2017年12月18日月曜日

11月の3連休旅行:津川城(新潟県阿賀町)

2017年11月5日訪城。

3連休の中日はずっと雨だったため、結局温泉宿で一日中ゴロゴロすることになった。翌日の連休最終日は前日と打って変わって晴れたので、以前から行きたかった越後会津街道の要衝の津川城へと向かった。

津川城は阿賀野川と常浪川の合流地点に聳える天嶮の麒麟山に築かれた城で、鎌倉時代に会津に下向した佐原氏の一族の藤倉義盛の孫の金上盛弘によって築かれた。この津川(金上)の地は会津と越後の境界に位置しており、水運と陸運の要衝であった為に重要視され、会津の大名蘆名氏の重臣である金上氏が代々治めた。蘆名氏滅亡後も会津藩の代官所が置かれ、街道を行き来する人や物資で大いに賑わったという。


麒麟山
津川の街の川を挟んだ対岸に麒麟山が聳えており、岩肌の見える岩塊の山であるためかなりインパクトがある。なお、城があるのは画面左端の山の中腹末端部で、岩山の頂上にあるわけではない(頂上も物見台や狼煙台に使われたとは思うが)。山の麓の針葉樹が茂っている一帯が侍屋敷跡で、麓の外郭にあたる。


搦手口門跡
侍屋敷跡にも土塁や門跡が残っており、侍屋敷跡の城山橋側(駐車場側)は搦手口だったようで門跡等の標柱が建っていた。画像の右側の土塁の向こう側には鶴ヶ沼がある。


鶴ヶ沼
恐らく侍屋敷に住んだ家臣達の水源だったと思われるのが山の麓にある鶴ヶ沼で、そこそこ深い窪地になっているため人工的に掘ったものと思われる。


侍屋敷跡の中門の土塁の断面
侍屋敷跡と侍屋敷跡の間を土塁で仕切っている箇所があり、土塁の側面を見てみると小さい石を積んで築いている石積みだというのが判る。


二の丸
侍屋敷跡一帯を抜けるといよいよ急斜面を九十九折りに登る山道となり、登り切った先に急に広い曲輪が現れるが、ここが二の丸跡で、麓のマップや一部資料では馬場跡とも記載されている。馬場は通常は馬や弓の訓練場であるが、馬をこの山の上まで連れてくるのはどう考えても大変なので、武具蔵や的場などがあったと考えるべきか。


出丸の石垣
二の丸から出丸に向かう途中に道を折り曲げた門跡があるが、そこから出丸の斜面を見ると、出丸が石垣で築かれているのが良く見えた。戦国時代に蘆名氏は石垣の城を各地に築いているので、恐らくその時期にこの出丸が整備されたのだろう。


本丸
出丸から一段登った先が本丸で、二の丸よりは狭いが建物を建てる分の広さは一応あるため、ここが籠城時の屋敷跡だろうか。右に見えるのは土塁ではなく本丸より一段高い郭で、今は展望台がある。


展望台
展望台からは眼下の雄大な阿賀野川と越後会津境界の山々が見え、なかなか見事な絶景だった。現在でこそ橋が架けられて車道や鉄道で人や物が行き交っているが、当時はこの眼下を多くの川船が行き来していたのだろうと思うと滾るものがある。


紅葉
山の麓は針葉樹しかないが、上まで登ると広葉樹が多くなり、ちょうど紅葉していて綺麗だった。街から見た山も紅葉していて綺麗だったが、こうやって登って見る紅葉の方がより綺麗に感じる。


堀切
展望台のある山の末端の郭の背後には堀切が設けてあり、岩を削って造ったことが断面から判る。ここから山の北側に降りる道もあるため、当時も通路として使用されていたのだろうか。


金上稲荷神社
堀切を挟んで山頂側の郭には金上稲荷神社が祀られており、城の守護神として祀られていたが廃城後に荒廃し、後に有志が復興したものがこの社であるという。


麒麟山の山頂へ続く崖道
金上稲荷神社からさらに山頂方面へと続く道があるが、この先は危険の注意書きがある。麓のマップに神社より先の道が描かれていないので、町の勧める散策ルートとしては神社までということなのだろう。一応、確認のため先に進んでみたが、途中から画像のように岩山を手で掴みながら登る道になった為に引き返した。


