2019年4月19日金曜日

2018年冬最後の旅:高玉城(福島県郡山市)

2018年12月15日訪城。

横川から五百川沿いに会津街道を進めば磐梯熱海温泉へとたどり着くが、横川から石筵川沿いに北に分岐する回廊を進むと高玉の集落にたどり着く。1589年に摺上原の合戦の前に猪苗代へのルートを確保したかった伊達政宗はまず安子ヶ島城を落とし、その次に向かったのがこの高玉にある高玉城だった。比較的すんなり陥落した安子ヶ島城と違って高玉城の高玉常頼の抵抗は激しく、城兵は全て討死して結果的に撫で斬りとなってしまったという。

高玉城址碑
高玉城へは愛宕神社の参道から登れるが、参道の入口がある集落とは逆の北側の道路沿いに何故か城址碑が立っている。確かに高玉城をバックに城址碑を入れて撮るならちょうどいいのだが、事前に知っていないと見落としてしまう場所である。


愛宕神社参道入口
集落の中の愛宕神社の入口も意外と判り辛く、民家の脇の道に入り、城の麓を流れる水路に架かるこの橋を渡った先が入口だった。


愛宕神社参道
橋を渡った先には神社の鳥居があり、参道は竹林を通って城へと登る階段へと続いている。当然ながら神社の参道は後から造られたもので、城が健在だった頃はこの場所に道は無かったと思われる。


腰郭
階段は切岸と腰郭を縫って頂上まで続いており、中断に比較的広い腰郭が2段確認できた。内部は竹林でビッシリ埋まっており、藪よりはマシだが倒木もあって散策するにはちょっと厳しい感じだった。


愛宕神社本殿
階段を登り切った先には愛宕神社が鎮座しており、主郭の東端部をくり貫くように削って建てられている。木々や竹林が無ければここからの眺めは良さそうだが、現状はあまり視界が利かない。


主郭内部
神社本殿から1段上に登った先が主郭の跡で、内部は長方形で比較的広く、軍記に載っている高玉氏の屋敷はここにあったのだろう。奥に見えるのは主郭と副郭?を分けている土塁。


仕切土塁
主郭と副郭の間にはL字状にハッキリと土塁が残っており、主郭が重要な区画であることを証明する見事な遺構であった。


二重堀
副郭の西側の山へと続く尾根があった場所には見事な堀切が設けてあり、二重堀で外側は深く掘った素晴らしい遺構だった。安子ヶ島城も横川館も遺構は微妙な感じだっただけに、より一層感動することが出来たといえる。


虎口
城の虎口と見られるものは副郭の北側にあり、そこから堀切に続く竪堀脇の登り土塁の外側に本来の登城路と思われる道が見えた。ただ、城下町は南側にあるので、北側に降りるこちらは搦手口だったのかもしれない。

2019年4月18日木曜日

2018年冬最後の旅:横川館(福島県郡山市)

2018年12月15日訪城。

安子ヶ島の城下町は江戸時代には会津街道の宿場町でもあったが、そこから数百m西に行った場所にも横川宿という小さな宿場町があった。この横川宿の背後の丘にあったのが横川館で、この館は1145~1151年頃に都を追放された皇子が住まいとした場所である。

道標
横川宿は今は「よこかわ」だが、神社の由緒によれば元は「よかわ」という名の集落だったという。ちなみに集落の外側を五百川が流れているが、この川の名の由来は都から500番目の川であることに因んでいる。


横川帳附神社鳥居
横川館跡には今は横川帳附神社が鎮座しており、この神社は前述の追放された皇子の旅に付き添った司人が旅の無事を感謝して導きの神である猿田彦を祀った塚を造ったのが始まりだという。


横川帳附神社(横川館跡)
丘の上に神社の本殿があり、ここが横川館跡でもあるので周囲にある土塁も元は館跡の遺構なおかもしれない。恐らく集落に接する南側だけは段丘崖で、残りの三方向に土塁と堀を配した方形の館だったものと推測される。


