2019年8月17日土曜日

春の山梨の旅:信玄公祭り(山梨県甲府市)

2019年4月6日訪問。

滝山城の散策を午後に切り上げ、中央本線で甲府へと移動した。甲府ではこの日「信玄公祭り」が行われており、甲州軍団出陣(要するにパレード)をなんとか見る為である。

甲府城のマップ
甲府城は祭りの会場になっているためこの日は立ち入り禁止になっている区画が多く、画像の赤くなっている箇所は全て立ち入り禁止の箇所である。見てわかる通り、城内に回廊のように通行可能エリアが出来ており、今回はそこを通って散策している。


帯曲輪から見た鍛冶曲輪のステージ
時間的に出陣式はとっくに終わっており、ステージは空だったが何故か客席には人が見えた。


甲府城の桜
甲府城の桜はちょうど満開で咲き誇っており、既に日が沈んで暗かったが綺麗で見事だった。


パレードの映像
鍛冶曲輪ではちょうど駅前の平和通りを移動するパレードの映像が大画面で中継されていたので、露店で飲み食いしながら観覧するにはちょうど良い場所だったかもしれない。


甲府城旧内堀跡
甲府城の鍛冶曲輪南西の元は内堀だった場所は埋め立てられて今は空き地になっており、この日はここで露店(マルシェと言っていた)が出展していた。画像手前の空き地は将来は広場になっ、奥の露店がある辺りは将来内堀が復元されて船を浮かべて遊覧できるようにするようだ。


平和通りを進む甲州軍団
平和通りへと移動してパレードを観覧したが、甲州軍団は武田24将に当てはめてそれぞれ分かれており、山梨県内の会社や各種団体をそれぞれ1軍団に当てはめて、各軍団ごとに様々な催しを披露していた。それぞれの催しはなかなかフリーダムな感じで、中には洋曲に合わせて甲冑姿で踊る等もあった。


武田信玄
パレードには武田信玄役の芸能人も参加しており、今年は山下真司さんが信玄役でした。ちなみに山本勘助役は塩野瑛久さんらしいが、こちらは撮り逃してしまった。たぶん黒い甲冑の人だったと思うが…。

2019年8月8日木曜日

春のお花見お城散策関東編:滝山城その2(東京都八王子市)

2019年4月6日訪城。

その1からの続き。

角馬出
千畳敷から二の丸方面へ行く場所には角馬出が設けてあり、二の丸入口は厳重になっている。馬出の2つある入口は一方が千畳敷内部から、もう一方は千畳敷を通らずに外から入るようになっており、この点ではオーソドックスな馬出とかなり異なった構造になっているのが興味深い。


二の丸
二の丸内部も三の丸や小宮曲輪等と同じような構造で、外側に土塁が設けてあり、土塁の外には大きな横堀が巡っていて圧巻だった。


谷戸の曲輪
二の丸、中の丸、本丸に囲まれた中央の谷戸の低い部分にも名称の特に無い曲輪があり、そこではこの日は乗馬体験が開かれていた。案外、当時もここには馬場や厩があったのかもしれない。


中の丸の桜祭り会場
二の丸と本丸の間にある中の丸は今までの曲輪と違ってトイレ等の施設が設置してあり、ちょうどこの日は桜祭りのイベント会場になっていた。そして桜の木もほぼ満開に近い状態で祭りに華を添えており、この日滝山城を訪れていた人々の半分以上はここにいるんじゃないかという賑わいだった。


中の丸
中の丸には何やら寺に似た建物があったが、どうやら昔あった宿泊施設「滝山荘」の一部を改修して残したものらしい。横断幕に書かれている通り、滝山城は続日本100名城に選ばれており、お城のスタンプもこの場所にある。


本丸と中の丸の間の引橋
中の丸と本丸の間には大堀切があり、現在そこには橋が架けられている。当時は今よりも低い位置に引橋と呼ばれる戦時には橋脚を残して本丸側に橋を収納する構造の橋があったらしい。


本丸大手門桝形
引橋を渡った先には本丸大手門の桝形があり、発掘したところここには石畳が敷かれていたという。是非とも生で見たかったが、今は埋め戻されて写真でしか見れないようだ。


本丸下段
本丸内部は2段構造になっており、下段は土塁に囲まれた空間で井戸もあったので主要な生活空間だったのかもしれない。この日の中の丸は騒がしかったが、本丸は一転変わって落ち着いており、静かに花見を楽しむ人々が何組か見られた。


山桜
本丸の桜はよく見ると山桜で、花と茶色い葉が特徴的な桜だが、満開でもソメイヨシノ等の桜に比べてボリュームが無いように見える為、桜の中ではあまり人気は無い。それでも江戸時代以前の日本では桜と言えば山桜を指示していただけに、戦国時代の城跡に山桜はピッタリとも言える。