お城清水
最後に出丸のとこから下に向かう道を下って水の手曲輪に立ち寄ったが、今もお城清水は湧いていて健在だった。この曲輪の近くにも出丸のように石垣が使用されているそうだが、ちょっと場所が特定出来なかった。

2017年12月9日土曜日

11月の3連休旅行:弥彦山(新潟県弥彦村)

2017年11月3日訪問。

弥彦神社に参拝した後は弥彦山に登るため、弥彦山ロープウェーに向かった。最初は登山道を使うことも考えたが、時間と体力の温存のため今回はロープウェーを利用した。ただ、この選択は"時間"という意味では失敗だったかもしれない。

弥彦神社裏の道
神社から案内板に従ってロープウェーの駅を目指すが、道は砂利道だし、風景はどうみても鎮守の森の中で、本当にこの先にロープウェーの駅があるのか不安になるほどだった。


弥彦山ロープウェー山麓駅
神社から15分ほど歩いて駅に到着したが、後から無料のシャトルバスもあったことに気付く。ただ、バスを使う使わないは些細な事で、この駅に到着してからが問題だった。駅には既に長蛇の列が出来ており、結局ゴンドラに乗るまで1時間以上かかった。特に祝日だったのが災いしたのかもしれないが、半分は外国人だったので平日でも混雑してそうだ。


ゴンドラの中から見た景色
ゴンドラは満員のため一方向しか写真に撮ることは出来なかったが、徐々に眼前に新潟平野が広がっていくのと、真横に紅葉の山腹が見える景色はなかなか素晴らしかった。


山頂駅から見た日本海
山頂駅に着いた後、駅を出ると今度は眼前に日本海が広がり、遠くに薄っすらと佐渡島が見えた。なお、ロープウェーの山頂駅は弥彦山の山頂ではなく、山頂よりも北にある小ピークのさらに鞍部にある。


弥彦山の頂(弥彦神社奥の院)
駅からレストハウスを越えて南に縦走し、テレビ塔のある小ピークを越えて更に進んだ先に弥彦山の頂があり、頂上は大勢の観光客で一杯だった。山頂には弥彦神社の奥の院があり、ここには祠があったが、祠の背後の草に覆われた空間に何があるのかはよく分からなかった。山そのものが御神体なので案外何も無いかもしれないが。


山頂から見た景色
山頂はほぼ全周囲が絶景で、海も平野も山も眼下に紅葉も見える欲張りセットな絶景だった。大抵は山に登ると平野の向こうに海が見える為、海→山→平野というのは新鮮だった。


夕焼けとパノラマタワー
弥彦山の頂からレストハウスまで戻り、夕方に昼飯を食べるという時間計算のミスに後悔しながら休憩した後、下山の為にロープウェー乗り場に向かった。結局、下山でも1時間以上並ぶ羽目になり、日本海に沈む夕焼けとパノラマタワーの展望台が上下するのをずっと見物する状況になった。往復でチケットを買ってしまった為、しょうがないといえばしょうがないのだが、明らかに登山道を降りた方が早かっただろう。


山腹の紅葉
ロープウェーの下りではちょうど山肌が見える位置に乗れたが、実はこの時点で既に暗くなっており、肉眼だと紅葉がほとんど見えなかった。画像では明るく見えているが、カメラの性能のお陰である。

2017年12月7日木曜日

11月の3連休旅行:弥彦神社(新潟県弥彦村)

2017年11月3日参拝。

もみじ谷で紅葉を楽しんだ後、門前町で饅頭をつまみながら弥彦神社へと向かった。

弥彦神社は越後を開拓した天香山命(あまのかぐやまのみこと)を祭神とする神社で、よく「やひこじんじゃ」と呼ばれるが、正式名称は「いやひこじんじゃ」である。古くは伊夜比古神社とも書いた。越後国の一宮である。

弥彦神社一の鳥居
門前町の先にある一の鳥居を潜るといよいよ弥彦神社の境内である。さすがにこの場所の中心となるスポットだけあって、参道は大勢の観光客や地元の人々で一杯だった。ちなみに一の鳥居は越後沖で嵐にあった津軽信牧が弥彦の神に助けられた縁で奉納したもので、信牧は弥彦の神に願った際に鳥居を奉納すると約束したもののしばらく忘れていたため酷い目にあっていたりする。まさかここで津軽信牧の名前を見るとは思わなかったので、このエピソードはなかなか面白い収穫だった。


