2019年12月28日土曜日

春の会津の旅:伊佐須美神社(福島県会津美里町)

2019年4月21日参拝。

高田館跡の散策後は会津高田のランドマークでもある伊佐須美神社も訪れたが、ここは桜の名所でもあるためなかなか人で賑わっていた。伊佐須美神社は奥州の二ノ宮であり、岩代では一ノ宮と格式は高く、会津の地名の誕生にもちょっと関わっている場所である。

河川敷の桜並木
先に神社のすぐ東を流れる宮川の河川敷の桜並木(通称:宮川千本桜)も見に向かったが、桜並木は神社側から見て対岸にだけあるため画像のように遠景になってしまうが、満開の並木は遠くから見ても綺麗だった。


あやめ苑と桜
神社の隣にはあやめ苑があるのだが、ここも桜が多く植えられており、満開の桜で綺麗だった。あやめ苑の名前の通り周囲には菖蒲の花壇らしきものがあるのだが、園内の大部分が池で桜の木も多い為、どちらかというと桜のある公園という感じだった。


満開の桜
園内はソメイヨシノ以外の桜もちらほら見られ、たぶんコヒガンっぽい桜なんかが見られた。あと、園の西の方にはエドヒガンも巨木なんかもあった。


伊佐須美神社参道
あやめ苑から見える大鳥居をくぐって伊佐須美神社の境内へと入るが、このあたりは杜もあって厳かな雰囲気が良く出ていた。


薄墨桜
境内には今回密かに見たかった会津五桜の一つ「薄墨桜」があったが、残念ながら全く花が咲いていない状態だった。どうやら満開の桜を見るには、もうちょい時期を遅らせないといけないようだ。


飛竜の藤
境内には藤の銘木もあったが、一般的に藤棚で見る藤と違ってなかなかダイナミックだった。これで花が咲くとどうなるのか気になるところである。


伊佐須美神社仮本殿
参道の厳かな空気と違って、楼門の先の境内はまるで天井が抜けた家のように物足りない空気になっており、どうやら今ある建物は仮本殿で、元々あった建物は2008年に焼失してしまったらしい。


本殿跡
仮本殿の裏にまわると焼失した本殿の台座だけが残っており、なかなか痛々しい雰囲気だった。

表皮の焼けた木
境内を散策していると表面が焼けた木が見られたが、10年以上経っても火災の痕がハッキリわかるものだというのが意外だった。


2019年12月26日木曜日

春の会津の旅:高田館(福島県会津美里町)

2019年4月21日訪城。

船岡館跡を散策した後は高田の町に戻り、今度は町の西側にあった高田館跡を見に向かった。高田館は渋川氏一族の小松幸高(小俣幸高?)の居城だった場所で、伝承によれば新鶴城の横山左馬之助に攻め落とされたという。一方で塔寺八幡の古文書によれば渋川義基の居城で、こちらは蘆名盛高によって攻め落とされたという。とりあえず、渋川氏一門の城だったことは確かなようだ。

主郭跡
会津美里町の遺跡説明会の資料によれば今のダイソーのある場所が主郭跡で、主郭はほぼ正方形の形をしていたようだ。


主郭の土塁
主郭跡は南東隅の土塁だけが現存しており、今はその上に雷神社が祀られている。雷様は小松幸高の昔話の中にも出てきているので、城が現役だった頃から祀っているのかもしれない。

雷神社
鳥居と階段が土塁の南側にあり、上には雷神社の祠が鎮座している。小松幸高と奥方が出会った雷様は話の流れ的には城内では無さそうなので、どこか別の場所にも雷神社があると思われる。


内堀跡
主郭の四方にあった内堀は大半が開発で埋め立てられてしまったが、西側の堀だけは辛うじて農地になって窪みが判る状態で残っている。なお、この内堀跡を隔てて西側の丘が外郭跡になる。


満開のソメイヨシノ
堀の延長線上には高田中学校があり、堀を埋めて校庭が整備されたようだ。画像の左が学校、右が前述の内堀方向で、この境界を走る道沿いにはソメイヨシノが植えられており、満開で綺麗だった。

2019年12月21日土曜日

春の会津の旅:船岡館(福島県会津美里町)

2019年4月21日訪城。

会津若松で桜を見て周った翌日、少し遠出をして会津美里町方面へと出かけた。最初に向かった目的地は蘆名家四天王の一人である松本氏の居城の船岡城で、会津高田の街外れの杉屋地区にその跡地がある。

城址遠景
のどかな田園を山側に進んでいくと小川を境にして河岸段丘があり、この段丘の上にかつて船岡館が建てられていた。画像奥の雑木林の場所が段丘崖でその奥が城址。


土塁の上にある神明社
段丘を登った先はかつての外郭跡で、主郭跡の土塁の上に今は神明社が鎮座している。土塁はL字状になっており、主郭の南東隅と思われる。


主郭跡
神明社の土塁の上から主郭跡と思われる北西方向を見てみるが、残り全ての土塁が圃場整備や宅地開発で失われている為、境界が分からなくなってしまっていた。かつてはここに松本氏が暮らす屋敷があったはずであるが、畑の下に今でも痕跡は残されているのだろうか?


