2019年3月30日土曜日

冬直前の秋田の旅:如斯亭(秋田県秋田市)

2018年11月25日訪問。

3連休最終日は秋田市内にある如斯亭へと向かった。如斯亭は久保田城の城外北部に9代藩主の佐竹義和によって整備された御屋敷で、藩主が狩り等で郊外に出かける時に利用された場所だという。

如斯亭入口
如斯亭は「からみでん」の交差点に近い場所にあり、2017年10月に修復が終わったとのことでまだどこか新しい感じが残っていた。画像は如斯亭の南側にある今の入口になるが、本来の入口は東側にある御萱門のようだ。


如斯亭の主屋
主屋の造りは至ってシンプルで、庭園を眺めることが出来る広縁が付いた12畳と8畳の広間があり、それ以外に藩士の控室と思われる小部屋が2つ?あるだけである。中の見学も可能で、実際にここから見る庭園は趣がある。


庭園
庭園は必ずしも広いものではないが、築山や小川や池が配置されてまさに日本庭園と言った感じだったが、川の下流の一段低くなった場所に茶室を設けている等、拘りみたいなものも感じられた。如斯亭の名前の由来である孔子の「逝者如斯夫、不舎昼夜」をこの川の流れで表しているそうなので、恐らくそれが表れているのだろうか。


紅葉
11月も終わりで連休頭には雪もチラついていたというのに、この庭園ではまだ鮮やかな紅葉を見ることが出来たのは予想外の収穫だった。なお、如斯亭が造られた頃は周囲は原野で遠くに海が見えるまさに別荘みたいな感じだったらしいが、現在は周囲は住宅地のため、そこらへんは想像で補うしかない。

2019年3月25日月曜日

冬直前の秋田の旅:尼子館(秋田県八郎潟町)

2018年11月24日訪城。

浦城を散策後、浦城の西側にある出城の尼子館へと向かった。この城は浦城が檜山安東氏に攻められた時に女性や子供が避難した場所だとか、三浦氏滅亡後に麓に生き残った三浦家の女性が尼となって庵を建てたとか伝わっており、この事から「尼子」館と呼ばれているのかと思ったら、それ以前から三浦氏家臣の尼子氏が居たという話も出てきて混乱することこの上ない。

供養碑
この城はどこからアプローチすればいいか悩まされたが、とりあえず浦大町と高岳山の間の畑の農道を進んだ先にある三浦氏の供養碑の裏から登れることが判った。この供養碑の位置自体が判り辛いので初見殺しであることには変わりないが…。


登城路
とんでもない急斜面を直登する道が付いており、登るのがなかなか大変だった。登るだけなら浦城よりもきつかった程である。


上から見た登城路
登ってきた道を上から見ると、どうみても転落しそうな崖にしか見えないので、帰りにここを降りることを思うと気が重くなる。


腰郭
急斜面を登った先には腰郭があり、雛壇状に5段に渡って展開していた。腰郭と腰郭の間は人の背丈より高い切岸で、階段が付いているものの一部が朽ちていて、切岸をよじ登るのと変わらない部分もあった。


主郭
頂上の主郭はそこそこ広く、確かに城下の非戦闘員を収容できそうなスペースであった。ここも浦城同様に櫓が建てられていたが、例に漏れず階段が朽ちており、ただのオブジェと化していた。


八郎潟・男鹿方面
櫓は使用できずとも眺めはそこそこ良く、八郎潟や男鹿半島方面が確認出来た。こちらは浦城からは完全に死角になっているため、見張り台的な役目があった出城かもしれない。


高岳山との鞍部
尼子館の主郭の背後にも腰郭があってその先が高岳山との鞍部になるが、浦城と違って深い堀切等は設けられていなかった。浅い堀切と言えばそう見えるかもしれない。

2019年3月18日月曜日

冬直前の秋田の旅:浦城(秋田県八郎潟町)

2018年11月24日訪城。

脇本城を訪れた翌日は八郎潟を挟んで内陸側にある八郎潟町に向かった。目的地は八郎潟町の北東の浦大町にある浦城跡で、三浦氏の居城だった場所である。この三浦氏は相模の三浦氏と同じ一族で、流浪の末にこの地に土着したようだが、三浦盛永の代に檜山安東氏と湊安東氏の争いに巻き込まれて滅亡している。

高岳山と浦城
八郎潟の街の中心から郊外に移動すると水田地帯が広がっているが、その先にかつての城下町である浦大町の集落が見える。画像左の山に目が行くが、こちらは高岳山(たかおかやま)という副川神社が鎮座する山で、城跡がある山は画像右の低い山の方である。


副川神社の参道
集落から城跡に登るルートは3つあるようだが、今回は副川神社の参道から登るルートから入った。恐らくここが一番登りやすいルートだと思われる。


駐車場
駐車場も副川神社ルートの途中にあるため、車で来た場合でも困らなそうだ。駐車場にはトイレもあるが、手作り感満載なので地元の方々が整備したのだろう。


堀切
山道を指示通りに登っていくと、やがて高岳山との付け根にある堀切に出るが、ここが城跡の西端部となる。ここから曲輪に入り、どんどん東に行くと本丸に至るという連郭式のお手本のような御城である。


