2020年8月16日日曜日

郡山市街と湖南地方への旅:久保田館(福島県郡山市)

2019年12月14日訪城。

山王館跡を散策した後は、そこから線路を挟んで東の低地にあった久保田館を目指して移動した。久保田館は在地豪族の久保田氏の居館だったが、「郡山合戦」の時に伊達軍が本陣として接収した結果、突貫工事で曲輪が増設されて規模だけなら大名並みの城となった。突貫工事の様子は伊達家の古文書で確認できるが、具体的な曲輪の数や名称は記載されておらず不明である。昭和39年の航空写真で曲輪跡が住宅地、堀跡が水田になっている様子が確認できるのが、ある意味唯一の縄張り資料といえる。

主郭跡?と内堀跡
城跡は今ではほぼ住宅地と化しており、ハッキリとした遺構は見られない。昭和39年の航空写真では北側中央に小さな方形の曲輪跡が見え、恐らくこれが主郭跡で、本来の久保田氏の居館跡と思われる。画像奥がその主郭跡と思われる箇所の北西部で、手前の窪地は明らかに内堀跡である。うっかり写真に撮り忘れたが、内堀跡の窪地を挟んで西側に二の曲輪?と思われる曲輪跡が確認できる。


東の二の曲輪跡?と中堀跡
昭和39年の航空写真では主郭跡から南と東側に扇状に曲輪が展開しており、明らかに梯郭式の縄張りである。便宜上、主郭から堀を挟んで南西部を西の二の曲輪、同じく堀を挟んで東側を東の二の曲輪と呼称する。この東の二の曲輪の東端部に行くと、画像のような明確な段差があり、駐車場部分が中堀跡だというのが良くわかる。この駐車場を挟んで東側に市営団地があるが、前述の航空写真で確認する限りでは帯状の曲輪跡(便宜上、三の曲輪と呼称する)に立地している。


中堀跡
前述の駐車場になっている中堀跡よりも南側に移動すると、堀跡の一部が水路になっている部分が確認できる。地図と過去の航空写真を照らし合わせると、明らかにここも中堀の延長線上であり、水堀は埋め立てられたが部分的に水路になったと考えられる。


中堀跡
前述の水路は明確に過去の堀跡を通っており、画像はさらに南東側の部分で確認したものである。画像左が東二の曲輪跡、右が三の曲輪跡の南西端にあたる。ただ、この辺りは過去の航空写真では東の三の曲輪跡とは繋がっていないように見える為、馬出のような出丸だったのかもしれない。


外堀跡
前述の出丸のような曲輪の南側にも同様に水路があって、ここは南の外堀跡と一致する。城跡としてはここが南端部だと思われるが、現地を歩いた限りでは、ここから更に南側や東側に数十メートル移動した箇所に自然に出来た3mほどの落差の段丘崖があり、ここまでが城跡だったとも考えられる。