北西から見た城址
画像は逆に城址北西から南東の主郭跡の方向を見た景色。奥の右側の雑木林が土塁のあった神明社。手前には本来は馬場などがあった。

満開のソメイヨシノ
城址とは関係ないが、北西方向に桜の綺麗な場所があったので撮ってみた。地図で見ると溜池のようだが、公園というわけでもなく、なんで桜が植えられているかもよく判らなかった。

2019年12月8日日曜日

春の会津の旅:石部桜・石部館跡(福島県会津若松市)

2019年4月20日訪問。

日中の若松城の散策後、会津五桜の一つである石部桜も見に行った。石部桜を見るのは今回が二度目で、今回は桜を見に来ている人が以前よりも多かったのが印象的だった。

石部桜
住宅地を抜けて水田地帯のなだらかな斜面に出ると遠くに大きな桜の木が見え、そのインパクトには圧倒される。個人的に1本の木として見た場合では会津地方で一番見応えのある桜だと思う。


石部桜近景
石部桜は近くで見るとまた印象がガラリと変わり、まるで首が沢山ある竜がのたうちまわっているような荒々しさを感じる。


石部館跡?
石部桜は蘆名氏家臣の石部氏の居館の庭の桜が残ったものと伝わっており、現地を見る限りでは桜の北側の少し高くなっている箇所が、見晴らしの面から館跡ではないかと推察される。発掘調査記録などは無い為、実態のほどは不明である。


江戸時代の石部桜付近の絵図
石部桜は現地の説明板に載っている江戸時代の絵図にも描かれており、これを見ると桜の周囲は江戸時代の風景とあまり変わっていないことがわかる。なお、画面中央の赤くなった林にある社は今も三島神社として同じ場所にあり、画面右の滝沢本陣も現存している。


滝沢本陣と旧街道
画像は絵図の角度にできるだけ似せて撮った滝沢本陣。戊辰戦争で会津藩主が本陣を構えた場所として有名な場所で、ここが盆地の東端部のため街道の奥は猪苗代の高原へと登る坂になっている。

2019年12月1日日曜日

春の会津の旅:若松城(福島県会津若松市)

2019年4月20日訪城。

春の会津には何度か訪れているが、ふと若松城が赤瓦に変わってから桜を見に行った事が無かった事に気づき今回の旅先となった。若松城は会津藩の藩庁だった平城で、元は蘆名氏の居城の黒川城があった場所でもある。地元では雅名の方の鶴ヶ城で呼ばれている。


北出丸通りから見た天守閣
会津若松駅からバスに乗ったものの、当日は晴天で桜も満開とあって道路の渋滞が酷かった。たぶん、鶴ヶ城のバス停まで行かないで、市役所のバス停で降りて歩いた方が早かったと思う。北出丸通りにも桜並木があって綺麗だったが、通りの先に天守閣が見える風景は会津に来たことを一層実感させてくれる。


北出丸の水堀と桜
水堀沿いにも桜並木があり、堀に向かって垂れる満開の桜の枝がとても絵になる光景だった。

椿坂の提灯
椿坂の入口にはいい感じの提灯が吊るされていたが、会津の「会」の字の旧字体がさまになっていい感じである。


西中門跡付近の土塁から見た天守閣
本丸は既に花見客で一杯で、風景画を撮ると人だらけになるため、塁壁の上に登って桜越しの天守閣を撮った。桜越しの風景は奥州だとここくらでしか撮れないので貴重である。


南西部の笠間稲荷付近から見た天守閣
この日の城内はどこもかしこも満開だった為、どこから撮っても絵になる感じは素晴らしかった。

南東部の月見櫓付近から見た天守閣
とにかく本丸を天守を中心に360度位置を変えて桜と天守閣を撮ったが、本丸の西側や南東の月見櫓付近から見た景色が一番印象的だった。一方、北側からはなかなかいい構図が撮れなかった。


本丸廊下橋
前回、若松城を訪れた時に修理中だった廊下橋は新しくなっており、よく見ると土台の根本が真新しいコンクリートで補強されているようだった。


三の丸堀跡の桜
本丸から二の丸に出ると、テニスコート周辺の桜が綺麗で、三の丸に出ると運動場になっている場所の桜が綺麗だった。場所を上げていくとキリが無いので、画像は三の丸北側の今は埋まってしまっている堀跡の桜。