菊祭り
神社ではちょうど菊祭りをやっており、色んな種類の菊が品評されて並んでいた。こういうのは年配の人や専門家が趣味でやっていると思っていたが、ここでは子供部門の菊も並んでおり、これにはちょっと驚かされた。


弥彦神社拝殿
有名な神社では恒例の光景ではあるが拝殿前には沢山の行列が出来ていた。ただ、ここではよくある「2礼2拍手1礼」ではなく「2礼4拍手1礼」が参拝の礼儀となっており、4回手を打つのは地味にタイミングが取りづらかった。


夜の弥彦神社拝殿
弥彦山に登っているうちに日は暮れてしまい、神社に戻ってきた頃にはすっかり夜で灯りが点いていた。境内は肉眼だと視認が大変なほど暗かったが、デジタルカメラ越しだとハッキリ見えるのだから文明の利器は凄い。昼間ほどではないが、夜になっても境内は大勢の人が行き交っており、拝殿の前は人が絶えなかった。


菊で出来た赤城山
菊祭りの展示の中で一番印象的だったのは菊で作られた赤城山で、昼間は記念撮影する人々が絶えなかったので遠慮したが、夜はさすがに人物が暗くて写らないためか記念撮影している人はほとんどおらず、思いのアングルで絵に収めることが出来た。


玉の橋
参道から外れた場所にあるため昼間は見逃してしまったが、一の鳥居の先の小川には神様専用の橋である玉の橋も架けられており、ちょうど夜にはライトアップされて綺麗だった。ちなみに明治の弥彦大火で唯一燃えなかったのがこの橋だという。

2017年12月5日火曜日

11月の3連休旅行:弥彦公園もみじ谷(新潟県弥彦村)

2017年11月3日訪問。

長岡から鈍行と特別列車を乗り継ぎ、この日の目的地である弥彦へと向かった。弥彦は弥彦神社の門前町で、新潟平野の日本海側にある弥彦山を中心とする山と丘陵に囲まれた特殊な地形の場所にある。弥彦神社と弥彦山、それに門前町と紅葉の名所が目当てで、時間があったら弥彦を守るために築かれたとされる城跡にも行く予定だったが、結論から言うと城跡の方には行けなかった。

弥彦駅前
駅から出ると西に高い山が聳え、南北と東にも山があり、なんとなく盆地に移動したような不思議な気分だが、長岡よりもここは海側にある。


もみじ谷
駅を出て左手に行くと弥彦公園で、少し奥に行くと紅葉で有名な「もみじ谷」へと入る。ここを訪れた11月3日時点では紅葉はまだ始まったばかりだったが、既に綺麗な木がいくつもあって見事だった。


もみじ谷(観月橋の下)
特に観光客に人気だったのは朱色の観月橋の付近で、橋も含めて見事なグラデーションが美しかった。


もみじ谷(観月橋の上)
橋の上からは間近に紅葉を見ることができ、太陽を逆光にするとステンドグラスのようでこれもまた綺麗だった。


もみじ谷(夜の観月橋)
もみじ谷を見た後、弥彦神社に向かい、弥彦山にも登ったが、これがまた凄い時間を喰ってしまい、麓に戻った頃にはすっかり夜になっていた。しかし、これはこれで「もみじ谷」のライトアップを見ることが出来たので良い収穫だった。


月と紅葉(観月橋から)
観月橋から紅葉越しに文字通り月が観え、なんとも風流で洒落た状況になったことに苦笑しつつ、夢中でシャッターを切った。風が無かったのも幸いして、普段よりは満足の行く絵が撮れたと思う。


駅前から見た月
月の周囲に鱗雲があり、光の輪郭がハッキリ投影されているのがなんとも神秘的ではあった。まぁ、翌日は雨だったので「鱗雲が出ると雨が降る予兆」の通りになってしまったのがアレだったが…。

2017年12月3日日曜日

11月の3連休旅行:長岡城(新潟県長岡市)

