2019年5月18日土曜日

年初の京都奈良の旅:宇陀松山城(奈良県宇陀市)

2019年1月12日訪城。

2019年になって最初の遠征は久しぶりに関西方面へと出かけ、奈良、京都を巡ることにした。横浜から名古屋を経由して近鉄で奈良県へと入り、まず宇陀市の松山城へと立ち寄った。宇陀市は山と山の間に回廊のように平地が縦横に伸びており、松山の城下町はそんな回廊の中にあった。

松山城は元々は国人領主の秋山氏の居城で、豊臣秀長が郡山城に入って大和国を治めた時に秀長の家臣によって大規模に改修された。その後、高取城と共に大和国の支城として利用されるが、関ケ原の合戦後は福島高晴が入って宇陀松山藩の藩庁となった。

千軒舎
とりあえず登城口は松山まちづくりセンター千軒舎の裏にあると聞いてそこを目指した。千軒舎は元は旧内藤家の邸宅で、これも町屋としての文化財で、内部には松山城の資料も少し置いてあった。ちなみに画像右奥の脇道から登城路に出られる。


注意書き
最近舗装されたような車道を登っていくとやがて本来の登城路に合流したが、春日神社から登ってくる本来の登城路(搦手道?)は倒木のため閉鎖されているという注意書きがあった。


登城路(搦手道?)
大手道は南の方から山の裏に回って二の丸に行く道のようなので、こちらはたぶん搦手道なのだろう。画像の奥は堀底道のようにもなっており、道が狭すぎるのも搦手道という印象を裏付ける。


横堀
ある程度登ると急に横に巨大な横堀が現れ、いよいよ大規模な遺構群が目に入ってきて弥が上にもテンションが上がってくる。


雀門跡
横堀を抜けると雀門跡の桝形が見え、石段や根本だけ残った石垣がかつてここに近世城郭が建っていたことを証明している。


石垣
石垣は場所によっては1mくらいの高さで残っており、打込み接ぎの構造だったことが判る。


本丸跡
雀門の桝形から二度折れ曲がった道を登ると本丸跡で、山頂にしては結構な広さがあって驚いた。画像の奥に見えるのは天守台。


礎石
本丸跡はよく見ると礎石が残っており、ちゃんと規則的に並んでいる為、ここに建物があったことが良くわかる。


天守台
天守台も結構大きく、かつてここにはどんな天守閣が建っていたのか興味を惹かれるものがある。画像の部分は天守の入口で、本丸側へ突き出ているので天守に連結する櫓があったのかもしれない。


崖崩れ
ただ、城跡は豪雨被害で城内の至る所が崩れており、大部分が立ち入り禁止で二の丸側へ移動することも出来なかった。しかも、このまま被害が拡大すると貴重な本丸の遺構も無くなりそうで心配である。


城下町
城跡散策の後は城下町も散策したが、ここは昔の町屋やそれに似せた現代の建物等が立ち並んで予想以上に城下町らしい町だった。これだけ見ると観光客が多く訪れそうな場所だが、知名度と奈良県の奥地というのが敷居が高いのか、この時は地元の人しか見かけなかった。


春日門跡
城下町を通って閉鎖中の登城路の入口へと回り込んだが、ここには立派な城門の石垣が残っていて見事だった。本来であればこの城門を抜けて春日神社の側を通り山頂に向かうのが正規の登城ルートである。


西口関門
春日門跡から城下町を通って西に向かうと、西口関門が現存しており、城下町の入口である関門が残っているのは非常に珍しいだけに驚いた。関門の外側には宇陀川が流れており、この川を境にして西側が城下町の外になる。