夜の椿阪と提灯
一通り城内を散策した後、一旦若松城を離れて飯盛山方面を周り、日が沈んでから再び若松城を訪れた。夜の城跡は日中とは違って妖艶な雰囲気が漂っており、日中に見た提灯も本領を発揮していた。


北出丸堀の夜桜
夜景で特にお気に入りだったのは水に鏡のように映る夜桜で、なんとも言えない美しさがそこにはあった。


天守閣と夜桜
天守閣の周辺もライトアップされて綺麗だったが、土塁の上は普通に階段が付いているものの柵は無い為、暗いと怖いものがあった。天守の夜景に関しては画像のように西側から見た景色が華やかで綺麗だった。

2019年11月18日月曜日

春の山梨の旅:勝山城(山梨県都留市)

2019年4月7日訪城。

躑躅ヶ崎の散策後、甲府市街に戻って昼食を取り、信玄公祭りの出店等を少し楽しんだ後に帰途についた。途中まだ明るい時間だったこともあって都留市の勝山城へと立ち寄った。

勝山城は元は小山田氏の山城だったとされるが、そのあたりの歴史は定かでは無い。1594年に甲府城の城主浅野長政の家臣の浅野氏重が城を築城(改築)し、川を挟んだ対岸の谷村城の詰め城として運用した時に現在の勝山城の形になったという。浅野氏の転封に伴い、勝山城の城主も鳥居氏、秋元氏に変わるが、1657年には廃城になっている。

麓の外堀
市街地から橋を渡って南からアクセスするとちょうど城の麓の外堀が確認できたが、広い幅で東西に伸びて川まで続いており、なかなか見事なものだった。


内堀
山道を登り始めるとすぐ左手に内堀が見えたが、内部は坂のようになっており、本来は堀底道の登城路のようにも見える。


川棚見張り台
山道を登っていくと、城の南東に突き出た尾根を回り込むように登っていくが、ここは川棚見張り台という曲輪跡だった。文字通りここから眼下に川が見えるのだが、現在は木々の関係で景色はイマイチである。


三の丸跡
山の中腹を過ぎたあたりで比較的広い曲輪にたどり着いたが、ここが三の丸跡だという。この辺りから山頂にかけて桜の木が植えられており、ちょうど満開に近い状態で綺麗だった。


二の丸跡
三の丸跡から一段上に登ると二の丸跡で、三の丸よりも小さく感じたが、どうやら後から確認してみたら画像の奥に行くと広くなるようである。


眼下に市街地を望む
この付近からは満開の桜越しに眼下の市街地を望むことができ、なかなかの絶景であった。なお、写真には写らないようにしているが、地元の方と思われる人々が何人か花見と景色を楽しんでいた。


本丸石垣
二の丸から本丸に登る道を進むと石垣の角石が急に見えて、かつてこの山が近世山城だったことを物語っていた。山自体はかなり急峻なので切岸だけでもかなりの要害だったと思うが、土留も兼ねて石垣を使用したのだろうか。ちなみに勝山城の絵図を見ると本丸は当時は3方向を石垣で構築していたようである。


本丸跡
山頂の本丸はそこそこ広く、南西の土塁(櫓台か?)のあたりには東照宮が祀られていた。山頂には城址碑の他に説明版もあり、城の歴史関係はここに書かれていた。なお、縄張り図については麓の説明板の方にだけ描かれている。


山頂の桜
山頂の斜面には桜が植えられており、ちょうど満開で綺麗だったが、何よりもその立地が既に絶景でった。ちなみに山頂からも城下が見下ろせて眺めはいいが、山の逆側は針葉樹のせいで視界が全く効かない。


焔硝蔵跡
山から北東に伸びる尾根の中腹に焔硝蔵跡があるが、目で見て分かるのは平場があることだけである。ちなみにこの更に下に源生見張り台があるが、この時は降りる道が分からず確認出来なかった。


本丸北側の石垣
山の北西に伸びる尾根にある大沢見張り台に向かう途中、本丸の北斜面を通るが、ここでは現存する石垣が確認出来た。確認する限りでは、本丸は野面積みの石垣で、角石だけ加工した石が使用されていたようである。


北腰郭の石垣
本丸から北に少し下った場所の腰郭にも石垣が使用されていた形跡が残っており、当時の記録によると宇治から江戸に運ぶ御茶壷を保管しておく重要な曲輪がここだったようである。


竪堀と堀切
大沢見張り台に向かう途中には城内で一番ハッキリ残る堀切があり、両側は竪堀で削っていて見事なものだった。


大沢見張り台
大沢見張り台は他の見張り台よりも広く、帯曲輪も付随しており、他の見張り台とは一味違う役目があったように感じられる。なお、現在は木々で視界が遮られているため、眼下の眺めは悪い。

