2019年5月31日金曜日

年初の京都奈良の旅:御土居(京都府京都市)

2019年1月13日訪城。

北野天満宮を訪れた理由は参拝以外にもう一つあり、それは御土居を見ることだった。御土居は豊臣秀吉が築いた京の都を守る城塁で、これの完成により都はかつての平城京が目指した羅城に近い城塞都市となった。御土居の長さは全長23kmもあったが、現在は大部分が開発で消失している。

天満宮の御土居の説明板
天満宮の中庭から西側の門を通って出ると、目の前を御土居が横切っており、そこに説明板が設置されていた。たぶん御土居だと知らなければ誰しも堤防だと認識すると思う。御土居には堤防の役割もあったので間違いでは無いのだけれども。


北野天満宮の御土居の上
御土居の上は普通車が1台通れそうな幅になっており、恐らく今は公園みたいな感じで利用されていると思われる。


天神川(紙屋川)
御土居のすぐ横には西堀こと天神川が流れており、古くは紙屋川と呼んだという。御土居の上からの落差はかなりあり、ここを越えるのは至難の業だと感じた。


平野の御土居
御土居は北野天満宮の北門付近で一旦途切れてしまうが、そのまま住宅地を北上すると急に住宅と住宅の間に御土居が現れて度肝を抜かされた。ただ、御土居が二階建て住宅と同じくらいの高さがあるということがここではよく判った。ちなみにここは残念ながら上には登れないようだった。


紫野の御土居
住宅地をさらに北上し、紫野西土居町という明らかに御土居の跡地に出来た住宅地を進んでいくと、住宅地の前に御土居の断片が現れた。ただ、今までのような高さは無く、一見すると塚のようでもあった。恐らく御土居を崩して均している時に出来た残骸なのだろう。


鷹峯の公園の御土居
紫野西土居町を抜けて更に北上し、北大路を越えて佛教大学の脇を抜けていくと、今度は鷹峯旧土居町というこれも御土居跡に出来た住宅地へと入っていった。しばらく進むと公園があり、そこに御土居が残ってあった。ここも上に登ってみると天満宮の御土居と同じような幅だったので、ある程度規格を決めて作っていたのだろうか。


北西隅の御土居
鷹峯旧土居町の坂を登っていくと、ついに御土居の北西隅にたどり着いた。ここは残念ながらフェンスに囲まれて中に入れない状態だったが、何やらツアーのような人たちが中に居たので許可があれば入れるのだろう。ちなみにブラタモリに出て来た御土居もここの場所である。


北西隅の御土居と空堀
北に伸びて来た御土居はここで東に折れ曲がり、西堀の役目だった天神川からは離れてしまうが、今度は巨大な空堀で大地を削っていた。恐らく御土居の土砂は空堀を掘って出たものを利用しているのだろう。


大宮の御土居と空堀
東に折れた御土居は再び住宅地と化してしまうが、しばらく進んで坂を下ると急に再び御土居と空堀が姿を現した。地図で見るとちょうどここが大宮土居町となっている。西側に御土居に登れる場所もあったが、明らかに入ったらダメな雰囲気なので内部は確認していない。


大宮交通公園の御土居
大宮土居町の先は再び住宅地になってしまうが、御土居跡の想定ルートを進むとやがて大宮交通公園を横切っていることが判った。大宮交通公園は子供の為のミニ遊園地みたいな感じで入り辛かったが、中に入ってみるとちゃんと南側に御土居が残っており説明板もあった。ただ、やや低くなっている感じがするので少し崩されたのだろうか。


紫竹の御土居
大宮交通公園の先は再び住宅地と化すが、地図で見るとあからさまに御土居跡に沿ってここだけ車道が斜めになっており、想定ルートが判りやすかった。やがて住宅地を抜けると紫竹の御土居が姿を現したが、空堀は今は暗渠の水路に変わってしまっているようだった。


