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2023年2月24日金曜日

羽州街道:上山宿(山形県上山市)

 2023年1月22日散策。

上山藩の城下町は羽州街道の宿場町でもあり、更に温泉宿もあるというなかなか盛り沢山な町で江戸時代にはかなり賑わいがあったようだ。

矢来橋
上山宿の江戸口は矢来橋の手前にあり、道が折れ曲がるように土塁と木戸が設置してあったようだが、現在はその場所がわからないほど痕跡が無くなっている。たぶん画像の矢来橋と交差点との間らへんにあったはずである。

枡形跡
橋を渡った先には枡形のスペースがあり、画像の右手あたりにかつては番所があったのが絵図で確認できる。上山宿に入る人々は一旦ここで身分や荷物を確認されたのだろう。

上山宿十日町
上山宿に入ってしばらく行った場所の十日町あたりが宿場町の中心部で、画像の右手奥に見える「しまづ」が本陣跡である。一方、手前左手は長屋門を改造した建物のようである。

羽州街道から大手道に入る箇所
本陣跡から斜め前あたりにお城に行くための大手道が分岐しており、分岐した先にはかつては上山城の大手門があった。なお、画像の付近には羽州街道の説明板も設置してあった。

羽州街道から見た観音堂と温泉場
羽州街道をさらに北上して交差点で左側を見ると突き当りに観音堂がある通りが見えるが、ここの右手奥に温泉の共同浴場がある。この浴場と観音堂はともに江戸時代の絵図にも載っており、歴史あるスポットである。

羽州街道から見た愛宕神社
羽州街道を更に北上すると愛宕神社の石柱が街道沿いにあるが、ここの愛宕神社も江戸時代と同じ場所に今も鎮座している。なお、ここに至るまでの途中に脇本陣跡があったらしいのだが見つけられなかった。

鍵の手
しばらく進むと道が折れ曲がる宿場町や城下町特有の鍵の手がある。ここを境界にして先の町は十日町ではなく新丁と呼ばれる。

山形方面の木戸跡付近
新丁の先には上山宿の北の入り口である土塁と堀と木戸があったようだが、こちらもハッキリとした痕跡は見当たらず場所を特定することが出来なかった。画像は恐らくここらへんじゃないかなと思った場所。


2023年1月30日月曜日

山形への温泉旅行:米沢城(山形県米沢市)

2023年1月21日訪城

山形のかみのやま温泉へ向かう途中、米沢に寄り道して米沢城へと立ち寄った。この日の米沢は雪模様の天気で、いかにも冬らしい景色が見られたが、その分寒さも一際あった。

内堀
本丸内堀は部分的に氷が張っている箇所はあったが、全体では凍ってはおらず、橋の下などを覗くと鯉が密集しており寒さを凌いでいるようだった。


本丸大手の橋(上杉神社参道)
本丸跡へと向かう道は雪が厚く積もっていたが、人の足跡で轍が出来ており、こんな日でも上杉神社に多くの人が参拝しているようだった。

上杉神社
実際、拝殿には入れ代わり立ち代わり人が訪れており、人が映らないように撮るのが難しいほどだった。なお、今回は雪で散策がままならなかった為、神社に参拝後は駅へと戻ることにした。

鳩
こんな雪の日でも鳩たちは神社の参道付近に集まっており、なかなか逞しいかぎりだった。せっかくだから神社で売ってる鳩の餌でもあげようかと思ったが、以前あった鳩の餌の自販機が残念ながら見当たらなかった。


2023年1月29日日曜日

勝竜寺城(京都府長岡京市)

2023年1月9日訪城

大阪旅行からの帰途、途中の京都府の長岡京で、まだ訪れたことが無かった勝竜寺城にも立ち寄ってみた。城は細川藤孝の居城として知られた場所で、息子の忠興に明智光秀の娘の玉(ガラシャ)が嫁いだことから、山崎の合戦に敗北した明智光秀が最後に立ち寄った場所としても知られている。


空堀と土塁と土橋と虎口
勝竜寺城跡の北側には北外曲輪と神足屋敷曲輪との間にあった空堀と土塁が残っており、土橋と虎口も残っていたが、残念ながら虎口の先は私有地のためか通り抜けは出来なかった。



神足神社(神足屋敷跡)
神足屋敷跡は元々は独立した武士の館跡だったらしいが、勝竜寺城が築かれた時に取り込まれて曲輪の一部となった。現在は公園と神足神社の境内となっている。