2019年11月13日水曜日

春の山梨の旅:躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)

2019年4月7日訪城。

信玄公祭りを見て甲府に一泊した翌朝、さっそく信玄公の居城だった躑躅ヶ崎館跡へと出かけた。

菜の花と桜
甲府駅北口から躑躅ヶ崎館跡にある武田神社まで一直線に武田通りの坂が伸びており、この時はちょうどそこの桜並木が満開で綺麗だった。桜の根本には菜の花も咲いており、二重の意味で春らしい景色が広がっていた。


お堀沿いの桜
武田神社の周囲にも桜が多く植えられており、どれも満開で綺麗だったが、今回は神社には入らず、躑躅ヶ崎の地名の由来である東側の丘へと向かった。


躑躅ヶ崎の堤の上から大手曲輪を見下ろす
躑躅ヶ崎の先端部には堤が築かれており、民家の2階よりも高い為、眺めが良さそうだと思っていたらちょうど登る階段が付いていたので、そこから堤の上に登った。そこからは大手曲輪が一望でき、遠くには甲府の市街地も望むことが出来て絶景だった。


堤の上の説明板
どうやら堤の上は展望台も兼ねているらしく、説明板も設置してあった。まぁ、観光客はまったくこっちに来る気配は無いが、なかなかの穴場スポットである。


堤の上から隠居曲輪方面を見下ろす
堤の上からは南側だけでなく、西側も見渡すことが出来、ちょうど隠居曲輪などがある館跡の背後の曲輪群が良く見えた。といっても、こちらはまだ全然整備されていないので、堀なども埋まっているし荒れ地に近い状態である。


躑躅ヶ崎の堤の内部(竜華池)
ちなみに躑躅ヶ崎の堤の内部はアースフィルダムで、竜華池という人造湖になっている。


味噌曲輪と無名曲輪の間
上から見ろしてもよく判らない隠居曲輪だが、下に降りてもやはりこのあたりは耕作による改変が多くて判り辛い。一番わかりやすいのは味噌曲輪の土塁のあたりで、画像の左に見えるのが味噌曲輪東の土塁、画像中央が味噌曲輪と無名曲輪との間の堀、画像右側が無名曲輪跡。

味噌曲輪西の土塁
味噌曲輪は西側にも大きな土塁が残っている為、曲輪の範囲が分かりやすくて良い。それにしても、味噌曲輪は味噌蔵があった曲輪だというが、当時の味噌の重要さがよく判る広さである。


稲荷曲輪
味噌曲輪と西曲輪の間には稲荷曲輪という細長い小さな曲輪があるが、たぶんこれは馬出の跡だと思われる。実際、西曲輪の南虎口には馬出が存在することが確認されているので、北虎口のこの場所に馬出があっても何もおかしくはない。馬出の土塁の上に稲荷神社の祠を置いたので、稲荷曲輪と呼ばれるようになったのだろう。なお、画像のように今も塁壁の上に祠が祀られている。


西曲輪の北の桝形虎口
以前、訪れた時はもっと埋まっていた気がするが、今回訪れたら桝形がハッキリわかるほど遺構が整備されていた。桝形は内枡形で、外門と内門が微妙にずれて道が食い違う形になっている。なお、南の虎口にも同様に桝形がある。


本丸跡(武田神社)
西曲輪から本丸に移動するが、本丸は以前と変わらず多くの人で賑わっていたが、どうやら何か武道関係のイベントもあったらしく袴を履いている学生を多く見かけた。


南馬出
西曲輪の南虎口の外側にあった南馬出についての説明は以前は無かった気がしたが、今回訪れたら何やら新たに設置されていた。ちなみに馬出からは馬の遺体が発掘されているが、どういう経緯で埋葬したのか気になるところではある。


梅翁曲輪の外堀
南馬出の外には梅翁曲輪があり、曲輪の内部は住宅地だが外堀が良く残っていた。…と思ってきてみたら外堀が埋まっていて驚いたが、どうやら堀に重機を入れる為に一時的に埋めただけのようである。梅翁曲輪の外堀沿いの土塁は綺麗に整えられて護岸用の笹?が植えられており、ここも大手曲輪のように整備する予定なのだろうか。


武田氏館跡歴史館
今回、躑躅ヶ崎跡を訪れた理由の一つに武田氏館跡歴史館を見るという目的があり、歴史展示については少し物足りなさを感じたが、奥の有料展示室にある映像展示関係はなかなか良かったと思う。


庭園と茶室
武田氏館跡歴史館の敷地には展示スペースの他にも売店や食堂、古民家に庭園や茶室などもあり、なかなか詰め込んだ箱庭的な面白さはあった。ただ、やっぱり売店のあたりは狭すぎる気がする。