である。


新地駅
常磐線の新地駅は津波の被害を受けた駅だが、見事に再建されていた。というか、以前よりもかなり立派になった気がする。


かさ上げされた新地駅
地図上では新地駅はほとんど同じ位置に再建されているため、また津波が来たら不味いんじゃないかと当初は思っていたが、駅から少し出ると駅のある一帯や住宅地などが10mほどかさ上げされていることが判った。農地は元の高さのままなため、農地から見るとまるで巨大な堤防があるように映る。


新地城への案内板
新地城はマイナーな城だと思っていたが、以外にも城への案内板が所々に設置されていた。あと、どうやらチューリップ祭りがあるらしく、それらの幟も立っていた。


城内の桜とチューリップ
城のある丘に登ると城内にあったのはチューリップ畑で、ちょうど満開の桜と相まって見事な花の景観だった。なお、チューリップは品種によって咲き具合がまばらで半分ほどはまだ蕾のままだった。

城内の桜
城内の桜は本数こそ少ないものの全て満開で綺麗だった。本数は10本前後で、品種はソメイヨシノともう一種類(オオシマザクラだろうか?)くらいあるようだった。

内堀跡
内堀の堀底もチューリップ畑になっており、とにかくチューリップ尽くしの城址だった。見頃はまだまだ先のようであるが、その頃には桜は葉桜になっているため、両方楽しめるのはちょうどこの時期だけと言える。


外堀跡
現状はただの腰曲輪に見えるが、ここも元は堀の跡だという。

本丸内部
なお、本丸内部はチューリップ畑ではなく、少し遊具がある広場となっていた。祭りの時はここがイベント会場になるようである。また、本丸にはハッキリと土塁が残っている。

2017年5月7日日曜日

2017年度のお花見:中村城 (福島県相馬市)

2017年4月16日訪城。

小高城の散策後、さらに北上して相馬市に入り、市街地の中心部にある中村城へと向かった。中村城は相馬藩の藩庁だった近世の城郭で、ここに来るのは今回で5回目である。

歴史資料館
前回来たときはまだ建設中だった歴史資料館が完成していたので、まずはここに立ち寄った。ちなみに画像左が歴史資料館で、右の蔵は郷土資料館というか、農具などの民俗資料を展示している場所だった。歴史資料館には相馬氏や中村城の展示ももちろんあったが、野馬追と美術品の展示に意外と力が入っている感じだった。


水堀が埋まっているあたり
歴史資料館の展示の中にこの場所の発掘調査時の航空写真があったが、現在の位置と照らし合わせるとだいたいこの画像のあたりになる。若松城みたいに埋まった堀の平面表示があるかなと思ったが、残念ながらそういう粋なものは無かった。


水堀沿いの桜
中村城の桜は、この時はすでに散り始めていたが、部分的にまだ満開で綺麗だった。


花筏
桜が散り始めていたため水堀には花筏が出来ていた。黄色くなった花びらがかなり混じっていたため、2~3日前には既に散りだしていたことになる。

中村神社参道の桜
写真はわざとなるべく人が写らないように撮っているが、この日は以前訪れた時よりもかなり多くの人で賑わっていた。参道だけじゃなく、本丸内部も人で賑わっていたし、妙見社の方の境内では何やらカラオケ大会のようなイベントもやっていた。


本丸側面
今回訪れて一番驚いたのは、本丸周辺の雑木が切り払われて側面がハッキリ見えるようになっていたこと。本丸自体は岩盤を削り、その上に鉢巻石垣を築いて均等に水平になるよう構築しているのがよくわかる。
鉢巻石垣と腰巻石垣
場所によっては鉢巻石垣だけじゃなく腰巻石垣も築いて、合計3段の石垣になっている部分もあった。この辺りの下は記憶が確かなら以前は土の下に埋まっていたと思う。