2020年8月4日訪城。
その1の続き。
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本丸裏御門跡 |
天守台から再び本丸に戻り、今度は裏御門跡から二の丸に出る。この裏御門跡に隣接して櫓台(画像左)が残っており、ここは当時は古時打櫓と呼ばれていた。要するに時刻を知らせる役目を持った櫓で、太鼓で時刻を知らせていた為に太鼓櫓とも称されいる。ちなみに現在福岡城内にある伝潮見櫓は実際はここにあった古時打櫓の可能性が高いことが平成の初めの頃に判明している。
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南の丸入口 |
二の丸を南側に行くと南の丸があるが、流石に午前中のまだ早い時間だったせいもあって閉鎖されていた。ここが閉鎖されている理由は、福岡城内で唯一ここだけが当時の建物を残しているからであり、国指定の重要文化財にもなっている多聞櫓があるからである。
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南の丸跡 |
たまたま近くにいた管理の方が少し早いが鍵を開けてくださったので、南の丸に入ることが出来たが、流石に夏場なだけあって園道以外は夏草が茫々だった。
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多聞櫓(内側) |
多聞櫓は南の丸の西側に残っており、北西隅と南西隅の隅櫓もセットで現存している。多聞櫓は長く伸びた平屋の櫓のことで、内部に廊下が通っている回廊タイプもあるが、福岡城の場合は16の小部屋に別れた長屋タイプになっている。画像は多聞櫓の内側で、それぞれ窓と出入口が沢山あることが判る。なお、多聞櫓の語源はこの出入口が多くあることから来ている。
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多聞櫓(外側) |
南の丸から二の丸に戻り、桐木坂御門跡から三の丸に出て今度は南の丸を外側から見に向かう。画像は多聞櫓を外側から見たもので、一定の間隔で石落としがあることが判る。この風景だけは江戸時代に福岡藩士たちが見ていた光景と同じと思うと、なかなか感慨深い。
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名島門 |
多聞櫓周辺を堪能した後は、三の丸跡を貫通している市道舞鶴公園線から大濠池方面へ曲った場所にある名島門を見に行った。名島門は元は名島城にあった城門で、黒田長政が福岡城を築いた際に移築されて、家臣の林掃部に与えた門である。時代と共に何度か移築されて、この場所にやってきた。武家屋敷の表門に使用されていたらしいが、櫓門が使用されるのはちょっと珍しい気がする。
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旧母里太兵衛邸長屋門 |
名島門から再び公園線の車道に戻った北側の場所に、移築された母里太兵衛の武家屋敷の長屋門がある。母里太兵衛といえば黒田節にも歌われる酒豪にして黒田家随一の武人である。漆喰が塗られていることから長屋門としてはかなり立派なもので、格式が感じられる。
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御鷹屋敷跡 |
前述の長屋門の背後には小さな丘があり、現在は牡丹芍薬園になっているが、元は黒田如水の隠居所跡である。三の丸内部ではここだけ丘になっており、元からの地形なのか人工的に盛ったのかは気になる。なお、開園前で閉鎖されていたため内部は見ていない。
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伝潮見櫓 |
御鷹屋敷跡から北に行くと県指定の重要文化財にもなっている潮見櫓があるが、実はこの櫓は「潮見櫓ではない」ことが平成3年に判明している。本当の潮見櫓は崇福寺の仏殿に移築されており、これを裏付ける棟札が仏殿に残されていたのが見つかった。移築の際の記録に混乱が見られ、あやふやなまま伝えられたことが原因のようで、浜町の黒田家別邸に移築されたのは太鼓櫓という記録もあることから、本当は当時太鼓櫓とも呼ばれていた古時打櫓であるという説が今は有力になっている。
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下之橋御門 |
伝潮見櫓の近くには下之橋御門があり、福岡城では唯一本来の場所に建っている城門となっている。県指定の重要文化財だが、平成12年に放火によって消失し、平成20年に修復復元された。この付近は枡形に土橋、そして水堀もあるため、南の丸に次いで見所がある。