2019年7月14日訪城。
北上で一泊した翌日は釜石線に乗って釜石へ移動した。三陸沿岸は震災以降何度か訪れているが、来るたびに風景が更新されているため、毎度新しい発見がある。釜石駅前ではこの日何かのイベントをやっており、小さなステージで大道芸や歌が披露されていた。あと、ラグビーワールドカップを2か月後に控えていたこともあってラグビーバージョンのハイネケンが土産屋で大量に売っていた。
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魚河岸テラス |
北上を出発するのが遅かったせいで、釜石にはちょうどお昼に着いたが駅前の食堂などは行列が出来ていて時間がかかりそうだった。このため港の方に移動して、魚河岸テラスの中にある食堂で昼食をとった。
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魚河岸テラスから見た狐崎城 |
魚河岸テラスで食事をとったのにはもう一つ理由があって、ちょうど今回行きたかった狐崎城に近いというのも要因だった。
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狐崎城の城址碑 |
狐崎城は阿曽沼氏家臣の狐崎玄蕃が築いた居城とされるが、狐崎氏は後に遠野の附馬牛村に移されている。その後、1601年に葛西氏の旧臣たち161名が立て籠もって釜石一揆を起こすが、これは伊達氏家臣の中島大蔵と白石豊後らによって鎮圧されている。厳密にはここは南部領側のはずだが、同じ年に南部氏の謀略で遠野を追われた阿曽沼広長が伊達家の支援で遠野奪還戦を繰り広げており、南部氏の遠野併合と伊達氏の大崎葛西一揆鎮圧が複雑に絡んでいるようである。なお、画像の城址碑は山の谷間の中腹あたりにある。
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大手口 |
城址碑から谷を登っていくルートが大手口で、搦手口は宝樹寺の北のあたりにあったとされる。この大手口を登っていくと人家に出たので、とりあえず今回は引き返したが、先人の話ではここの家のお墓から登れるらしい。
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狐崎城の中腹から港を見る |
城址碑から山の中腹を西移動すると、港が良く見える場所に出るが、ここは3.11の震災時に津波の映像がリアルタイムで撮影された場所なので、見覚えがある人も多いとは思う。それにしても、震災時に人々が狐崎城へと逃げ延びて生き残ったというのは、何か不思議な縁を感じる。
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狐崎城の中腹 |
港が見える場所からさらに西に移動すると、藪が無くなって獣道のようなものが見える場所があったため、そこからアタックしてみた。
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急斜面をよじ登る |
山道らしきものは確認できなかったため、急斜面をそのままよじ登ったが、この日は微妙に雨が降っていたこともあり、途中で滑ってずり落ちてしまった。やはり天候がマシな日に大手か搦手から登った方が良さそうだと痛感し、結局今回は断念することにした。
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愛宕神社 |
中腹をさらに西に移動するとバイパスの手前の狭い境内に愛宕神社が鎮座していた。この神社は1684年の創建なので城とは無関係であるが、由緒書きの半分以上が災害やバイパス工事での移転の記録であり、苦労した末の結果が今の様子というのがなんとも印象深かった。