2019年6月29日土曜日

春の連休の旅:富沢館(宮城県仙台市)

2019年3月23日訪城。

連休3日目は仙台市の南側、太白区の富沢へと移動した。地下鉄の南北線の終点がある町でもある。目的地はその富沢にある富沢館で、仙台藩士入生田氏(山岸氏)の在郷屋敷跡である。古くは国人領主の粟野氏家臣の富沢氏の居館と伝わるが定かではない。

仙台で富沢というとサンドウィッチマンを思い出すが、富沢たけし氏は家が転勤族で生まれは東京らしいので残念ながら関係無さそうだ。相方の伊達みきお氏はガチの伊達家一門(大條氏)であるが。

笊川
富沢の街中には笊川が流れており、小川ではあるが堤防は緩やかな傾斜で深く造られており、画像のような沈滞橋なども架かっていて印象的な川だった。


富沢館主郭跡
今回、仙台市に来て富沢館跡に足を運んだのは、富沢館跡が開発で消滅すると聞いたからであって、画像の通り少し来るのが遅かったようだった。住宅地と思われる区画はこの時点で完成しており、今年中にはここは周囲と同じ住宅が立ち並ぶ町になるのだろう。


富沢館主郭西側の土塁
一応、辛うじて主郭西側の土塁だけは開発を逃れており、どうやらこの周囲を公園にする計画のようだ。普通なら主郭中心側を芝生か何かの広い公園にして祭り等のイベントでも使えるようにするものだが、館跡の大部分を住宅地にして土塁の一部の周囲だけ公園とは使い勝手の面でも史跡保護としての面でも中途半端過ぎる気がする。

説明板
土塁のそばには説明板も設置されており、ビニールシートでまだ保護されているが、宅地開発前の姿が写真でハッキリ確認できる。説明板には仙台平野の城館では最大級と記載されているが、現状はごらんのありさまである。


富沢館堀跡
なお、説明板にも記載がある通り、主郭から民家を挟んで東と南に堀跡も残っていたが、ここも埋め立てられて整地されており、主郭跡同様に住宅地になるようである。

2019年6月23日日曜日

春の連休の旅:朝日館(福島県福島市)

2019年3月22日訪城。

郡山の片平周辺にて天候が悪化して来たため散策を切り上げ、雨雲を避けて北上し福島市内に入ったところで青空も見えていたため、福島市郊外のまだ訪れていない城跡へと向かった。向かった先は大森城からさらに西に向かった場所にある朝日館で、信夫庄司で有名な佐藤氏一族の信夫小太郎の居城である。

朝日館公園入口
県道362号から大森川の小川を渡って日吉神社に向かった場所が朝日館の北側の入口で、朝日館公園の駐車場もここにある。


日吉神社(鳥渡山王神社)
日吉神社は郊外にしてはそこそこ大きな神社で、説明を見る限りでは昔はもっと大きな建物があったらしい。創建は858年の藤原山陰と古く、朝日館の佐藤氏一族も信仰していたのだろう。


梅の花
神社の境内ではちょうど梅の花が咲いており、まだ色あせておらず綺麗であった。


日吉神社脇の広場
神社の本殿より一段高い場所に結構広い空間があり、公園整備で今の姿になったとは思うが、明らかに元々何かの空間があった場所である。神社の本殿より高い位置であることから、もしかすると朝日館の城主の屋敷はここにあったのだろうか。


山頂
とりあえず山頂まで登ってみるとそこは浄水場になっており、山頂の裏がすぐにしのぶ台の住宅団地になっている光景はなかなか衝撃的だった。これは団地の工事で山も削られたとみるべきか。とりあえず、山頂が元々この広さだった場合は本当に籠城時にしかしようしない空間だっただろう。


堀切跡
山頂から西の尾根に行くと堀切が確認出来る。堀切の先に四阿があり、古い石碑があったが文字は読めなかった。


四阿付近から福島市街を望む
あと、山頂は浄水場のせいで展望がイマイチだが、四阿のあたりからは遠く福島市街と信夫山が望めた。展望はなかなか良いので、佐藤氏一族がここに目を付けたのもわかる気がする。


