2016年11月20日日曜日

山形城 (山形県山形市)

2016年10月30日訪城。

山形城につては過去に何度も訪れており、紅葉の時期の様子も知っているため、今回は発掘調査の進展の確認と、まだ見ていなかった修復後の二の丸坤櫓跡を兼ねて立ち寄った。


城内の紅葉
ちなみに山形城内も紅葉しており、紅くなった桜の木や、黄色い銀杏の木で所々が色づいていたが、曇り空と時間と腕前のせいでこれといった絵が撮れていなかった。


内堀跡西側の発掘調査箇所
本丸の西側には埋門があったとされるが、残念ながら過去に噴水を作ったときに遺構は破壊されたようで、今回の発掘でも門跡の遺構の部分は無くなっていることが再確認できただけのようだ。ただ、埋門から内堀を渡って対岸側に橋をかける突起が見つかったようで、それが画像の中央あたりの部分らしい。


二の丸坤櫓跡
以前、地方新聞で櫓台が修繕されたのを見たが、今回やっと実物を確認できた。修繕されたのは二の丸坤櫓跡で坤(十二支の申羊)の示す通り二の丸南西の隅櫓である。以前は埋まって残存石垣の上部が確認できる程度だったが、見事に櫓台として復活していた。石垣は現存部分をそのまま残して利用しているため、画像のように風化で角の取れた石段と新築で角ばった石段が同居していて面白い。


二の丸南門石垣の補修箇所
他、二の丸南門の石垣もよくみると最近修繕された跡が見られたが、こっちの方は今回訪れてから知った。


修繕中の二の丸東大手門
あと、二の丸東大手門がちょうど修繕中でごらんの通りだった。なお、これでも門自体は出入り可能で、普通に以前と変わらず通行できた。

天童城 (山形県天童市)

2016年10月30日訪城。

山形の秋を求めて天童市へと移動し、天童城(天童古城)があった舞鶴山の中腹へと登った。天童城は斯波氏一族の天童氏の居城で、今まで何度か訪れているが、確かほとんど桜の時期だったので秋はたぶん今回が初かもしれない。


紅葉したケヤキの大木
舞鶴山の北西部、人間将棋会場の北側には紅葉したケヤキの大木があり、これがまたオレンジ色に燃えて綺麗だった。


天童城跡(人間将棋会場)
人間将棋会場と言えば桜の時期が美しいが、その桜の紅葉もなかなか見事だった。


モミジの小路
なお、山の斜面にもモミジの小路なる場所があったが、モミジの木は小さく、紅葉の状況も真っ青からやや紅葉とまばらで、あまり絵にはならなかった。



舞鶴山の山頂を望む
ちなみに舞鶴山の山頂方面は針葉樹主体のため、画像の通り見ても真っ青な状態だった。

2016年11月13日日曜日

米沢城 (山形県米沢市)

2016年10月29日訪城。

米沢城についてはもう何度も訪れているため、この時も「伝国の杜」の展示を見るついでだったが、それでもやはり紅葉は綺麗だったので写真には残しておいた。


上杉謙信像と紅葉
お堀沿いの紅葉がまだいまいちだったため、城跡だとわかる構図は諦めてお馴染みの謙信像を撮影。昔も同じ構図で撮った記憶があるが、謙信像と紅葉を入れようとするとやはりこんな感じの構図になってしまう。


上杉神社参道の紅葉
神社に向かう参道沿いの紅葉が綺麗だった。現在面影が全くないが、江戸時代当時は二の丸大手門を潜って本丸へと向かう途中の道にあたる。

舘山城 (山形県米沢市)

2016年10月30日訪城。

米沢の小野川温泉に泊まった翌日、温泉と市街地との中間の舘山地区にある舘山城跡を訪れた。舘山城は過去に一度訪れていたが、前日に「伝国の杜」の舘山城についての展示を見た限りでは、前回とは状況がかなり変わっていた。

舘山城は奥州藤原氏一族の新田氏の居城で、新田氏は1189年の藤原氏滅亡後は長井氏に仕え、1380年に長井氏が滅亡すると伊達氏に仕えた。中野宗時の謀反に新田義直が加担して征伐されると、舘山城は伊達氏の直轄地となった。定説では伊達氏は米沢城を居城として、舘山城は伊達輝宗が隠居所とするときに整備したことになっているが、近年の調査で実際はもっと早い段階で伊達氏の居城として整備されたことが解ったという。

