2020年12月28日月曜日

新春の奥久慈への旅:羽黒山城・その1(福島県塙町)

 2020年2月23日訪城。

塙の町で昼食をとった後、いよいよ町の中央に鎮座する羽黒山へと向かうが、羽黒山は登山口が東西南北に存在しており、街中に近い西側ではなくあえて山を回り込んだ東側から登ることにした。東側が大手道だからというのが自分の場合の理由だったが、登ってみた感じでは基本的に東から登るのが正解のようだった。

羽黒山城の始まりは不詳で、伝承だと源義家が奥州へ向かう際に築いたというのが一番古いが事実かは定かではない。説明板だと南北朝時代に築かれたものとされている。現在見られる遺構は16世紀に佐竹氏によって築かれたもので、南郷を支配するための重要な拠点だったこともあって、何度か結城氏と佐竹氏の戦いの舞台となっている。

東側の登山口
出羽神社の参道や林道羽黒山線の起点にもなっており、登山口には画像のように色々目印が立っている。ここから中腹までは舗装された林道を進むことになる。


城代屋敷跡
登って道なりに進むと林道がU字に急カーブしている箇所があり、ここの北側に城代屋敷跡がある。なお、住所の「竹之内」はここを指す館(たて)の内が由来とされている。所々藪があって散策し辛いが、画像のような土塁や堀が今でも確認できた。


二重堀跡(外側)
しばらく登っていくと林道の左右に広い曲輪跡が確認できるようになるが、二重の横堀があるとされている箇所は今は配水場に変わってしまっていた。画像は恐らく二重堀の外側の堀だったと思われる箇所。


二重堀跡(内側)
二重堀の内側とみられる箇所は一部が残っており、この画像の右側の方に先ほどの配水場の入口がある。なお、平成三年度の発掘調査で画像左の切岸の上に石積みがあったことが確認されているが、現在はどこらへんが石積みだったのか確認できなかった。


曲輪跡と櫓台跡
前述の切岸の上は同じ調査で主殿クラスの建物跡が見つかっており、切岸側に見える土塁は櫓台の跡とされている。林道を挟んで南側の曲輪跡には大手門跡とされる場所もあるため、この辺りからが城の重要区画だったのだろう。


石積み
北側からは結局石積みは見つけられなかったが、南側の曲輪には石積みらしきものが確認できた。野面積みの石垣と違って、整えずに石を積んだものであり、中世の伊達氏の城なんかでもよく見かける奴である。


大手曲輪跡
先の曲輪跡の一段下にあった曲輪で、大手門跡があったらしいので便宜上呼び分ける為に大手曲輪と呼ばせてもらう。前述の石積みは記録と分布を見る感じではこの大手曲輪と建物があった曲輪の間の切岸を補強するために築かれたと思われる。なお、画像の中央奥に大手門があったとされる虎口跡がある。


出羽神社入口
林道羽黒山線から出羽神社の参道が分岐する箇所が画像の部分で、ここから先は舗装されていない山道になる。なお、林道の方は本来の登城路とは関係なく通っている為、ここから先が本来の登城路と同じルートとなる。


礎石建物があった曲輪
参道を登った先には比較的広い曲輪跡があり、平成四年度の発掘調査では建物の礎石が見つかっている為、ここに重要な施設があったようである。それにしても、礎石は埋め戻されているから分からないのは当然にしても、現状からはそれが全く分からないから恐ろしい。


横堀と土塁を横切って登る道
個人的に見所だと思ったのが画像の箇所で、横堀と土塁を横切って山道が通っており、藪の中に入らなくても遺構がハッキリと確認できた。


主郭下の帯郭
山道は大小の曲輪跡を縫って山頂へと続いていくが、山頂の主郭跡の直下にある帯曲輪は北側が藪になっており、主郭方面以外の北側の曲輪に行くのは困難な様子だった。