2021年1月10日日曜日

南三陸町への所用の旅:三嶋館(宮城県南三陸町)

 2020年3月20日訪城。

3月あたりからちょうどコロナの話題で騒がしくなってきており、花粉症持ちなこともあってあまり外には出たくなかったが、震災関連の所用で南三陸町に行くことになった為、この機会に南三陸町の史跡の現状を確認しておくことにした。

最初に向かった先は歌津の三嶋館跡で、葛西氏家臣の浅野時重の居館である。1586年に起こった本吉大膳と歌津十二人衆の戦いである志津川海戦において、陸上戦の激戦地だった場所であり、浅野時重はこの三嶋館の南の方にある石名坂(細浦坂)で本吉軍を一度打ち破っている。

三嶋館遠景
歌津のかつて伊里前の街があったあたりは嵩上げ等の工事が現在進行形で行われており、国道45号バイパスが津波で消滅した為、旧国道45号から三嶋館前で折れ曲がりバイパスに合流するルートが現在の国道45号となっている。画像奥に見える独立丘陵が三嶋館跡であるが、この丘は60年代頃のバイパス工事で画像右側の奥が消失している。


三嶋神社の参道から見た城下町跡
三嶋館跡には現在三嶋神社が祀られており、かつては神社の参道前から西に向かって街道がまっすぐ伸びていた。画像の手前から奥に向かって街道があったのだが、震災による津波で消滅しており、現在は更に地盤が嵩上げされて面影は全くなくなってしまった。震災前の航空写真を見ると三嶋館跡から西に伸びた道沿いに街が形成されており、元々は城下町だったことが想像できる。


三嶋神社境内
参道の階段を登った先は三嶋神社の境内になっており、恐らくここが二の曲輪跡と思われる。ここには土塁が一部残っており、北側に虎口と思われる構造が確認できる。なお、神社が館跡に勧請されたのは元禄の頃で、計仙麻大島神社から分霊したものだという。


主郭跡の切岸
神社のある曲輪よりも東に行くと主郭跡の切岸と思われる2~3mの段差が確認できる。本来はこの上が主郭跡と思われるのだが…。


主郭跡西から主郭跡東を望む
現状は画像の通りで主郭跡の中心部がごっそり丘ごと消滅している。画像の奥に東端部の残丘が見えるが、かつては手前の丘と繋がっていた。


消失した主郭跡
消失した主郭跡の丘の部分には国道45号(旧国道45号バイパス)が通っており、60年代頃のバイパス工事で消失したらしい。かろうじて60年代の白黒航空写真で主郭跡が確認できるが、70年代の航空写真では既に消滅している。


主郭跡東から主郭跡西を望む
国道脇から東の残丘に登れる道が付いているが、ここから登って神社がある側の丘を見ると画像のようになっている。


館跡の東端部
東の残丘部分にわざわざ後から道を付けた理由は画像の祠があるからのようで、この場所は東側の腰郭跡にあたる。この部分は伊里前湾に突き出た岬の先端でもあるため、当時は海側を監視するための場所だったと思われる。