舘山城遠景
以前来たときは舘山発電所前の車道までバスで来れたのだが、残念ながら廃線になってしまったようで、バスで舘山城に行く場合は小野川温泉の系統の路線バスのバス停から歩くことになる。今回は元々小野川温泉に泊まっていたため、「舘山六丁目」バス停から歩いて向かった。


伊達政宗誕生の地碑
確かまだ結論が出ていないはずだが、保存会の方々が先走ったようで、舘山城の入口には伊達政宗公誕生の地碑が建っていた。ちなみに画像の碑以外にもう一基が別の場所に建っていた。


舘山城と城下町との間の川
『米陽八景』や『米沢城下絵図』などで確認できる橋は画像の位置にあったらしく、橋脚の跡が対岸に残るそうだが、この位置からだとよくわからなかった。


カモシカ
余談になるが、ちょうど川を挟んでカモシカと相対することになった。しばらく観察したが、画像の状態のままいっこうに動かなかったため、こちらが先に根負けして立ち去った。


舘山城東館跡の遺構
舘山城の東側の麓は前回は何も無かったのだが、今回は発掘調査で見つかった井戸などの跡を示す看板があちこちに立てられており、川に近い位置にある庭園跡や敷石跡などの興味深い遺構もいくつかあった。


給水所など
至る所にある説明看板も手作り感満載だったが、中でも一番は東館から南ルートで舘山城に登る位置にある給水所だった。ゴミ箱のカップの数からそこそこ人が訪れていることが分かるが、実際訪問ノート(画像の引き出しの中にある)を見てみると予想以上に人が訪れていた。


本丸跡
南側の山道から登った先が舘山城の本丸で、以前はただの雑木林という感じだったが、今回は発掘して埋め戻したような箇所がいくつか散見された。あと、河原石とみられる石の山があるのが印象に残った。


本丸虎口跡
今回の舘山城で一番見たかった場所が本丸の虎口跡で、石垣の根本や裏込め石の山等は前回は埋まっていて気づきもしなかっただけに感動ものだった。虎口跡は内桝形の形式だが、内側の出口が河原石で埋め殺しされているため、これは上杉氏による破却の痕跡と思われる。


本丸と二の丸間の堀切跡
本丸と二の丸の間の土塁は前回も見ていたが、土塁の外側の堀切が河原石で埋め殺されているのは今回初めて気づいた。これも同様に上杉氏による破却の跡だろう。


二の丸
二の丸も本丸同様に発掘調査の痕跡があったが、二の丸は上杉氏による整備前に廃城になったようなので、虎口などは伊達氏の頃から変わっていないと見られる。二の丸の見所は画像の奥に見える大人3人分くらいの高さがある土塁で、その外側には深い堀切がある。


三の丸
以前は藪が酷かったためよく見れなかったのだが、今回は三の丸まで行くことが出来た。三の丸は本丸二の丸と違って不整地であまり広さは無く、土塁と外側の横堀(堀切)と謎の塚が印象的な郭だった。なお、画像奥に見える場所が物見台で、舘山城で最も高い場所となる。

2016年11月3日木曜日

米沢城三の丸土塁 (山形県米沢市)

2016年10月29日訪城。

米沢城についてはもう何度も訪れているため、今回は「伝国の杜」の伊達氏の展示と館山城の展示が目当てで米沢を訪れたが、整備されたことに気づかなかった遺構があったことを現地で知ったため急遽、「西條天満公園」を訪れた。

西條天満公園は西條氏の屋敷跡と米沢城三の丸土塁跡を整備して出来た公園で、2013年に完成したという。2009年にここは訪れていたが、その時はまだ民家が建っていた。


西條天満公園
以前訪れた時は確か民家があって、脇から奥の土塁に小道が付いていたはずだが、いつの間にか綺麗な公園になっていた。


三の丸土塁と西條天満宮
土塁そのものは以前と同じで西條天満宮が上に鎮座していたが、ちょうど時期が良かったみたいで紅葉が綺麗だった。なお、天満宮は実は別の神社に合祀されているため、ここにあるのはかつて神社だった建物だけである。