2017年11月3日訪城。

11月は紅葉狩りの為に越後方面へと出かけたが、新幹線から在来線に乗り換える為に長岡で降りた際に、少し時間があったので長岡城跡へと出かけた。…というか、長岡駅がそもそも長岡城の本丸跡にあるので、ある意味既に城内である。ただ、悲しいことに長岡城はほぼ完全に消滅しているため、見所はあまりない。先月訪れた三原城や福山城も駅が城内にあったが、実際あれクラスの規模の城が今は面影すら無いのだから恐ろしい。

長岡城は1616年に堀直寄によって築かれた近世の平城で、長岡藩の藩庁である。幕末には新政府軍と旧幕府軍の激戦地となり、城は2度落城している。(※落城した後に奪還した為)


ながおか秋祭り
とりあえず、街中の二の丸跡の碑がある場所へ向かうと、そこではちょうど秋祭りのイベントをやっていた。なんか金魚の展示のようなものが沢山あったが、帰ってから調べてみたら長岡は鯉の名産地のようなので、これは鯉だったかもしれない。


アオーレ長岡
二の丸跡は昔来た時とは全く別の景色に変わっており、何やらアオーレ長岡とかいう洒落た複合施設が跡地に建っていた。


菊の品評会
ちょうどアオーレ長岡で菊の品評会をやっていたので少し鑑賞してみた。


二の丸跡の碑
一応、二の丸跡の石碑があった城内稲荷の付近だけは以前来た時とだいたい同じ面影を残していた。ビルの隙間にこれがあるので少し違和感が凄いです。なお、二の丸跡と言っても遺構は無い。


硝子碑
城内稲荷の近くにはガラスで出来た石碑ならぬ硝子碑もあった。たぶんアオーレ長岡を建てた時にこの洒落た碑も建てたのだろう。ただ、石碑と違ってそのうち割れそうで怖い。


紅葉
小さなスペースではあるが二の丸跡の街路樹が紅葉して地味にきれいだった。


本丸跡の碑
なお、本丸跡の石碑は駅前にあり、こちらの風景は以前と変わっていないが、石碑が二の丸同様新しいものになっていた。

駅から西に離れた場所に藩主牧野氏の資料館、東に離れた場所に城に関係ある博物館があるが、そこまで乗り換え時間に余裕は無い為、今回はパスである。

2017年11月26日日曜日

10月の3連休旅行:高松城(岡山県岡山市)

2017年10月9日訪城。

松山城から下山後、帰りの新幹線に乗るため岡山方面へと移動して途中の高松に立ち寄った。軽く食事をして最後に羽柴秀吉の水攻めで名高い高松城に立ち寄る予定だったが、高松のうどん屋で頼んだ「宗治うどん」が思いのほか量が多く(※しかも2段重ねの重箱だった…)、じっくり食事をした結果かなり時間を食ってしまった。

高松城は中世に三村氏家臣の石川氏によって湿地帯に築かれた平城で、毛利氏に攻略されてからは清水宗治が城主となった。その後、1582年に織田氏家臣の羽柴秀吉の軍勢に包囲されて水攻めを受け、低地だった城の大部分が水没してしまう。だが、包囲中に「本能寺の変」が起きたため、秀吉は宗治の切腹を条件に毛利と講和し、城の包囲は解かれた。後に高松は宇喜多領となって花房氏が城主となるが、一国一城令で廃城となった。

船橋跡
城跡へ向かう途中の小さな水路に架かる橋に「ふなはし」と書かれているが、これは城が健在だった時代に三の丸の水堀に船を連結して浮かべて橋の変わりとして利用していたことに因むものだという。現在橋の長さは3mほどだが、船橋があった頃は約64mあったという。城の周囲に広い堀があったことが良くわかる話だが、現在は水田と住宅地でその面影はあまり無かった。


築堤と本丸の高さの比較
船橋の先の住宅地が既に三の丸跡になるが、三の丸跡の北側に行くと高松城の史跡公園へと入る。公園の入口には城を水没させた築堤と本丸の高さの実寸が展示されており、なかなか面白い。


二の丸跡と高松城資料館
公園に入ってすぐの所に見える蔵のような建物は資料館で、この辺りから二の丸跡になる。公園内だと二の丸と三の丸の境界が判りづらいが、画像の画面外右側の方にかすかに堀跡とみられる箇所が確認できる。