本丸の模擬隅櫓
勝竜寺の本丸に向かうと立派な水堀と塁壁が現れるが、北東隅には隅櫓もどきのよく見ると謎の建物が立っていたが、逆から見るとスカスカで櫓ですらなかったのは衝撃的だった。



模擬虎口
画像は本丸の北の入り口だが、土橋っぽいのも門っぽいのも全て模擬で、当時はここはただの水堀だった。


本丸北御門跡
本当の虎口は模擬虎口よりも西側にあり、ここには当時の石垣が残っていることが解説板に書かれていた。画像だけだと分からないが、立派な枡形虎口で門の礎石も残っていた。


本丸南御門跡
一方、本丸の南の虎口は場所は当時と同じだが、石垣や門などは全て模擬だという。なお、本丸内部は2階が歴史館になっている管理棟の建物と庭園になっている。


本丸西土塁
本丸は西側の土塁だけが異様に高くなっており、この土塁の中央には帯曲輪に出るための虎口跡の窪みがある。なお、土塁の南部が場内で一番高くなっているため、ここに天守相当の櫓があったのではとされている。

沼田丸と空堀跡
勝竜寺城跡では本丸と沼田丸だけが城址公園となっており、その周囲の曲輪跡はすべて住宅地になっている。画像は沼田丸の北側の空堀跡で、今は埋まってしまってはいるが、当時は二重堀だったようだ。

外曲輪の外堀
北側の外曲輪は宅地化で輪郭が微妙に分かりづらいが、南側の外曲輪は西側の水堀跡が水路になってよく残っている。

勝龍寺
その南の外曲輪の中心には城の名前の由来になった勝龍寺が残っており、ここから東に向かった場所のT字路らへんに城の南の大手門があったようだ。

外曲輪の大門のモニュメント
大手門跡より東側には現在大門橋が架かっているが、中世の大門橋はもうちょい南側にあった。なお、現代の大門橋のたもとには画像のような門をイメージしたモニュメントが立っていた。
 

2023年1月20日金曜日

大阪城(大阪府大阪市)

2023年1月8日訪城。

歴史博物館を出た後は隣の大阪城へと向かったが、既に夕方になっていたため、大手門から入った後は豊國神社に立ち寄って本丸へと向かった。

豊國神社
急いではいたが新年に大阪城を訪れた以上は神社に立ち寄っておかないと気が済まないため、手っ取り早く参拝を済ませて瓢箪のお守りを購入した。なお、豊國神社の総本社は京都にあるが、ここは総本社に次ぐ社格となっている。


本丸大手門
三の丸大手門の枡形ではどこにも門松が無かったが、本丸の大手門前にはちゃんと門松が立てかけてあった。年末年始の城廻では城門に門松があると地味に嬉しくなる。


現代の大阪城天守閣
今回、大阪城の天守閣入り口の検疫所に着いた頃にはちょうど閉館時間となっており、残念ながら中に入ることは出来なかった。なお、本丸ではちょうど豊臣石垣の展示エリアの整備工事が行われていたので、工事が完了した頃には再度訪れたいところである。


馬出の石垣
一通り散策後は京橋口から外に出たが、この辺りの街中でも地味に当時の石垣を見ることが出来た。画像の石垣は京橋口の馬出しに使用されていた石垣で、発掘で出土したものを地上に展示したものだという。


2023年1月18日水曜日

堺環濠都市遺跡(大阪府堺市)

2023年1月8日散策。

住吉大社へ参拝した後は、15~16世紀の歴史を読んでいると出てくる「堺」という環濠都市跡を散策するため、堺市へと向かった。

環濠
現在も西側と南側の環濠が残っており、環濠都市の面影はあるが、海側が埋め立てられているのと、現代のビル群が立ち並んでいるせいで、予め知っていないとただの川にしか見えないのは困ったところ。


千利休屋敷跡
とりあえず、まずは堺の有名人である千利休(千宗易)の屋敷跡へと行ってみたが、ビルの隙間にご覧のスペースがあるだけで、なかなかショッキングな光景だった。一応フォローを述べると、画像のスペースは屋敷跡の一部分らしいので、本来はもっと広かったようだ。



井戸跡
内部は小さな空き地になっており、千利休の石碑と画像の井戸があるだけだった。一応、ガイドの方も1名いて説明していただいたのだが、あまりにも見どころが少なすぎてこちらが申し訳ない気持ちになるくらいだった。


住吉大社頓宮飯匙堀
千利休屋敷跡から少し東に行ったところに住吉大社頓宮があったので立ち寄って参拝したが、ここは夏越の祓の時に住吉大社から神輿を担いでやってくるゴール地点らしい。