外側から見た土塁と復元水堀
今回驚いたのは水堀が復元されていたことで、これにより実に城跡の遺構らしい見た目になっていた。

武者道
西條公園に併せて地味に整備されていたのが武者道と呼ばれる三の丸水堀の外側に造られた道で、当時は武士だけが通行を許された道だったという。なお、画像の水路より右側はかつて水堀だった。


2009年の時の土塁
画像は2009年に北側の駐車場側から撮った土塁の様子で、水堀部分は当時埋まっていて駐車場になっていたことが分かる。そして右奥の今の公園部分もかつて民家だったことがわかる。


2009年の時の武者道
偶然にも2009年にも武者道を撮っていたが、奥に見える白い建物が、前述の今回撮った武者道の画像の建物と同じ物になる。

岡豊城 (高知県南国市)

2016年9月25日訪城。

SW最終日は高知市となりの南国市へ移動し、山間部と平野部の境界付近の独立した山に築かれた岡豊城を訪れた。

岡豊城は長宗我部氏によって13~14世紀頃に築かれた山城で、長宗我部氏代々の居城。城は1508年に本山氏らの軍勢に攻め落とされるが、1511年には和睦により長宗我部氏の元に回復している。四国の覇者となった長宗我部元親の代には手狭になったため、太高坂城や浦戸城に居城が移されて廃城となっている。

岡豊城に登る途中に咲く彼岸花
岡豊城について真っ先に目についたのがこの時にちょうど見頃だった彼岸花で、赤だけでなく白も混ざっているのが印象的だった。



高知県立歴史民俗資料館
山の北側中腹に歴史民俗資料館があり、長宗我部氏の展示も充実していたが、個人的には岡豊城の全体像がわかる展示も欲しかった。なお、訪城時は雨に祟られていたため、しばらくここで雨宿りすることになった。


長宗我部元親像
資料館には歴史スポットではお馴染みの像もありましたが、よくある高い台座に乗っていないため、人と同じ目線にあるというなんとも妙な感じの像でした。


二の郭跡から城下を望む
それほど高い山ではないため絶景とはいかないが、それでも城下がよく見渡せるため、ここに城を築いた理由がなんとなく解る気がした。


主郭跡
中世の山城は立て籠もるだけで、麓に居所(根小屋等と呼ぶ)を構えるパターンが多いが、平面復元された建物跡を見ると、主郭には居所があったように見える。


三の郭跡
三の郭跡にも建物跡が見られるが、ここで目についたのは土塁を保護するための石積みで、土塁の際のギリギリまで建物のスペースを使うためにここに使用されたと思われる。


門跡?
城跡には土塁から堀切、横堀まで残っていて面白かったが、門跡についてはちょっと正確な位置が分からなかった。画像は山道脇に石垣?が見える、それらしきポイント。


伝厩郭跡
岡豊城のある山とくっついているが鞍部が深すぎるためほぼ独立した状態の小山が隣にあり、ここは厩があった郭と伝わっている。恐らく見張り台に近い形の出丸と思われる。ここからの眺めもけっこう良かった。


移築民家
おまけ。歴史民俗資料館から少し下の中腹に移築された古い民家があり、城とは関係無いがなかなか見事な民家だった。

2016年10月23日日曜日

安芸城 (高知県安芸市)

2016年9月24日訪城。

高知城散策後に本当は岡豊城に行く予定だったが、岡豊行きのバスの時間が長く空いてしまった為、高知市電とくろしお鉄道を乗り継いで安芸市にある安芸城へと向かった。

安芸城は1308年頃に安芸親氏によって築かれた平山城で、土佐七雄の安芸氏代々の居城である。安芸氏は1569年の八流の戦いで長宗我部氏に敗れ、安芸城に籠城するも進退窮まり、領民家臣の助命を条件に自決して滅亡した。長宗我部氏の改易後に土佐に入った山内氏は、五藤為重を安芸城に配置し、五藤氏は安芸城の平野部を改修して屋敷とした。


武家屋敷の通り
武家屋敷のあったあたりは今もその雰囲気を残しており、観光マップ等では「土居廓中」と呼ばれていた。生垣のある画像の通りが印象的だったが、道の先は袋小路なので安芸城に抜けるには途中の十字路を曲がる必要がある。


