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2016年11月3日木曜日

岡豊城 (高知県南国市)

2016年9月25日訪城。

SW最終日は高知市となりの南国市へ移動し、山間部と平野部の境界付近の独立した山に築かれた岡豊城を訪れた。

岡豊城は長宗我部氏によって13~14世紀頃に築かれた山城で、長宗我部氏代々の居城。城は1508年に本山氏らの軍勢に攻め落とされるが、1511年には和睦により長宗我部氏の元に回復している。四国の覇者となった長宗我部元親の代には手狭になったため、太高坂城や浦戸城に居城が移されて廃城となっている。

岡豊城に登る途中に咲く彼岸花
岡豊城について真っ先に目についたのがこの時にちょうど見頃だった彼岸花で、赤だけでなく白も混ざっているのが印象的だった。



高知県立歴史民俗資料館
山の北側中腹に歴史民俗資料館があり、長宗我部氏の展示も充実していたが、個人的には岡豊城の全体像がわかる展示も欲しかった。なお、訪城時は雨に祟られていたため、しばらくここで雨宿りすることになった。


長宗我部元親像
資料館には歴史スポットではお馴染みの像もありましたが、よくある高い台座に乗っていないため、人と同じ目線にあるというなんとも妙な感じの像でした。


二の郭跡から城下を望む
それほど高い山ではないため絶景とはいかないが、それでも城下がよく見渡せるため、ここに城を築いた理由がなんとなく解る気がした。


主郭跡
中世の山城は立て籠もるだけで、麓に居所(根小屋等と呼ぶ)を構えるパターンが多いが、平面復元された建物跡を見ると、主郭には居所があったように見える。


三の郭跡
三の郭跡にも建物跡が見られるが、ここで目についたのは土塁を保護するための石積みで、土塁の際のギリギリまで建物のスペースを使うためにここに使用されたと思われる。


門跡?
城跡には土塁から堀切、横堀まで残っていて面白かったが、門跡についてはちょっと正確な位置が分からなかった。画像は山道脇に石垣?が見える、それらしきポイント。


伝厩郭跡
岡豊城のある山とくっついているが鞍部が深すぎるためほぼ独立した状態の小山が隣にあり、ここは厩があった郭と伝わっている。恐らく見張り台に近い形の出丸と思われる。ここからの眺めもけっこう良かった。


移築民家
おまけ。歴史民俗資料館から少し下の中腹に移築された古い民家があり、城とは関係無いがなかなか見事な民家だった。

2016年10月23日日曜日

安芸城 (高知県安芸市)

2016年9月24日訪城。

高知城散策後に本当は岡豊城に行く予定だったが、岡豊行きのバスの時間が長く空いてしまった為、高知市電とくろしお鉄道を乗り継いで安芸市にある安芸城へと向かった。

安芸城は1308年頃に安芸親氏によって築かれた平山城で、土佐七雄の安芸氏代々の居城である。安芸氏は1569年の八流の戦いで長宗我部氏に敗れ、安芸城に籠城するも進退窮まり、領民家臣の助命を条件に自決して滅亡した。長宗我部氏の改易後に土佐に入った山内氏は、五藤為重を安芸城に配置し、五藤氏は安芸城の平野部を改修して屋敷とした。


武家屋敷の通り
武家屋敷のあったあたりは今もその雰囲気を残しており、観光マップ等では「土居廓中」と呼ばれていた。生垣のある画像の通りが印象的だったが、道の先は袋小路なので安芸城に抜けるには途中の十字路を曲がる必要がある。


武家屋敷の野村家
武家屋敷の通りで唯一一般公開されているのが野村家で、塀重門という内門を設けていたり、入口のあたりが狭かったりするのが武家屋敷の工夫のようで特徴的だったが、建物自体はけっこう空間があって暮らし易そうであった。


安芸城の堀と桝形門
安芸城の平野部には内堀と土塁と石垣が残っており、桝形門と周辺の石垣は五藤氏が来た頃に築かれたものだという。


歴史民俗資料館
廓の内部には歴史民俗資料館と書道美術館があり、後者の方は何やら工事中だった。歴史民俗資料館の展示は安芸市出身の有名人の展示がメインで、安芸氏に関しての展示も少しだけあった。


城山の麓の石積み
城山の麓部分にも石垣があるが、五藤氏の石垣よりもやや不揃いな野面積みのため、もしかすると長宗我部時代の護岸用の石積みかもしれない。


城山の本丸
城山は小高い独立丘で、登るだけなら3分とかからずに頂上まで登れる。内部は土塁と横堀のシンプルな造りで、今も遺構がハッキリ確認できた。


本丸に残る石積み
本丸の北側には古い石積みが残っており、これは明らかに粗さが目立つため長宗我部氏か安芸氏が築いたものだと思われる。

2016年10月15日土曜日

高知城 その2 (高知県高知市)

2016年9月24日訪城。

前日夜景を見た高知城へ次の日は朝から向かった。現存天守は大体お昼前後から15時くらいにかけては他の観光客や団体客が殺到して大変な目に会うからだ。


高知城の水堀
城下町とお城の間には水堀が残っており、ここを渡って城内に入るのだが、高知県庁のあるあたりからはフェンスで仕切られて休日は城内に入れない袋小路になっているため注意が必要。(南から向かったため見事に罠にかかった)