北東隅の御土居
御土居は堀川通を挟んで賀茂川中学校の所で北東隅となり、ここから南に折れ曲がるわけだが、残念ながら中学校の所で遺構は途切れてしまっている。地図を見る限りでは花の木町の辺りで再び道路に御土居の痕跡が現れるが、遺構自体は大分南の廬山寺まで行かないと見れないようなので、今回の御土居散策はここで切り上げることにした。御土居の長さ的には約4kmの部分を散策したことになるが、これでもまだあと18kmほどあるのだからとんでもない規模である。

2019年5月26日日曜日

年初の京都奈良の旅:北野天満宮(京都府京都市)

2019年1月13日参拝。

今出川駅から今度はバスで西に移動し、北野天満宮へと移動した。厳密には初詣ではないが、社務所のある神社としてはここが2019年の初参拝となった。

たわらや
参拝前に天満宮前の「たわらや」という店でうどんを食べたが、ここの奴はとんでもなく太いうどんでインパクトが凄かった。もちろん味も美味しかったが。


北野天満宮一の鳥居
天満宮の入口は人で一杯で、流石京都の中でも有名な神社だが、その分撮影し辛いのが大変だった。


楼門の巨大絵馬
出店に寄り道しながら参道を進み、楼門まで来たところで巨大絵馬に遭遇したが、これが頭上に飾られているのだから凄いインパクトである。


梅の花
天満宮と言えば梅の木だが、境内には梅の木が沢山あってなかなか圧巻だった。時期的にまだ花は早いかなと思っていたが、既に咲いている木が何本かあって綺麗だった。


天満宮三光門
三光門を潜って拝殿で参拝したが、この内部がなんとも人で一杯で凄かった。…と言っても、参拝待ちの行列ではなく、授与所に並ぶ行列が凄かったのである。まぁ、おかげで御御籤の結果を受け取るまでかなり並ぶことになった。

2019年5月25日土曜日

年初の京都奈良の旅:旧二条城と室町第(京都府京都市)

2019年1月13日訪城。

京都奈良の旅の2日目は奈良から京都に移動し、以前から確認したかった現在の二条城以前の幕府の城跡を見に向かった。現在の二条城は徳川家康が築いたもので、それ以前には豊臣秀吉の聚楽第や二条第(妙顕寺城)といった城もあったが、今回はこれはパスして織田信長の頃の旧二条城跡や足利幕府が健在だった頃の室町第跡(花の御所)などを見て回った。

武衛陣・足利義輝邸跡の石碑
地下鉄丸太町駅を北に出た場所が既に旧二条城跡だが、現状は京都御苑の南西隅と市街地住宅地があるだけで城跡の名残は全く見られない。旧二条城の中心付近に平安女学院があり、この女学院に面した通りに画像の石碑があったが、この石碑は旧二条城が築かれるさらに前の足利義輝の時代の城(武衛陣)の説明だった。


旧二条城跡の石碑?
旧二条城跡の石碑があるという平安女学院北側の交差点へと移動したが、残念ながら何か建物の工事が行われており、石碑と思われるものは保護板でパッケージされていた。


室町第跡の石碑
旧二条城跡を散策後、丸太町駅から北に移動し、今出川駅で降りた場所が足利義満が築いた室町第こと花の御所の跡であるが、やはりこちらも市街地・住宅地で将軍の居城跡の名残は見られなかった。画像は室町第があったことを示す石碑で室町通りの交差点にある。



大聖寺
室町第跡の中心付近には今は大聖寺があり、ここにも「花の御所」跡の石碑があった。なお、室町第の石敷跡が残っていることを後から知った為、この時はそこまで確認することが出来なかった。

2019年5月19日日曜日

年初の京都奈良の旅:平城宮(奈良県奈良市)

2019年1月12日訪問。

宇陀市から奈良市へと移動する頃には夕方になっていたが、大和西大寺駅から平城宮へと移動した。平城宮は奈良にかつて日本の首都があった頃の宮殿跡で、東西南北に約1kmもある広大な遺跡である。かつて1度訪れたことがあったが、今回かなり久方ぶりに再訪することが出来た。

