2019年12月15日訪城。
鶴山城への突入を断念した後、鶴山城と対になっている亀山城にも向かった。亀山城は1261年頃に宗像氏によって築かれた城館で、宗像氏は866年に九州から陸奥国安積郡の西部に入植したのが始まりなので伊東氏よりも遥かに古くからの土着勢力である。この地方の鎮守である隠津島神社は宗像氏が宗像大社から勧請したもので、先に立ち寄った小倉城の小倉神社もこの神社の系統である。
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亀山城
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福良の古町から見て北西側の菅川を挟んだ対岸に小さな島のような丘があり、ここが亀山城と伝わっている。ただ、一見すると不自然な長方形をしており、例えるなら大宰府の水城の防塁のような感じである。
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亀山城周辺
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国土地理院の地図を見ると亀山城の丘を含めてL字に不自然な高低差があり、つまり画像の右に見える城址の丘は本来はもっと左側に伸びており、画像左の民家のある部分まであったのではと思えてくる。なお、画像奥の地名は「穴尾」で弘法大師に退治された大蛇が逃げ込んだ穴があった場所という由来がある。恐らく穴尾は宗像氏の居館があった場所で、そこを囲むように高い塁壁があった為、塁壁の隙間の入口を「穴」に見立てたのではないだろうか。
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丘へ登る階段
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丘は東端部に階段が付いており、そこから上に登れるようになっていた。階段があるということは上に何かあるということだが、この時点では事前情報でも地図でも情報を得られておらず何があるか分からなかった。
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斎藤稲荷大明神
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丘の上にあったのは斎藤稲荷大明神という小さな社で、恐らく斎藤家の氏神を兼ねた稲荷神社か。とりあえず亀山城とは無関係と思われる。
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丘の上
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丘の上は平場になっているが、幅が5mあるかどうかというレベルで、とてもじゃないがこの上に建物があったとは思えない。やはり丘自体は塁壁で、居館は北側の平地にあったのではないだろうか。ただ、いち地方の土豪が築いた土塁にしては大きすぎる為、元は西の山から伸びた岬状の丘だった可能性もある。