虎口(外側)
西側から南にかけては団地で見るべきものが無い為、東側の山の斜面に向かったところ、虎口跡と見られる箇所が確認出来た。画像の箇所は登っていくと土塁に阻まれて道が折れ曲がるようになっている。


虎口(内側)
土塁の内側は小さな空間になっており、ある意味桝形に近いが、時代から見て桝形ではなく門を守る兵の番所があった場所だろうか。


陽泉寺の梅の花
虎口と見られる場所から東に降り、さらに坂を下りていくと陽泉寺の墓所に入るが、ここでも梅の花が咲いていてなかなか綺麗だった。


下鳥渡供養石塔
陽泉寺の北側で、朝日館中腹の北東端には国指定の文化財である下鳥渡供養石塔があり、画像奥の覆堂の中にあるのだが、石塔が中にあるということしか分からなかった。むしろ隣に聳えているデカい石塔の方が目立っている為、こちらと勘違いしそうではある。

2019年6月17日月曜日

春の連休の旅:鹿島館(福島県郡山市)

2019年3月22日訪城。

片平下館跡の散策後、そこから北東に移動した場所にある鹿島館跡にも立ち寄った。この城跡は歴史的経緯が不明ではあるが、地図や航空写真で見るとこの場所だけが異様な地形になっており、どうしても気になったので自分の目で確認することにした。ちなみに鹿島館の名は鹿島神社(移転して今は無い)がかつてこの場所にあったことに由来するという。

城跡遠景
周囲は圃場整備された水田地帯で、城跡はまるで島のようにこの中に存在していた。な、すぐそばを県道55号と待池台の工業団地を繋ぐ市道が通っている為、水田地帯にも関わらず交通量が多かった。


城跡近景
丘の上は近くて見ると2~3段の構造になっており、周囲には堀跡と見られる窪地や水路も確認出来た。過去の航空写真等を見ると北東部に向かって展開する梯郭式に近い形の城跡だったようだ。


主郭跡
丘の西側が最も高い為、ここが主郭だと思われるが、現在はここも水田となって遺構は確認できない状態だった。左側に土塁のようなものが見えるが、これは水路の堤でわざわざポンプを使って水を丘の上に揚げる仕組みのようだった。ハッキリ言ってそこまでして小さな丘の上を水田にする必要があったのだろうかという疑問が残る。

二の曲輪跡
主郭の東側の一段低い場所が二の曲輪跡で、ここも同様に水田になっており、主郭から水を落として使用しているようだ。ここも主郭同様に遺構は確認出来ず、曲輪跡だったということが判るだけであった。

2019年6月16日日曜日

春の連休の旅:片平下館(福島県郡山市)

2019年3月22日訪城。

片平城を散策した後は、100mほど東隣にある下館にも訪れた。この下館も片平伊東氏の居館とされている場所で、地図などではぱっと見で平地だが、現地に行ってみると小高い丘なのが分かる。

外堀跡
片平城から移動して地図上の住所の「下舘」を目指すが、下舘の北側にもずばり「外堀」という名の住所が残っている。画像がその「外堀」の西側部分で、奥の水田部分は周囲よりやや低くなっていた。なお、画像手前の石碑(板碑)も気になったが、文字は掠れて全く読めなかった。


主郭跡
下舘の中心部は小高い丘になっており、現在は畑となっていた。北西部分等は宅地によって削られた跡があるので、当時は70m四方の正方形の丘だったものと思われる。


主郭との高低差
丘といっても小高いもので、車道からは5m未満程度の高低差しか無い。城の分類でいえば平城に含まれるレベルである。


外堀跡
ただ、どうも単郭方形のよくある居館では無さそうで、「下舘」の東西には「西戸城」や「東戸城」といった出丸のような地名がくっついており、東戸城の外側には外堀の跡も見られた。画像では手前が池のようになっているが、実際は画像の奥まで堀跡のような窪地が続いており、しかも奥で右に曲がって続いているようである。この延長線上に回り込んでみると、民家の中に残る水路と呼ぶには大きすぎる池に続いていた。

2019年6月14日金曜日

春の連休の旅:片平城(福島県郡山市)

2019年3月22日訪城。

郡山入りした翌日は朝から郡山市郊外にある片平城へと向かった。昨年、磐梯熱海温泉近辺を訪れた際に行くとこリストに入れていたものの、天候の悪化で回避せざる得なかった因縁の地である。