佐伯門跡
大和西大寺駅から平城宮を目指すと佐伯門跡から宮殿内部に入ることになるが、ここでは何か工事中のようだった。国営平城宮歴史公園の整備計画図を見ると何かゲート的な施設(朱雀門のような復元ではない)が出来るようである。


復元事業情報館
以前来た時には無かった建物があったので立ち寄ったが、ここの内部は平城宮に関するPVシアターやミニ資料館のような場所だった。


太極殿
平城宮の中心である太極殿は以前と変わりない姿だったが、この時は既に閉館時間になっており内部を見ることは出来なかった。


南門跡
太極殿から内庭を挟んで南には政庁の正門である南門跡があり、ちょうどここが復元工事中になっていた。完成は2022年とのことなのでまだまだ先である。


朱雀門から政庁の南門跡を見る
平城宮跡内部を時計回りに散策したが東側は概ね以前と大きく変わった場所は無かった。その後、宮殿跡を横切る近鉄の線路を横断し、宮殿南の正門である朱雀門まで移動したが、やはり敷地がとんでもなく広いことを思い知らされた。画像は朱雀門から前述の政庁南門工事現場の覆屋根を見た景色だが、ここから向こうまで全て宮殿内部だというのだから恐ろしい。


朱雀門
朱雀門も以前と変わりない様子で、本来は門を潜ることが出来るのだが、この時は時間切れで閉門となっていた。


天平○○館
以前来た時は平城宮は観光地にも関わらず観光施設が全くないなと思っていたが、今回の旅では朱雀門の外に観光施設が新たに出来ていた。天平なんとか館と呼ばれる4つの施設があり、食事処や土産店、学習施設などそれぞれ施設の機能が別けられていた。また、駐車場やタクシー等のターミナルもここが兼ねているようだ。


遣唐使船
この中でも特に面白かったのが復元された遣唐使船で、内部も無料で見ることが出来た。一応、船の雰囲気を出すために周囲は池になっているが、船は浮いているわけではないので揺れたりはしない。ちなみに近くの「天平うまし館」ではこの遣唐使船の過酷な旅が映像で上映されていた。

2019年5月18日土曜日

年初の京都奈良の旅:宇陀松山城(奈良県宇陀市)

2019年1月12日訪城。

2019年になって最初の遠征は久しぶりに関西方面へと出かけ、奈良、京都を巡ることにした。横浜から名古屋を経由して近鉄で奈良県へと入り、まず宇陀市の松山城へと立ち寄った。宇陀市は山と山の間に回廊のように平地が縦横に伸びており、松山の城下町はそんな回廊の中にあった。

松山城は元々は国人領主の秋山氏の居城で、豊臣秀長が郡山城に入って大和国を治めた時に秀長の家臣によって大規模に改修された。その後、高取城と共に大和国の支城として利用されるが、関ケ原の合戦後は福島高晴が入って宇陀松山藩の藩庁となった。

千軒舎
とりあえず登城口は松山まちづくりセンター千軒舎の裏にあると聞いてそこを目指した。千軒舎は元は旧内藤家の邸宅で、これも町屋としての文化財で、内部には松山城の資料も少し置いてあった。ちなみに画像右奥の脇道から登城路に出られる。


注意書き
最近舗装されたような車道を登っていくとやがて本来の登城路に合流したが、春日神社から登ってくる本来の登城路(搦手道?)は倒木のため閉鎖されているという注意書きがあった。


登城路(搦手道?)
大手道は南の方から山の裏に回って二の丸に行く道のようなので、こちらはたぶん搦手道なのだろう。画像の奥は堀底道のようにもなっており、道が狭すぎるのも搦手道という印象を裏付ける。