橋廊下(詰め門)
夜は閉鎖されていた詰の門だが9時からは開放されている。外から見るとまるで櫓門だが、上部は二の丸と本丸を繋ぐ廊下橋なのが面白い。


黒鉄門
本丸の逆側には黒鉄門があるが、この門も出入り口が片側に寄っていて面白い。


見張り用の狭間
本丸内部は門の他にも多聞櫓に本丸御殿、天守閣と現存する建物が多かったが、中には他の城では見たことのない造りもあった。それが土塀に見られる「見張り用の狭間」で、矢狭間や鉄砲狭間からだと、戦場の様子が分かり辛いため設けられたのだという。


天守から見た城下町
やはり早い時間だと御殿内部も天守閣内部もほとんど人が居ないため、すんなりと見て回ることが出来た。天守閣最上階からは城下町を見渡すことが出来たが、少し曇った感じの天気だけは残念だった。


天守から見た二の丸
天守閣から見下ろすとよくわかるが、現存する建物のほとんどが本丸に集まっており、二の丸や三の丸は今は広い空き地状態である。


太高坂城時代の石垣
なお、三の丸のその空き地の一画には、発掘調査で出土した大高坂城時代の石垣が露天展示されていた。この石垣は長宗我部元親が築いたもので、確かに山内一豊の築いた石垣よりも荒くて古いタイプの野面積みである。


御台所屋敷跡
他、城の西側の御台所屋敷跡付近は今も発掘調査を実施しているためか、辺り一帯立ち入り禁止となっていた。

山内一豊像
余談になるが、山内一豊の銅像は画像のように立派な装いだが、観光客に気づかれないような立地場所にあった。妻の千代と馬や板垣退助の銅像は追手門から本丸に向かう道中にあるだけに余計泣けてくる。

2016年10月9日日曜日

高知城 その1 (高知県高知市)

2016年9月23日訪城。

四万十市から移動して高知市に着く頃にはすっかり夜になっていたが、そのままの足で高知城の夜景を見に向かった。

高知城は、長宗我部元親の築いた大高坂山城を改築して山内一豊が1601年に築いた近世城郭で、以後は山内氏代々の居城、後に土佐藩の藩庁となって明治時代まで続いた。高知城の天守閣は現存十二天守の一つ。


二の丸から見た天守閣と詰門
高知城はライトアップされており、夜間でも二の丸までは行くことが出来た。ただ、足元が暗い場所が多いため、階段の移動は少々苦労した。


追手門
ライトアップで天守閣の次に見栄えが良かったのが追手門で、夜でも意外と人がここを通るのが意外だった。

中村城 (高知県四万十市)

2016年9月23日訪城。

四万十川の散策後、再び市街地に戻って今度は一条氏の詰めの城である中村城跡へと向かった。


中村御所から見た中村城
市街地の中心にある中村御所跡(一條神社)から見て北西にある山が中村城跡で、郷土資料館の模擬天守閣が城下からも確認できる。


東城跡
裁判所等があるあたりから山頂まで車道が伸びているため、ここから登るとまず最初に東城跡の郭を通る。いわゆる中村城の中腹の出丸のような場所で、ここには土塁が残っていた。



中村城址碑と現存石垣
車道を登り切った場所は堀切になっており、そこで現存する石垣が確認出来た。堀切をそのまま抜けると山の裏側に下山するようである。


模擬天守の展望台から見た城下
堀切から案内に従って郷土資料館に向かうと、主郭の端の立派な土塁に囲まれた中に郷土資料館の模擬天守閣が建っていた。中は中村城についての展示もあったが、基本的に四万十市の歴史資料についての展示施設である。ここの最上階からの眺めはなかなかの絶景だった。


本丸跡(為松城)
資料館のある郭から堀切と土橋跡を通って登った山頂が本丸跡で、元々は為松氏が居城としていたため、この場所を為松城とも呼称していた。現在は遊具がある公園で、ここから今城跡まで雛壇状になった公園が続いていた。


中の森の端?
公園化のためかどうも資料館で見た地形と一致しなかったのだが、公園の端には今城とあった。だが、地形的には中の森の端に見えるのだが、どうなんだろう?


不明郭
最初に辿り着いた堀切の東側に本丸や資料館のある郭があるのだが、堀切の西側にも比較的広い郭がある。だが、謎なことに資料館の地形図にはこの部分が描かれていなかった。今は桜の木があるみたいなので花見の場所に利用されているのだろうか。

2016年10月1日土曜日

中村御所 (高知県四万十市)

2016年9月23日訪城。前日天候に悩まされただけに、出発直前まで天候をチェックしてから四万十市を訪れた。

まず向かった先は市街地の中心にある一條神社で、中村御所の跡でもある。中村御所は1468年に一條教房が京より幡多の荘園に下向して築いた館で、正確には神社のある丘の周囲の平地にあった。

一條神社
画像のすぐ左はアーケード街で、一條神社はまさに街の中心にある。神社の本殿がある場所は小高い独立した丘で、丘の中腹に神主さんの御自宅と思われる家があり、そこの中庭に当時の化粧井戸が残されていた。


丘の頂上の境内
丘の上は菱形に近い形の平坦地になっており、一條神社の本殿と天神社の本殿と、倉?のような建物が建てられていた。中村御所の当時は維摩堂という宗教施設があったようだ。


説明板
一條神社の本殿のそばに説明板があり、これを見ると御所が丘を中央に置いた方形の館という面白い縄張りだったことがわかる。