白夜の兎
ここにも住吉大社の神使の兎をモチーフにした石像があったが、ぱっと見では丘というよりは月にいる兎のようにも見える。


極楽橋
環濠のうち東側は埋め立てられて今は土井川公園となっているが、この公園の中にかつて環濠に架かっていた極楽橋が移築されている。この橋は江戸時代のものらしいが、堺の町に入るために渡った橋を体験できる貴重な遺物である。


商家:山口家住宅
堺の町は今ではビル等の現代建築だらけで、辛うじて寺社あたりに昔の面影が感じられるくらいだった。そんな中で、唯一商家の跡を体験できたのが画像の山口家だった。昔の農家や武家屋敷等の建物は今まで散々見てきたが、この建物はそれらとはまた違った作りになっていてなかなか新鮮な体験だった。


鉄砲鍛冶屋敷
山口家を見た後は、地図にあった鉄砲鍛冶の屋敷も見に向かったが、こちらは残念ながら整備のための工事中でまだ公開されていなかった。それでも、この界隈は江戸時代のような建物がいくつかあり、堺の中では最も昔を感じられる場所だった。


2023年1月15日日曜日

2023年初詣:住吉大社(大阪府大阪市)

 2023年1月8日参拝。

コロナ禍や足の怪我等でトラブル続きだった今までから心機一転するため、2023年初詣はまだ訪れたことが無かった住吉大社へと向かった。

住吉大社入り口
大阪に移動して一泊した翌朝、住吉大社へと向かったが、三が日過ぎたとは言え人出は多かった。


第一本宮
住吉大社は境内が特殊で、本宮が4か所ある上に第1~3は直列に並んでいるが、第4だけは横に並んでいるのが特徴的だった。


反橋
他に印象的だったのは反橋を実際に渡れることで、他の神社だとこの手の橋は立ち入り禁止になっていることが多いだけにより印象的だった。なお、橋自体は見た目よりも急な階段だった。


撫で兎
第四本宮の前あたりに行列が出来ていて何かと思ったら、撫でるとご利益がある神使の兎の像があって皆これを撫でていた。今年の干支で演技が良いので賽銭あげて撫でてきたが、アルコール消毒装置が目の前に設置されているのは今のご時世らしい光景だった。


2021年1月10日日曜日

南三陸町への所用の旅:三嶋館(宮城県南三陸町)

 2020年3月20日訪城。

3月あたりからちょうどコロナの話題で騒がしくなってきており、花粉症持ちなこともあってあまり外には出たくなかったが、震災関連の所用で南三陸町に行くことになった為、この機会に南三陸町の史跡の現状を確認しておくことにした。

最初に向かった先は歌津の三嶋館跡で、葛西氏家臣の浅野時重の居館である。1586年に起こった本吉大膳と歌津十二人衆の戦いである志津川海戦において、陸上戦の激戦地だった場所であり、浅野時重はこの三嶋館の南の方にある石名坂(細浦坂)で本吉軍を一度打ち破っている。

三嶋館遠景
歌津のかつて伊里前の街があったあたりは嵩上げ等の工事が現在進行形で行われており、国道45号バイパスが津波で消滅した為、旧国道45号から三嶋館前で折れ曲がりバイパスに合流するルートが現在の国道45号となっている。画像奥に見える独立丘陵が三嶋館跡であるが、この丘は60年代頃のバイパス工事で画像右側の奥が消失している。


三嶋神社の参道から見た城下町跡
三嶋館跡には現在三嶋神社が祀られており、かつては神社の参道前から西に向かって街道がまっすぐ伸びていた。画像の手前から奥に向かって街道があったのだが、震災による津波で消滅しており、現在は更に地盤が嵩上げされて面影は全くなくなってしまった。震災前の航空写真を見ると三嶋館跡から西に伸びた道沿いに街が形成されており、元々は城下町だったことが想像できる。


三嶋神社境内
参道の階段を登った先は三嶋神社の境内になっており、恐らくここが二の曲輪跡と思われる。ここには土塁が一部残っており、北側に虎口と思われる構造が確認できる。なお、神社が館跡に勧請されたのは元禄の頃で、計仙麻大島神社から分霊したものだという。


