2017年10月7日訪城。
10月の3連休は予てから行きたかった山陽地方へと久々に遠出の旅に出た。季節の変わり目でひいた風邪が治らない等の問題を抱えた状態だったが、なるべく山城以外に行くことで負担を軽減して乗り切る方針で強硬する旅になった。
最初に訪れたのは赤穂城で、新幹線を降りた時の姫路が雨だったので不安だったが、赤穂は曇り空で後ほど晴れ間も僅かに見え、天候にはなんとかギリギリ助けられた。赤穂城は1648年に浅野長直が加里屋城を大改築して造った近世の平城で、この浅野氏は備中国赤穂に来る前は常陸国の笠間の領主をしていた。実を言うと、先月たまたま立ち寄った笠間城で浅野氏や大石氏の話が書かれていた為、赤穂城に行くことを思い立ったという経緯がある。
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三の丸大手口 |
播州赤穂駅から来るとまず見えるのが三の丸大手隅櫓で、この大手口周辺は昭和30年頃に再建されたという。ただ、再建されたのが文化財関係の扱いが厳格でなかった昭和の頃のため、再建した建造物はあまり正確ではないという。
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三の丸大手の番屋 |
大手門を抜けると内側には番所も外観再建されており、内部は休憩所と展示パネルになっていた。
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近藤源八邸長屋門 |
三の丸内部には現存する建物も一部残っており、画像の近藤源八邸の長屋門もその一つだが、これは長屋門の1/4ほどを住居に改造していた為、その1/4が今も残ったものだという。
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大石邸長屋門 |
近藤源八邸跡の向かいには赤穂藩家老で知られる大石内蔵助の大石邸があり、こちらには立派な長屋門が残っていた。
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大石神社 |
大石邸そのものは残念ながら残っていないが、屋敷のあった付近は今は大石神社になっており、この日も人々が多く訪れていた。この神社の御利益は「念願成就」で、なんとも納得のいく御利益である。
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二の丸の水堀 |
三の丸と二の丸の間には水堀があり、画像の部分は特に整備前の部分のようで、石垣等の残骸が散らばっているのが見えた。
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二の丸の櫓台と水堀 |
画像も同様の三の丸と二の丸間であるが、ここは二の丸の復元で整備された部分で、石垣と水堀がなんとも立派であった。
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二の丸の大石頼母邸庭園 |
二の丸の大石頼母邸跡周辺が綺麗に整備されてあり、屋敷の建物跡自体は芝生の広場になっているが、屋敷の門と庭園が復元されていた。一つ残念だったのは庭園の奥の2/3ほどが立ち入り禁止になっていたことで、庭園の通路等は整備されていたのでそのうち入れるのだろうか?
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本丸大手門 |
二の丸と本丸の間も水堀で、土橋の先に立派な大手門が復元されていた。ただ、困ったことにこの日の10/7はこの本丸が音楽フェス?のようなイベントの会場になっており、内部に入ることが出来なかった。今回の旅の初日で一番ショックだった出来事である。
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本丸厩口門 |
しょうがないので二の丸をそのまま散策することにした。画像は二の丸から見た厩口門で、ここも綺麗に復元されているが、当然ながら門は固く閉ざされていた。(普段は開いているらしい)
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本丸刎橋門 |
本丸大手門からちょうど反対側に回り込んだ位置に本丸刎橋門があるが、この部分だけは復元されていなかった。本丸側の門口と二の丸の間にかなり落差があるが、ここには文字通り刎橋(跳ね橋)があったらしいのでこんな構造なのだろう。
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二の丸米蔵 |
二の丸の奥には米蔵も外観復元されていたが、内部は休憩所である。この周辺は桜の木が多いみたいなので、今度赤穂に来るときは春にでも来たいものである。
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二の丸水手門から外を見る |
米蔵の前には二の丸の水手門跡があるが、ここで言う水手とは水源のことではなく海のことである。つまり、この門の外は海で画像の場所は船着き場だった場所である。現在は海は埋め立てられてしまったため、かつて海だったこの周辺もただの御堀に見える有様である。
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三の丸外堀の埋め立てられた部分 |
水手門跡から外に出た後は城の周囲をぐるりと散策したが、驚いたことに赤穂城の二の丸、三の丸の外と接する石垣はほとんどが現存しており、三の丸の西側の堀が埋め立てられたこと以外は縄張りが綺麗に残っていた。埋め立てられた堀は最初車道になっている部分と思ったが、実際は車道よりも広く車道の隣の民家も堀跡の上にあることが判った。画像の場所はその埋め立てられた堀の幅がよく判る北西隅の場所。
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赤穂市歴史博物館 |
三の丸の清水門跡から外に出た場所のかつて舟入(港)と蔵があった場所に赤穂市の博物館が建っており、外観は蔵を模しているためお城側から見ると蔵に見えて面白い。内部には当然赤穂の歴史や城跡の模型などもあったが、製塩の歴史の解説も熱かった。