朽ちた櫓
曲輪内部には秘密基地的な感じの櫓が設置されていたりしたが、残念ながらかなり年季が入っているようで、既に階段部分が朽ちてしまっていた。


曲輪に設けられた柵
曲輪には他にも柵が設けられていて中世の城の雰囲気を再現しようとしている感があったが、こちらもかなり年季が入っているようだった。


切岸を登る階段
曲輪を2つほど移動したところで、堀切の先に急な切岸が現れたが、ここには切岸を登るための階段が設けられていた。足場に多少不安なところがあったが、手すりのロープが比較的新しいものだったため、ここはなんとか登ることが出来た。ちなみに登らなくても帯曲輪を通って先に移動することはできる。


屋敷跡の曲輪から鐘突き堂方面を望む
切岸を登った先の曲輪は比較的広く、麓の看板に屋敷跡とあったのはこの曲輪のことなのだろう。曲輪の先に進むとまたしても堀切ごしに切岸が立ちはだかるが、ここは流石に高すぎるためか道は脇から登るようになっていた。


鐘突き堂
登った先の曲輪は鐘突き堂のあった曲輪で、曲輪の端に櫓台のように盛り上がった土塁があり、この上にこれもお手製の鐘突き堂が建てられていた。ちなみに実際に鐘が釣られて突けるようになっていたので、訪城記念に一発叩いておいた。


武者溜まり
鐘突き堂のある曲輪から2mほど登った場所にある平場は武者溜まりの跡で、ここから見える画像の切岸の上がいよいよ本丸跡となる。


本丸
本丸跡は意外と広く、何やら建物もあったが閉鎖されていて何の建物なのか判らなかった。この建物の裏には広場があり、遺構としては大きな井戸が確認できた。ここが城内最高所だが展望は微妙で、城下町方面を眺めるなら先ほどの武者溜まりからの方が良い。


二重堀切
本丸から東にもさらに曲輪は続いており、二の曲輪とされる場所を抜けた先には二重堀切が確認出来た。ちなみに前述した屋敷跡のところの堀切も浅くはなっているが二重堀切っぽい感じだったので、重要な曲輪の外側には二重堀切を設けている感じだろうか。


高速道路により消失した箇所
二重堀切より東にもさらに曲輪があったようだが、この部分は高速道路が通って山が切り取られており、これより東には移動できなくなっていた。本来ならば画像手前から奥に見える山の部分まで繋がっていたのである。

余談になるが浦城の本丸より南東側は八郎潟町ではなく五城目町になっており、浦城の内部に市町村の境界があるという不思議なことになっている。

2019年3月12日火曜日

冬直前の秋田の旅:脇本城古館(秋田県男鹿市)

2018年11月23日訪城。

脇本城の内館地区を散策した後は途中まで天下道を通って山の尾根伝いに移動し、古館(馬乗り場)地区を目指した。古館の名称が残っているということは、脇本城の主郭は元々はそちらにあったと思われるが、「馬乗り場」とも呼ばれているので、後世では馬場や的場として利用されていたのだろう。


天下道
途中までは天下道にそって茂みの中を進むが、途中で天下道とは別れて尾根伝いに進む道の方に向かう。


倒木
道の途中は倒木で塞がれており、この倒木が跨ぐに高く、下を潜るにも微妙に低いという嫌らしいスペース取りで地味に通るのに苦労した。


古館(馬乗り場)
しばらく進むと急に開けた平場に出るが、ここが古館の主郭で、脇本城内でも標高117mの最高所となっている。案内板の地図を見る限りでは方形に区画された曲輪のようだ。土塁も一応残っているが、かなり低くなっているため、ここが開墾されたときに削られたのだろう。


古館の虎口
古館の平場は一段低い東側にも大きな平場があり、古館が中心だったころは二の曲輪だったことだろう。古館の主郭と二の曲輪(仮)の間は切岸で隔てられているが、画像のような虎口が設けられている。


本明寺
二の曲輪(仮)には北や東に向かう道もあるが、南側の沢沿いを降る道を降りていくと、やがて本明寺の墓地に出る。逆に古館地区に直で行きたい場合は、恐らくこの本明寺から登るルートが一番近いものと思われる。

2019年3月11日月曜日

冬直前の秋田の旅:脇本城(秋田県男鹿市)

2018年11月23日訪城。

中世の城はだいたい草木に埋もれているので、東北地方の中世の城めぐりは雪が積もる直前が良い、ということで冬が訪れたばかりの秋田へと向かった。初日に向かったのは男鹿半島にある脇本城で、安東氏の居城である安東三城のうちの一つである。

城下町の鍵の手
以前来た時は城跡にしか行かなかったので今回は城下町から散策してみたが、城下町特有の鍵の手(クランク状)の道が残っており、建物は残っていないにしてもかすかに城下町の面影が残されていた。