主郭跡の切岸
神社のある曲輪よりも東に行くと主郭跡の切岸と思われる2~3mの段差が確認できる。本来はこの上が主郭跡と思われるのだが…。


主郭跡西から主郭跡東を望む
現状は画像の通りで主郭跡の中心部がごっそり丘ごと消滅している。画像の奥に東端部の残丘が見えるが、かつては手前の丘と繋がっていた。


消失した主郭跡
消失した主郭跡の丘の部分には国道45号(旧国道45号バイパス)が通っており、60年代頃のバイパス工事で消失したらしい。かろうじて60年代の白黒航空写真で主郭跡が確認できるが、70年代の航空写真では既に消滅している。


主郭跡東から主郭跡西を望む
国道脇から東の残丘に登れる道が付いているが、ここから登って神社がある側の丘を見ると画像のようになっている。


館跡の東端部
東の残丘部分にわざわざ後から道を付けた理由は画像の祠があるからのようで、この場所は東側の腰郭跡にあたる。この部分は伊里前湾に突き出た岬の先端でもあるため、当時は海側を監視するための場所だったと思われる。

2021年1月3日日曜日

新春の奥久慈への旅:鏡城(茨城県大子町)

 2020年2月24日訪城。

棚倉町から矢祭町に戻って一泊した翌日は水郡線で再び水戸方面へと移動し、大子町で代替バスに乗り換える為に駅から出た。バスの待ち時間が勿体ない為、乗るバスは何本か後に回し、大子の街中を抜けて久慈川を渡った先にある鏡城を目指した。

鏡城は707年に近津明神のお告げを夢で見て近津神社を創建した藤原富得の居城と伝わっており、子孫は代々宮司を務めて中世には佐竹氏の家臣となっている。16世紀の白川結城氏の常陸侵攻時に家臣の関氏によって攻め落とされており、白河結城氏家臣の深谷氏が一時城代を務めたが、後の佐竹義篤の反攻で奪還されている。

山倉稲荷神社
城のある山への登山口はおおまかに2つあるようだが、登りは山倉稲荷神社という目印がある南の尾根先から登った。


南尾根
南尾根は一旦尾根に登ってしまえば緩やかな登りで歩きやすかったが、途中に画像のような岩場があって道が折り曲げられていた。尾根筋の道を登ってきた敵を迎撃するにはちょうどいい構造だが、見た感じでは自然石のため意図して造られた構造なのか偶然たまたまこうなっただけなのかは判断がつかない。


尾根の分岐点
南尾根は途中で南東方面に伸びる尾根と合流し、北に鏡山があるため逆Y字型の構造になっている。今回は南東尾根も気になったので、鏡山に登る前に確認しておくことにした。


南東尾根のピーク
南東尾根は見た感じでは自然地形で、しばらく進むと南尾根よりも高いピークに辿り着いた。地形的には東に広がる山々と繋がっているが、このピークの先は急斜面になっており、実質ここで切断されている。


南東尾根ピークからの眺め
ピークの上は狭くハッキリ言って城の遺構らしいものは確認できないが、画像のように街の方面を眼下に見ることが出来たので、物見台があった可能性があるかもしれない。


鏡山鞍部
南東尾根から再び合流点へと戻り北に進むと一旦鞍部になるが、ここでもう一つの登山道と合流している。また合流ポイントに城址の説明板も設置してあった。


文化二年の供養碑
鞍部から更に進んで鏡山斜面の山道を登っていくと、途中に文化二年の供養碑があった。時代的には江戸時代で、ちょうど伊能忠敬が地図作成のために東海道付近を測量していた頃である。梵字でオンの後に「最勝三□讀誦供養」(※□は該当する漢字が見当たらなかった)と書いてあるので法要に関するものだとは思うが、何故ここにあるのかは謎である。


雷神社
山道をしばらく登ると頂上の雷神社の鳥居が見えてくるが、鳥居の手前には帯曲輪があることが確認できた。ただ、この帯曲輪に至るまでは特にこれといった遺構は見られなかった。


主郭
主郭部分は想像していたよりも広く、神社の東側には画像のように削平地が広がっていた。この主郭以外は小さな腰郭や帯曲輪でしか無い為、山城としてはかなりシンプルな構造である。

帯曲輪
主郭の一段下に帯曲輪があり、北側は腰郭と合わせて三段になっているが、曲輪自体はかなり狭い。斜面がやや急なので年月の風化で削れたのかもしれない。


鏡山南西麓の登山口
結局、見所は山頂の周囲にしか無かったので、ぐるりと見た後は下山した。帰りは鞍部から西側に降りる登山道を使ったが、こっちは雨水で道が削られていたりして意外と歩きづらかった。登山道を下りて行くと画像の畑のあたりに出てくるが、車道に出るまで農道や民家裏を通る為、予め知っていないと判り辛いかもしれない。