片平城は片平親綱の居城で、親綱は伊達政宗ファンなら知る人ぞ知る大内定綱の弟である。片平親綱より以前は片平伊東氏の居城だったが、大内氏により会津へと追いやられている。

河津桜
片平の城下町だった上町、新町を歩いていると、城の近くで桜が咲いているのが目に付いたが、まさかと思ったら早咲きの河津桜だった。この辺りのソメイヨシノが咲くのが4月中旬なのでかなり早い花見である。


片平城案内板
城に近づくと親切にも案内板があり有難い。案内板の後ろに見えるのは今流行りの太陽光発電所である。グーグルマップだとまだ畑になっているので、本当に最近出来たようだ。


片平城入口
片平城入口は民家の脇にあり、城跡も恐らく私有地のようだが御厚意で解放されているようだ。熊出没注意の看板があるが、住宅地まで頻繁に来ることは無いと思うし、熊が隠れれるような深い藪も無いのでそこまで心配することもないと思う。


西曲輪
登城路を登った丘の上は片平城(上館)の西曲輪で、周囲には土塁も残されていた。比較的広さはあるので当時は建物があったかもしれない。ちなみにここにはソメイヨシノも植えてあるようである。


堀切と土橋
西曲輪の北側には堀切を挟んで主郭があり、ここは土塁で繋がれていたが、ここの堀切の鋭さと土橋のザ土橋という感じは見事だった。また、主郭側には堀切の内側に土塁が築かれており、この奥が重要区画だということをちゃんと物語っていた。


主郭
主郭も西曲輪に劣らず建物がおけるだけの広さがあり、現在は鳴神神社の祠が祀られていた。それにしても田村氏の影響範囲には鳴神神社がやけに多いのだが、何か理由があるのだろうか。


主郭北側
主郭北側は竹藪で倒木が酷かったが、岬状の地形になっているようだった。物見か何かがあった場所だろうか。


梅の木
なお、主郭には打って変わって梅の木が植えられており、ちょうど満開の花を咲かせていて綺麗だった。

中館
主郭から東を見ると低くなった丘に畑が広がっているが、この辺りは中館と呼ばれており、もしかすると片平氏の平時の屋敷があったのかもしれない。ただ、「まほろん」の遺跡地図だと中館は画像の左奥に見える建物の辺りを示していた。


愛宕神社
愛宕神社は新町と上町の境界の後ろにある丘の上に鎮座しており、恐らく隣の天王台の丘も含めて片平城の一部だと思われる。社殿のある丘の上は周囲を土塁で囲まれており、東の出丸といった感じがる。

2019年6月10日月曜日

春の連休の旅:宇都宮城その2(栃木県宇都宮市)

2019年3月21日訪城。

その1からの続きで、今度は市街地化している三の丸跡を南から反時計回りに移動した。

南館堀跡
南三の丸(屋形曲輪)は完全に住宅地となっており、南館門跡の痕跡も確認出来なかった。曲輪の南にあった南館堀については、平成通付近が住宅地より明らかに一段低くなっており、「南館堀跡」の説明板もあったので確実に堀跡の痕跡だろう。画像だと文字が掠れてしまっているが、この説明板に「南館堀跡」と書いてある。


地蔵堀跡
南館堀跡から南西に行った場所に地蔵堀の跡があり、画像の左側に南館堀同様に説明板が設置してある。この周囲はやや窪んでいるため、堀跡の痕跡だと思うが判り辛い。


西館堀跡
地蔵堀跡から北上すると西館堀跡に沿って移動することになるが、カワチ薬品のドラックストアから北の交差点あたりまで段差があるのが確認出来るが、そこから判らなくなる。さらに北上すると宇都宮市役所にぶつかるが、ここに説明板があったので堀跡の上に市役所があるようだ。


西館堀の痕跡
よく見ると市役所の敷地は大きく凹んでそのまま地下1階に繋がっており、堀跡をそのまま地下に利用しているようだ。まぁ、堀を埋めるにも膨大な土砂が必要なので、そのまま地下として利用したのだろう。