横堀
ある程度登ると急に横に巨大な横堀が現れ、いよいよ大規模な遺構群が目に入ってきて弥が上にもテンションが上がってくる。


雀門跡
横堀を抜けると雀門跡の桝形が見え、石段や根本だけ残った石垣がかつてここに近世城郭が建っていたことを証明している。


石垣
石垣は場所によっては1mくらいの高さで残っており、打込み接ぎの構造だったことが判る。


本丸跡
雀門の桝形から二度折れ曲がった道を登ると本丸跡で、山頂にしては結構な広さがあって驚いた。画像の奥に見えるのは天守台。


礎石
本丸跡はよく見ると礎石が残っており、ちゃんと規則的に並んでいる為、ここに建物があったことが良くわかる。


天守台
天守台も結構大きく、かつてここにはどんな天守閣が建っていたのか興味を惹かれるものがある。画像の部分は天守の入口で、本丸側へ突き出ているので天守に連結する櫓があったのかもしれない。


崖崩れ
ただ、城跡は豪雨被害で城内の至る所が崩れており、大部分が立ち入り禁止で二の丸側へ移動することも出来なかった。しかも、このまま被害が拡大すると貴重な本丸の遺構も無くなりそうで心配である。


城下町
城跡散策の後は城下町も散策したが、ここは昔の町屋やそれに似せた現代の建物等が立ち並んで予想以上に城下町らしい町だった。これだけ見ると観光客が多く訪れそうな場所だが、知名度と奈良県の奥地というのが敷居が高いのか、この時は地元の人しか見かけなかった。


春日門跡
城下町を通って閉鎖中の登城路の入口へと回り込んだが、ここには立派な城門の石垣が残っていて見事だった。本来であればこの城門を抜けて春日神社の側を通り山頂に向かうのが正規の登城ルートである。


西口関門
春日門跡から城下町を通って西に向かうと、西口関門が現存しており、城下町の入口である関門が残っているのは非常に珍しいだけに驚いた。関門の外側には宇陀川が流れており、この川を境にして西側が城下町の外になる。

2019年5月12日日曜日

2018年冬最後の旅:船引城(福島県田村市)

2018年12月16日訪城。

大越城の散策後、遅い昼食をとる為に田村市の中心である船引へと移動した。船引の街の中華料理屋で食事をした後、ちょうど近くに船引城があったため立ち寄った。船引城は田村氏一門の居城だった城で、田村氏を掌握しようとした相馬義胤が一時拠点にしたり、田村清顕の後家の隠居所となったりと、なにかと重要な局面で利用されている。

館山公園入口
城跡は今は館山公園になっており、北側の麓に舘山公園の入口がある。当時の大手口が同じ場所かどうかは分からないが、街道と城下町が北にあることを考えれば大手は北で合っている気がする。


大手道?
少なくとも直で階段が付いている部分は公園化で削った部分と判るが、腰郭を経由するように通る道は旧来の大手道のように思える。


主郭と副郭の間の土塁
斜面を登り切った館山の上には主郭と1~2mほど低い副郭が東西にあり、西側の主郭と副郭の間には土塁らしきものの跡がある。


主郭
頂上の主郭はそこそこの広さがあるが、正直なところ歴史に登場する城の割には狭い感じがする。館山は比高は40mほどしかない丘だが、急斜面のため一応要害性はあるものの、やはり戦向きではなく統治専用の城のように見える。


大土塁
主郭の背後には大土塁があり、丘陵続きの南側との間の仕切りになっているが、城内最高所でもあるため土塁というより見張り台的なものだったのかもしれない。


大土塁の上の秋葉神社
大土塁の上には秋葉神社が祀られているが、由緒などは不明である。火伏の神であるため、城内に何か建物があった頃に祀られたとも考えられるが、街の火除けの為に近代に入ってから祀られたとも考えられる。


船引城の背後の尾根
大土塁の背後は丘陵続きで南の山塊に繋がっている為、普通に考えればここには堀切等の厳重な防御構造があったはずだが、現状では畑や墓地になってそれらしきものは見当たらない。


搦手口か?
ちなみに東の副郭から東側に降りる山道があり、住宅地の脇に出れるが、もしかするとここも登城路の一つ(搦手?)だったのかもしれない。