空堀跡
神社の東と北側に空堀と思われる遺構があるが、それより外側には特に遺構といったものは見られなかった。そもそも段丘一帯を城と仮定した場合はかなりの巨城になってしまうため、神社のある場所付近だけが館跡と見て良さそうだ。

2019年4月13日土曜日

2018年冬最後の旅:安子ヶ島城(福島県郡山市)

2018年12月15日訪城。

2018年も終わりというところで温泉にでも行きたいと思い磐梯熱海温泉へと出かけた。途中、安子ヶ島氏の居城である安子ヶ島城跡に立ち寄ったが、ここは伊達政宗が摺上原の合戦の前に進路を確保するために攻め落とした戦いの舞台でもある。

主郭東堀
安子ヶ島駅前も東の出城だったらしいが、台地上は広すぎてハッキリ言って曲輪があったのかどうかもわからない。駅から西に行くと安子ヶ島城の唯一の現存遺構とされる主郭東堀があり、空堀としてはそこそこ大きめの堀があったことがわかる。


城址碑
主郭東堀の西側の水田が主郭跡だが一面水田で土塁などの目に付くものは何も無かった。主郭の車道側やや西に城址碑が立てられているが、正確にはこの位置は主郭西堀があった場所で、圃場整備のために埋め立てられたという。ちなみに車道がある場所も主郭南堀を埋め立てた場所になる。この辺りは国土地理院の1974年の写真を見るとよく判る。


曲輪跡?
問題なのは主郭以外の曲輪が昔の写真でも判断付かないところで、政宗記に記された2の曲輪や3の曲輪がどこだったのか謎が残る。画像は主郭よりも西側の水田だが、ここは何気に主郭よりもやや高く、城外だとは思えないので曲輪の跡だと思われる。

2019年4月12日金曜日

冬直前の秋田の旅:大堤館(秋田県秋田市)

2018年11月25日訪城。

如斯亭から目と鼻の先に見える丘陵(五庵山・天徳寺山)は天徳寺の墓所かつ秋田市の霊園兼公園となっており、かなり広大な敷地に公園や墓所が広がっている。この丘陵にはかつて浪岡右近慶好の居館があり、慶好は津軽為信によって滅ぼされて安東氏の元に落ち延びた浪岡氏の遺児である。

天徳寺墓地公園(平和公園)
この丘陵一帯は高台は公園で斜面に墓地が整備されているような感じだが、公園についても平和の塔があるあたり等はイベントが出来そうなほどの広さがある。なお、大堤館跡は秋田市の遺跡地図によれば平和の塔がある丘よりも北側の別のピークにある。


大堤館標柱
墓地公園内を通るほぼ一本道の車道を進むとやがて大堤館跡の標柱が見えてくるが、この標柱がある丘の一角が館跡らしい。標柱の文字はかなり摩耗しているため、ギリギリ辛うじて読めるレベルだった。


堀跡?
標柱の目の前の丘のピークに登る道があったので、さっそく登ってみるものの、秋田市による立ち入り禁止の看板が…。なお、この道のある場所が標柱に書かれていた空堀の跡だと思われる。先人の記録によればこの階段の上にあるのは四阿なので公園の一部なのだが、倒木やスズメバチの巣などのトラブルでもあったのだろうか?


立ち入り禁止
丘の逆側にも道があるので行ってみたが、やはりこちらにも立ち入り禁止の看板とロープが張られていた。立ち入り禁止になった原因が書かれていないせいでモヤモヤが晴れないが、しかたないので丘のピークは諦めることにする。


堀切跡?
大堤館のある丘のピークと南の丘との間には瓢箪のクビレのように狭まった鞍部があり、恐らくそこには堀切が設けてあったであろう形跡がある。墓地の敷地に整地されたせいで元の形状が今は判らないが、墓地の外側に画像のような明らかに丘が切れている箇所が確認できる。