本丸上段
本丸上段には霞神社と金毘羅神社が祀られており、曲輪は南北に伸びた構造になっている。城内では山の神曲輪に次いで高い位置にあり、画像の左に見える金毘羅神社社殿の位置には櫓が立てられていたという。なお、金毘羅神社は江戸時代に木材を運ぶ水運の安全を願って城跡に勧請された。霞神社の方は靖国系の神社で戦死者を祀っている神社である。


本丸からの眺め
本丸からは北側への展望が優れており、今はやや樹木が邪魔だが眺めはいい。なお、画像の左奥に見える丘陵は高月城のある丘。


出丸から搦手を望む
本丸から西側には堀切をまたいで出丸があり、その先は麓に向かっていくつかの曲輪や馬出が設置されており、このルートは搦手道に当たる。結局、このルートは途中までしか確認しておらず、今も麓に続く道があるのかはよく分からない。滝山城はかなりの広さがあるため、今回はここで打ち切って信濃屋敷や大池方面なども次の機会に散策することにした。

2019年8月6日火曜日

春のお花見お城散策関東編:滝山城その1(東京都八王子市)

2019年4月6日訪城。

神奈川で花見をした翌週は東京方面へと出かけて滝山城を訪れた。滝山城といえば北条氏照が籠城して武田軍3万の攻撃をギリギリで凌ぎ切ったことで有名な名城だが、元は山内上杉氏家臣の大石氏の城で、大石氏が北条氏の軍門に下った時に北条氏照が新たな城主となり城を改築したという。ただ、滝山城でギリギリまで追い込まれたことから北条氏照は新たに八王子城を築いて居城を移している。

滝山城大手口付近の桜
八王子からバスで移動して「滝山城址下」のバス停で降りるが、どうやらちょうど祭りをやっているようで多くの人が同じくここでバスを降りた。大手道の天野坂の入口にはちょうど満開に近い桜があって綺麗だったが、天野坂のあたりは竹林で滝山城址の大部分は広葉樹だった。


小宮曲輪の横堀
天野坂を登っていくと小宮曲輪や三の丸の横堀が左右に確認出来て心が躍る。城の中心部からはまだ遠い場所だが、これだけ大規模な遺構があることにまず驚かされた形だった。


小宮曲輪内部
小宮曲輪の内部はやや藪になっているが、画像の通り立ち入り禁止になっており、山道から確認するだけに留めた。一応、城址公園にはなっているが、自治体が私有地を借りて整備しているようで、要するにここは私有地でもあるのでこのような形になっているのだろう。


小宮曲輪北の桝形虎口
小宮曲輪自体はいくつかのブロックに分かれており、北側には桝形虎口も確認出来た。虎口を出て堀を渡った先は山の神曲輪に続く山道となる。


山の神曲輪
山の神曲輪は北の丘陵のピークにあり、土塁や削平地で明確に造られていた小宮曲輪と違って急に構造が雑になっており、どうやら城の一部というよりは出城に近い場所のようだった。名前から見ると神社か何かが祀られていた曲輪のように感じるが、現状は何も確認できず、資料によれば城下町の民が籠城した場所だったという。


山の神曲輪からの眺め
山の神曲輪は城内で最も高い場所のため北側への眺めはなかなか良かった。画像の中央を流れる川は多摩川で、右奥が拝島、画面左が高月である。


弁天池を望む
滝山城の縄張りは山の神曲輪から本丸にかけてU字状になっており、このU字の開いている北側にダムを造って弁天池という水場を城内に設けていたらしいが、山の上からだと池が今も存在するのか全く確認出来なかった。降りるとまた登るのが大変なので結局この日は確認していない。


三の丸
山の神曲輪で行き止まりの為、再び来た道を戻り今度は三の丸へと立ち寄った。内部は画像の通り草に覆われている状態で、小宮曲輪とだいたい似たような感じだった。


コの字土橋
滝山城で驚いた構造の一つが三の丸と千畳敷の間にある土橋で、面白いことにコの字状に折り曲げられていた。道全体で考えるとS字に近い構造である。


千畳敷
千畳敷は三の丸と二の丸の間にある曲輪で、名前の通りなかなか広い曲輪だった。しかも芝生の広場で整備されていた為、ここで休憩をとっている市民も多かった。ちなみにここは当時は治政のための役所があった場所で、民の陳情などもここで受け付けていた。

2019年8月4日日曜日

春のお花見お城散策関東編:早川城(神奈川県綾瀬市)

2019年3月31日訪城。

関東でも桜の満開の報告が聞こえて来た頃、週末に近場のまだ訪れていない城跡の桜を見に向かった。向かった先は横浜市の隣の綾瀬市にある早川城跡で、今は城山公園と呼ばれてちょっとした花見の名所となっている。

早川城はハッキリとした歴史は分からないが、この地を治めた渋谷氏の居城だと言い伝えられている。渋谷高重は早川次郎を名乗っており、この頃には城があったとされるが、もっと後に築かれたのではという説もあり定かではない。

堀切
城跡は舌状台地の先端にあり、丘続きの北側にはしっかりと堀切が造られていた。画像の左側が城内(主郭)で、見えている部分は土塁である。堀切自体は流石にある程度埋まっているようで、本来はもっと深い堀切のようだ。