武家屋敷の野村家
武家屋敷の通りで唯一一般公開されているのが野村家で、塀重門という内門を設けていたり、入口のあたりが狭かったりするのが武家屋敷の工夫のようで特徴的だったが、建物自体はけっこう空間があって暮らし易そうであった。


安芸城の堀と桝形門
安芸城の平野部には内堀と土塁と石垣が残っており、桝形門と周辺の石垣は五藤氏が来た頃に築かれたものだという。


歴史民俗資料館
廓の内部には歴史民俗資料館と書道美術館があり、後者の方は何やら工事中だった。歴史民俗資料館の展示は安芸市出身の有名人の展示がメインで、安芸氏に関しての展示も少しだけあった。


城山の麓の石積み
城山の麓部分にも石垣があるが、五藤氏の石垣よりもやや不揃いな野面積みのため、もしかすると長宗我部時代の護岸用の石積みかもしれない。


城山の本丸
城山は小高い独立丘で、登るだけなら3分とかからずに頂上まで登れる。内部は土塁と横堀のシンプルな造りで、今も遺構がハッキリ確認できた。


本丸に残る石積み
本丸の北側には古い石積みが残っており、これは明らかに粗さが目立つため長宗我部氏か安芸氏が築いたものだと思われる。

2016年10月16日日曜日

山内家下屋敷跡 (高知県高知市)

山内家下屋敷跡には現在は温泉旅館の三翠園があるが、ここには下屋敷の長屋が現存していて内部を見学できた。


長屋の外観
外観は御城の多聞櫓と比べても遜色の無いもので、さすがは山内家の使用人の長屋といった感じである。内部を見学するには三翠園の門を潜って右側に行く必要がある。


長屋の内部
長屋の内部は部屋ごとに分割されており、ひとことで言うならアパートであるが、内部は下手なアパートよりも広かった。

2016年10月15日土曜日

高知城 その2 (高知県高知市)

2016年9月24日訪城。

前日夜景を見た高知城へ次の日は朝から向かった。現存天守は大体お昼前後から15時くらいにかけては他の観光客や団体客が殺到して大変な目に会うからだ。


高知城の水堀
城下町とお城の間には水堀が残っており、ここを渡って城内に入るのだが、高知県庁のあるあたりからはフェンスで仕切られて休日は城内に入れない袋小路になっているため注意が必要。(南から向かったため見事に罠にかかった)


橋廊下(詰め門)
夜は閉鎖されていた詰の門だが9時からは開放されている。外から見るとまるで櫓門だが、上部は二の丸と本丸を繋ぐ廊下橋なのが面白い。


黒鉄門
本丸の逆側には黒鉄門があるが、この門も出入り口が片側に寄っていて面白い。


見張り用の狭間
本丸内部は門の他にも多聞櫓に本丸御殿、天守閣と現存する建物が多かったが、中には他の城では見たことのない造りもあった。それが土塀に見られる「見張り用の狭間」で、矢狭間や鉄砲狭間からだと、戦場の様子が分かり辛いため設けられたのだという。


天守から見た城下町
やはり早い時間だと御殿内部も天守閣内部もほとんど人が居ないため、すんなりと見て回ることが出来た。天守閣最上階からは城下町を見渡すことが出来たが、少し曇った感じの天気だけは残念だった。


天守から見た二の丸
天守閣から見下ろすとよくわかるが、現存する建物のほとんどが本丸に集まっており、二の丸や三の丸は今は広い空き地状態である。


太高坂城時代の石垣
なお、三の丸のその空き地の一画には、発掘調査で出土した大高坂城時代の石垣が露天展示されていた。この石垣は長宗我部元親が築いたもので、確かに山内一豊の築いた石垣よりも荒くて古いタイプの野面積みである。


御台所屋敷跡
他、城の西側の御台所屋敷跡付近は今も発掘調査を実施しているためか、辺り一帯立ち入り禁止となっていた。

山内一豊像
余談になるが、山内一豊の銅像は画像のように立派な装いだが、観光客に気づかれないような立地場所にあった。妻の千代と馬や板垣退助の銅像は追手門から本丸に向かう道中にあるだけに余計泣けてくる。