続100名城
城下町を抜けた先の脇本城の麓にはまだ真新しい続100名城の看板が立っており、地元の人々の祝福感が見て取れる。


上空から見た城と城下町
城の麓の説明板にちょうど散策してきた城下町が載っていたが、冒頭の鍵の手は画像の中心あたりにある。画面右から左の城跡まで途中折れながら真っ直ぐ伸びているのが、かつての男鹿の古道で、「天下道」と呼ばれていた街道である。


菅原神社の鳥居(城の麓)
城の入口には菅原神社の鳥居が立っているが、階段を登らなくても右隣にある坂を登っても城跡には行ける。


案内所
道を登った先の菅原神社の参道を横切って先に進んだ先には小さな砂利の駐車場があり、そこに案内所が設置されている。案内所といっても人が常駐しているわけではなく、パンフレット等の資料が置かれている場所である。この日は雪がチラチラ舞って風も強く、避難所としてもちょうど有難かった。


生鼻崎から見た主郭跡
道を登り切った先は多くの曲輪が展開する城の中枢となるが、画像は生鼻崎側から主郭跡(内館)を見たものである。


生鼻崎の曲輪群
生鼻崎側には曲輪が南北に並んで展開しており、曲輪群の西側には土塁が長く伸びていた。風は西側から強く吹き付けており、ちょうどこの時もこの土塁が風除けになってちょうどよかったが、恐らく当時もそうだったのだろうと思う。


土塁の先の光景
土塁の先は断崖絶壁で、遠くには男鹿市の中心部である船川の港町が見えた。今は下に車道が見えるが、当時はここに人が通れる道は無く、街道である「天下道」は山の上を縫うように通っていた。


主郭跡の大土塁
城内で最も巨大な土塁は主郭にある大土塁で、この大土塁によって主郭は二つに分断されており、主郭の東端側の曲輪が重要区画だったことを表しているという。


主郭から見た城下町
その主郭東端部からは城下町が一望でき、当時の安東氏もこのような景色を見ていたのだろうと思うと感慨深い。

2019年3月10日日曜日

晩秋の山形の旅:天童城(山形県天童市)

2018年11月4日訪城。

山家城から下山した後はそのまま北上して天童へと入り、そこで昼食をとったがここで思いのほか時間をとられてしまった。食後はさっそく天童城のある舞鶴山へと登ったが、桜の時期は何度か来ているものの秋に登るのはまだ二度目くらいかもしれない。天童城は天童氏の居城で、最上義光が正攻法では落とせないと評価した堅城である。

大手口跡
山へは以前来た時は知らなかった大手口から登ろうと思ったが、現地を見るとどうも今は私有地くさく近寄りがたい場所だったので断念。


朽ちた社
しょうがないので祖霊神社の参道から登ることにしたが、しばらく登ると朽ちた社があった。そばに天童神社の柱が立っているが、天童神社はこの画像から右側に行った場所にあるためこれではない。社の中はからっぽなのでもしかしたら遷宮した跡なのかもしれないが謎である。


井戸
さらに登って愛宕神社の階段手前から東の方に行くと東曲輪があるが、この平場は今は草木が茂っているものの、画像のような井戸の遺構が残っていた。説明板によれば外の石枠自体は中世ではなくそれ以降に造られたものだろうという。


愛宕神社
主郭の腰郭を経由して階段が山頂まで続いており、ここを登った先が主郭で現在は愛宕神社が鎮座している。神社自体は主郭端に寄っており、正面から写すには広角レンズが必要なくらいスペースが無かった為、画像のように下の腰郭から撮った画像になった。


物見やぐら跡
主郭の中の神社の脇にはこんもりと高くなっている場所があり、ここは物見やぐらの跡だという。現在は木々が茂っているが、確かにここに櫓を築いたら360度が見渡せて絶景そうだ。

主郭の紅葉
舞鶴山は針葉樹と広葉樹が混ざって生えており、紅葉だけ見ると主郭では今一つな感じだったが、秋ももう終わりだったせいもあるかもしれない。


発掘調査中
主郭の西側では発掘調査をやっていたが、何か新発見はあったのだろうか?最上義光が攻め落としてからは廃城になって愛宕神社が勧請されているため、出てくるとしたら天童氏にまつわる遺構のはずだけに興味をそそられる。


主郭からの眺め
主郭からの景色はなかなかのものだが、草木が邪魔で意外と見難かった。なお、晩秋は日が落ちるのが早い為、この時点ですでに太陽が山に沈みかけていた。


愛宕沼
暗くなる前にと慌てて下山したが、途中の展望台から見下ろした愛宕沼周辺が昔来た時より整備されていることに気付いた。あと、この展望台の近くにも見たことのないバーベキュー場が出来ていたが、ちょっと木々が近すぎて火事の心配が募る。


中央曲輪跡
天童城で最もよく訪れているのが中央曲輪で、桜の時期にはこの辺りが華やかな景色になる。画像奥の西曲輪には紅葉が映える大きなケヤキがあったはずだが、時間的に厳しいためこのまま下山した。


もみじの小径
中央曲輪から市街地に降りる途中に「もみじの小径」なるもみじが綺麗な場所があるが、もはや暗くなりかけている為、いい絵が撮れなかった。日が落ちているため肉眼では暗かったが、まだ見れる画像になっているのはカメラのおかげである。