2020年10月19日月曜日

郡山市街と湖南地方への旅:福良宿と鶴山城(福島県郡山市)

 2019年12月15日訪城。

新城から下山後、福良宿の本陣があった場所と福良が城下町だった頃の初期の城である鶴山城へと向かった。鶴山城は新城が出来るよりもずっと前の城で8世紀頃に築城されたというが、だれが築いたのかは不明である。その後、湖南地方に進出した安積伊東氏一族の城となり、最後の城主は伊東玄蕃と伝わっている。


福良宿
福良宿は西から順に古町、中町、荒町と並んでおり、画像は荒町のL字カーブから古町方面を見た景色。元々は古町が城下町だった場所で、城下町と鶴山城との間には中川が流れて水堀に近い役割を果たしていたという。


本陣入口
福良宿の本陣は荒町の中町寄りの場所にあり、街道沿いに画像のような標柱が立っている。本陣跡はこの民家と民家の間の狭い道を通った先にあり、標柱が無ければ絶対気付かないレベルである。


本陣跡
本陣跡といっても今は石碑と祠があるだけで、建物などは全く残っていない。なお、福良宿の本陣は主に会津藩が利用したもので、他の藩や巡見使は三代宿の本陣を利用した。



中川
中町と荒町の間には中川が流れており、元々は城下町と御城との間を流れる唯一の川だったが、度々氾濫を起こして町屋と田畑に被害を出したという。この為、15世紀頃に蘆名氏から秦を名乗る土木技師が派遣され、菅川という人工河川を新たに西の山際に造った。これにより水量の大半は菅川に流れ、中川は画像のとおり水路のような小川となった。


鶴山城の斜面
福良宿の北側で中川を越えた先にある岬状の丘が鶴山城で、名称は福良の西にある亀山城と対になっており、当時の領主(伊東氏?)が縁起を担いで名付けたという。肝心の丘は登り口が分からず、結局丘に登るのは断念した。一応、丘の先端付近は藪が薄かったので、無理すれば登れるとは思う。


鶴山城遠景
文献によれば別名を鬼渡城とも言いい、今は鬼渡神社が鎮座していると記載があるが、パット見た感じでは丘の上に社殿があるようには見えない。ただ、南側から見た時に丘の中腹あたりに鳥居が見えたので、神社自体は存在してそうである。画像は遠景で判り辛いが、右側奥の民家の屋根の向こうに鳥居が見えている。ただ、そこに行くには民家の中を通っていかねばならない為、結局確認は出来なかった。