蓮池
本丸跡と二の丸跡には堀があって橋が架かっている為、境界は非常に分かりやすく、南側に広がる蓮池も城の周囲が水堀だった面影をよく残している。この蓮池は公園整備の際に埋まっていた堀を掘り返した物で、その時に埋まっていた400年前の蓮の種が発芽したらしく意図せずに自然に蓮池になったという。他の土地でも古代の蓮が咲いた事例があるだけに植物の時間のスケールには驚かされるものがある。


本丸跡
本丸は二の丸よりも少し高いため、他の郭に比べるとその跡が判りやすいが、内部には宗治の辞世の句碑と首塚があるくらいで、城の遺構はあまり見当たらなかった。本丸まで見た後は予定では築堤を見に行くはずだったが、時間が無くなってしまった為、ここでタイムアップとなった。

2017年11月24日金曜日

10月の3連休旅行:松山城(岡山県高梁市)

2017年10月9日訪城。

10月の連休最終日は念願だった備中の松山城へと出かけた。想像では城下町から山の上の城が見えると思っていたが、現地に着いてみると街から城は確認出来なかった。というか、予想以上に山が高かった。

松山城は鎌倉時代に秋庭重信が大松山に城を築いたのが始まりだが、1681年に水谷勝隆が近世城郭へと大改築をして今の形になったという。松山城は松山藩の藩庁として幕末まで続き、戊辰戦争では無血開城した。

中太鼓丸櫓跡
とりあえず、路線バスで城見橋まで移動した後、シャトルバスで鞴峠まで登ったが、既にこの時点でかなり高い場所まで移動した。鞴峠から山道を登っていくとまず現れるのが中太鼓丸櫓の立派な石垣だった。ここからは城下町が遥か下に見えて既に絶景でだった。


大手門跡
しばらく山道を登ると大手門跡が目の前に現れるが、ここから先は一気に風景が変わって別世界だった。ここに至るまでは、山の中にピンポイントで遺構があったのだが、ここから先は総石垣造りで、まさに城の内部に入ったという感じである。


登城路と郭群
郭群を脇目に登城路を登ると、脇にある土塀がなんともいい味を出しているが、これも現存する遺構で、「三の平櫓東土塀」という名前で文化財に指定されている。


二の丸
登城路をひたすら登っていくと最も広い郭へとたどり着くが、ここが二の丸跡で、ベンチ等で休憩する大勢の観光客で賑わっていた。あと、ここからちょうど本丸の平櫓と天守閣が一緒に見える為、写真撮影でも賑わっていた。(※画像ではなるべく人が写らないように撮っています)


本丸と天守閣
本丸の平櫓は復元した建物で、管理事務所としても使用されており、ちょうど門の所が料金所で本丸内部は有料になっている。山登りに際してペットボトルの水は持ってきていたが、本丸の給水所のお茶は喉が渇いていただけに有難かった。天守閣は二層二階のコンパクトなもので、本丸から見ると岩山の上に石垣を組んで建っているのが良くわかる。


天守閣からの眺め
天守閣は現存十二天守の中では一番小さいが、そもそも高い山の上に重機が無い時代のこんな建物があること自体がとんでもないことである。それに、天守閣から城下と遠くの山々が十分見渡せるし、これ以上高くなっても景色は変わらないだろう。


秋明菊
天守閣の下には秋明菊が沢山咲いており、ここでは備中兵乱の舞台になった為に赤い花しか咲かないという伝説も天守の説明の中にあった。白く見えるのは蕾のもので、実際咲き切ったものは全て赤い花だった。


本丸二重櫓
備中高松城というと天守ばかりが話題に上がるが、本丸の裏側に回るとこちらには立派な二重櫓があり、これも現存する文化財だという。写真を撮っている場所は後曲輪で井戸の跡があった。


堀切
後曲輪より奥は山道は下り坂になり、ずっと降りて行った先の鞍部に堀切があった。ただ、マップの地名は「土橋」だが、ここの堀切は石垣で補強されており、どう見ても「車橋」や「刎橋」を架けた跡にしか見えない。


番所跡
堀切を渡った先に番所跡の広場があり、この先は再び登りの登山道になって相畑の城戸や天神丸、大松山、大池に続いているそうだが、今回は体調や時間の都合でここでギブアップ。次に来るときは体調も万全にして麓から足で登りたいものである。