主郭内部
堀切の中央に土橋が架かり、土塁の中央の虎口跡から主郭内部に入るとそこは今は桜の木が縁に植えられた広場だった。当然、渋谷氏の御殿がここにあったはずだが、説明板には周囲の土塁や堀の遺構などしか記載が無かったので謎である。


物見塚
主郭やや南西隅に物見塚という塚があるが、発掘調査の結果では土塁と構造が同じことが判明しており、墓の類では無く櫓台だったと思われる。ちなみにすぐそばに日本海海戦で有名な東郷元帥の石碑が立っているが、東郷氏の祖先が早川の渋谷氏ということに由来している。(先に述べた早川次郎こと渋谷高重の孫の渋谷実重が薩摩の東郷に移り住んで東郷氏を称した)


5~7分咲きくらいの桜
主郭の桜は残念ながら5分咲きから7分咲きくらいの状況で、花見には少し早かったようだったが、それでも地元の花見客がそこそこ訪れてブルーシートを広げていた。花見は天気と休みと開花具合が揃わないといけないだけに、見頃を見るのはなかなか難しいと改めて思う。


外堀
主郭の北側は堀切で切断されているが、東西は自然の沢を加工して外堀としており、画像のように深い沢で仕切られていた。なお、東側の外堀は近代に貯水池として利用したのかダムが築かれている。

春の連休の旅:牛越城(福島県南相馬市)

2019年3月24日訪城。

泉の館跡の散策後は平安時代の役所跡である泉官衙遺跡を見て回ったが、埋蔵遺跡のため看板以外に見所が無かった為割愛。そして、野馬土手跡散策に戻って桜井遺跡よりも西の方を見て回ったが、こちらも目ぼしいものを見つけられなかったので割愛。

野馬土手跡北部を西に沿って南相馬市役所付近まで移動した後、せっかくなので泉館の城主の泉政胤が普請に参加していた牛越城にも立ち寄った。牛越城は元は相馬氏家臣の牛越氏の居城で、牛越定綱が謀反を起こして相馬氏に討伐された後に相馬氏の城となった。そして、村上城の築城を中止した後に相馬氏は居城を牛越城に移して、城を改築したがこの時に先の泉館で述べたように泉氏が不満をぶちまけて出奔したのだった。しかも、関ケ原の合戦時の立ち回りにより西軍派とみなされて御家取り潰しになった報告が届いたのも牛越城で打ち上げ中のことであった。牛越城は不吉すぎるとして廃城となったのも頷けるほどである。

出城?
牛越城は現在牛越浄水場の施設の北にある山の上に築かれており、谷戸地形の内側の車道から城跡まで道が付いている。この谷戸地形の南側も牛越城の出城らしいが、切り立った斜面で登れそうな感じもしなかったので確認していない。


谷戸地形
谷戸地形の内側は三方を囲まれている為、平時の武士の居館が大抵はここに置かれるが、牛越城の説明では全く言及していなかったので、谷戸地形の内側が昔はどうなっていたのかは謎である。


妙見館跡
谷戸の奥から北側の丘陵に取り付ける為、牛越城の一番西にある妙見館という出丸を目指したが、内部は竹に侵食されて酷い有様だった。名前から見て相馬氏の守護神である妙見を祀る社があった場所なのだろう。後の相馬氏の居城の中村城で例えるなら相馬中村神社がある場所の曲輪に相当する。


堀切
妙見館から尾根に沿って東に移動すると大きな堀切で丘が分断されており、この堀切は「千人沢」と縄張り図に記述があった。人夫千人で掘ったという意味だろうか。


土塁
堀切の内側には土塁も築かれており、現在この堀切と土塁を貫通して車道が丘の上まで伸びている。土塁の内側は帯曲輪跡であり、この曲輪は東に長く伸びていた。


本丸跡
車道を登った先はいよいよ本丸跡になるが、ここは今は水道局の施設になっており、立ち入り禁止の為、ほぼ散策不可能な状態だった。ちなみに正確には画像のタンクがある場所は本丸と二の丸の間の堀跡で、奥に見える水槽施設のある場所が本丸跡になる。当然、地形は大きく削られている為、遺構は消滅したと見ても間違いないだろう。


櫓台?
一応、フェンスの境界に櫓台らしきものが確認できるが、単に地形の削り残しとも見れるため定かではない。ちなみに画像の左外側が二の丸跡だが、藪が酷い為中の方を見るのは断念した。


帯曲輪へ降りる階段
本丸跡南側から帯曲輪に降りる階段が付いているので降りてみたが、帯曲輪内部の散策用ではなく、麓の水道局の施設から丘の上の水道施設に登るための階段のようだった。


帯曲輪内部
帯曲輪内部は幸い藪にはなっていないが、細長い平場になっていることと土塁が確認出来る程度だった。なお、帯曲輪から移動すれば東館の曲輪に取り付けそうだったが、この時は帰りの電車の関係でタイムオーバーで確認できなかった。