百間堀跡
西館堀跡をさらに北上すると百間堀跡となるが、周囲は市街地となってやはり判り辛い。関東農政局付近に一応説明板が設置されていた。


百間堀の痕跡
百間堀の幅は43mあったそうだが、ちょうど駐車場の脇の道に堀の痕跡が確認出来た。画像の通りハッキリと凹んでおり、この奥が三の丸跡、手前側が惣構跡である。


三の丸土塁(大銀杏)
百間堀の内側にあった土塁は唯一画像の箇所に残されており、土塁に大銀杏が鎮座していた為に奇跡的にここだけが崩されずに済んだようである。


三日月堀跡
三の丸の北には正門である太鼓門があったが、今は宇都宮中央郵便局となっていてさっぱり痕跡は確認出来なかった。ただ太鼓門の北にあった丸馬出の痕跡は辛うじて残っており、馬出の外側の三日月堀跡が車道になっていた。


三日月堀の痕跡
宇都宮中央郵便局の北に不自然にカーブを描いた小道があり、そのカーブが三日月堀の東半分にあたっている。画像の左側は宇都宮中央小学校で、明らかに地形に落差があるため、右側が堀跡だというのが分かる。


大手門跡
最後に惣構えの大手門跡にも立ち寄ったが、画像の通り説明板があるだけで目に見える形で門跡の痕跡は確認出来なかった。

2019年6月8日土曜日

春の連休の旅:宇都宮城その1(栃木県宇都宮市)

2019年3月21日訪城。

3月下旬に上手いこと連休が確保出来た為、仙道沿いに仙台まで出かけることにした。途中、宇都宮に立ち寄り、いつものように餃子定食を食べた後、宇都宮城址へと出かけた。

宇都宮城は平安時代の藤原宗円に始まる歴史の長い城で、徳川家康の家臣の本多正純が城主になった頃に大改築されて関東7名城に数えられるほどの近世城郭となっている。

宇都宮城内堀
まず、ある目的があって宇都宮城址公園へと移動したが、ここは相変わらず構造物の方は特に代わり映えはしていなかった。


清水門跡
以前来た時は気付かなかったが、よく見たら地面に清水門跡の桝形が平面表示されていた。清水門は本丸の北にある正門(大手門)である。


宇都宮城の桜(河津桜)
今回来た目的はちょうど満開の桜を見ることにあった。3月なのに北関東の桜が満開というのはおかしいと思われるかもしれないが、これは早咲きで有名な河津桜とのことだった。


桜のトンネル
二の丸裏門跡付近には桜のトンネルも出来て、まさに満開真っただ中で綺麗だった。全体的に桜の名所ほど数は多くは無いが、想像していたよりも見応えがあって良かった。


二の丸南門土橋
桜のトンネルのある場所は実は二の丸堀の上で、トンネルの脇の方に堀にかかっていた土橋の跡が残っている。土橋は側面を石垣で補強していたが、現在見られる石垣は復元したもので、現存石垣は復元石垣のさらに下に埋まっている。


本丸の塁線ライン
本丸の内堀は現在西側しか復元されていない為、南の方は本丸と二の丸の境界が無くなっているが、一応ここにも地面に本丸の範囲を示す青い線が引かれていた。


伊賀門跡
本丸の南にあった伊賀門(搦手門)の説明は一応公園内にあったが、門跡自体は公園から出て外の車道側にあった。ちょっと判り辛いが、ここも清水門同様に地面に門の枡形を示す色違いの線が引かれていた。


本丸跡から見た二の丸跡と蓮池跡
ちなみに本丸二の丸は河岸段丘の上にあるようで、画像のように手前と奥とではかなり高低差があった。ちなみに画像の手前が本丸跡で、かつては画像の真ん中あたりに二の丸堀と二の丸が帯状に横切る形で存在していた。


二の丸のふち
段丘崖となっている画像の箇所が二の丸の外ぶちだと思うが、絵図などと見比べると、もうちょい外側に出ていたように見えるので、開発や風化などで崖が後退してしまったか。


蓮池跡側から見た二の丸・本丸跡
中堀である蓮池跡に降りてみるとより高低差が分かりやすい気がする。ちゃんと計ってはいないが5mくらいの落差だろうか。藤原宗円の頃は恐らく段丘の上だけを使用していたはずなので、元は段丘端を利用した丘城に近いタイプの平城だったのだろうと想像がつく。