2020年3月21日訪城。
志津川で昼食をとった後は黒崎の岬を越えて戸倉の方面へと移動し、河口の北側にある丘陵へと登った。ここは折立刑部の居城の大平館(折立城、戸倉古館)があった場所で、千葉彦右衛門の居城とも伝わっており、折立氏はこの地域一帯に地頭として入った千葉氏一族の末裔と思われる。天正の大崎葛西一揆の際に、折立刑部はこの城に一揆勢の残党の浪人や百姓を集めており、伊達政宗の命で派遣された富塚仲綱によって掃討捕縛されている。
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丘に登る坂の途中から見た志津川湾 |
丘の東端部に登り口があり、丘にはそこから容易に登ることが出来た。丘の先はすぐ志津川湾になっており、現在はかなり高い防潮堤で仕切られていた。中世の頃は恐らく画像の辺りは波が打ち寄せる海岸線で、志津川方面とは船で移動していたものと思われる。
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丘陵東端部の板碑 |
丘陵の上の東端部にある平場は現在は墓地になっており、この日は墓参り客がそこそこ居たので流石にカメラを構えて隅々見て周ることは出来なかった。ただ、東端の一角に画像の板碑が集められており、これだけは写真に収めた。なお、『仙台領古城書上』に書かれた千葉彦右衛門の館はこの今は墓地の平場を指していると考えられている。
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堀跡 |
曲輪は東西に伸びる丘陵にそって階段状に並んでいたと思われ、曲輪と曲輪を隔てる堀跡も確認できた。
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堀跡? |
坂道が途中で折れ曲がって丘を横切っている箇所も恐らく堀跡と思われ、この道沿いに「大平折立館遺跡」の看板が設置されている。看板には昭和56年の発掘調査のことが書かれているが、資料によればこの画像右側のあたりを調査して中世の曲輪跡と通路跡、柱穴などを発見している。
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曲輪跡 |
ただ、発掘調査が行われたとされる曲輪跡は現在は猛烈な藪になっており、現状からはたぶん平場なんだろうなということしか分からなかった。
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曲輪跡 |
この付近には曲輪跡と思われる空間が遠目に確認でき、画像の奥なんかは植生から見て平場であることは間違いない。ただ、周囲は密度の高い笹薮などによって覆われており、流石にお手上げだった。
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曲輪跡? |
丘を更に登っていくと耕作地となっている平場に出るが、東側の畑は恐らく曲輪跡と思われるものの、西側の方は緩やかな傾斜地になっており、曲輪跡かどうかは判断に困る。
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丘の頂上 |
耕作地より西側は森になっており、丘の頂上は広い平場にはなっているものの、切岸や土塁などは無く、斜面も緩やかであまり曲輪跡という感じがしない。恐らく城の主郭は丘の東端部で、後から西の丘の上に向かって曲輪が拡張されていったのではないだろうかと思われる。
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頂上の板碑 |
頂上は前述の通り平場以外に遺構は見られないが、遺物としては板碑が散乱していることが確認できた。そこらへんに転がっている石は確認した限りでは全て板碑で、画像の通り文字がハッキリと掘られていた。
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中腹付近の板碑 |
板碑は丘陵全体に散乱しており、画像のように何気なく転がっている石は例外なく全て板碑だった。流石に全て数える気にはなれなかったが、少なくとも二桁はあった。南三陸町の資料によれば南北朝時代あたりからこの地域では板碑がブームだったようなので、これらはその遺物と思われるが、仮に頂上付近の板碑が城より古いなら頂上付近は元は城外だったのではないだろうか。