2021年4月30日金曜日

九州の西半分ついで旅:長崎奉行所西役所跡(長崎県長崎市)

2020年8月5日訪問。

4日の夜遅くに長崎入りし、翌日さっそく用事を済ませた後、長崎の地名の発祥地である岬の先端付近へと向かった。この先端付近はかつては長崎奉行所の西役所があった場所で、岬から降りた場所には大波止場があり、岬の先端の沖には歴史の教科書にも載っている出島があった。現在は海が埋め立てられてしまった為、事前知識が無いとさっぱりわからない状態である。

大波止場跡
"大波止"の地名が残る交差点の近くに波止場跡の石碑が立っており、そこに説明板もあった。説明板の絵図によればどうやら今の交差点の付近は船着き場だったようだ。


西役所から大波止場に降りる坂
石碑のある場所から丘の上に登る坂はかつては大波止場と西役所を繋ぐ坂で、当時の絵図を見る限りではかつては階段だったようだ。


当時の絵図
西役所跡の看板に当時の絵図が載っており、右下の波止場と階段の上にある役所の建物の様子がよくわかる。


西役所跡
訪れた時は西役所跡は発掘調査中で、周辺をフェンスで囲まれており内部の様子はわからなかった。なお、発掘調査前は長崎県庁の庁舎の一つがここにあったようで、江戸時代から引き続き役所地として利用されていた場所というのが興味深い。


石垣
周囲を散策した結果、現状からは西役所跡の遺構は確認不可能かと思ったが、岬の先端部にある石垣の下段部分は当時の石垣のように見える。絵図にも石垣が描かれているが、この写真の場所を描いた絵図は無いため、実際のところは何時の時代のものかわからない。

2021年4月5日月曜日

九州西半分ついで旅:名護屋城(佐賀県唐津市)

2020年8月4日訪城。

時間的にはやや厳しかったが、次に唐津市に来る機会があるかどうか微妙だったので、唐津市の半島北部にある名護屋城跡へと向かった。名護屋城は豊臣秀吉が「文禄慶長の役」の時に築いた城で、機能的には一時的に使用するための「陣城」なのであるが、その規模は巨大で大名の居城を凌駕している。

名護屋城博物館
時間に余裕は無かったが城跡に着いてまずは丘の上にある博物館へと向かった。名護屋城に関する展示はここの建物の2階にあり、比較的シンプルに纏まっていたので建物の外観の割には手ごろに見て回ることができた。


大手口
博物館を出た後は城の中心部へ向かうため大手口へと向かうが、さっそく石垣の大手門跡が出迎えてくれた。廃城後の取り壊しで石垣は大分崩れているが、それでも十分立派な遺構が残っていた。そして大手門跡を抜けた先にある真っ直ぐに伸びる長い坂道もなかなか圧巻だった。


三の丸表門跡
大手口から延びる坂道を登った先には三の丸の門跡があるが、ここは坂の上からU字に折り曲げられて城門跡があり、なかなかえぐい構造である。画像はニノ門跡のほう。


三の丸跡
三の丸跡はなかなかの広さがあるが、絵図を見る限りでは建物は少なく、馬場が隣にあることから何かの広場的な利用がされていたように思える。


本丸表門跡
三の丸から本丸に入る場所には表門跡があり、枡形部分は幅の広い階段になっているため、かなり大きな門があったことが想像できる。


本丸跡
丘の頂上の本丸跡は広々としており、見晴らしも良くて素晴らしかった。当時はここに秀吉の御殿があったようだが、これだけ見晴らしがいいと海風が強い時等は大変だったんじゃないだろうか。


天守台跡
本丸の海側の隅には天守台があり、ここには当時は5階建ての天守閣があり、ここから眼下の武将たちの陣屋や海の向こうを見ていたと思うと感慨深い。


天守台からの眺め
天守台からの眺めは絶景ではあったが、海側にはやや靄がかかっており、壱岐島などの沖の島々は見えなかった。


遊撃丸跡
天守台の真下には遊撃丸の曲輪が見えるが、こちらは夏場なこともあって草がけっこう茂っていた。時間の都合で結局こちらの曲輪とその先の二の丸跡までは足を延ばすことが出来なかった。


本丸北門跡
帰りは来た道ではなく本丸北門跡から出たが、表門跡と違ってこちらは狭く、このことから搦手口がこっちだとよくわかる。


上山里丸の虎口跡
本丸の搦手側から下山して降りた先は水手口で、いったんそこから車道に出た後に山里丸の外側を移動した。車道からは画像の上山里丸の虎口が見えるが、絵図と見比べると外から登って入る虎口ではなく、本来は上山里丸から帯曲輪に降りるための出入り口のようだ。


山里口
山里丸ちゃんとした正門跡はもうちょい先にあり、今でも画像のようにしっかりと石垣が残っていた。しかも道はS字状に連続で折り曲げられており、他の虎口と比べると厳重さが目立つ。山里丸には当時は秀吉の側室らの屋敷があったようなので、本丸の次くらいに重要な場所だったのだろう。


鯱鉾池跡(水堀跡)
山里丸の真下の方には名護屋城の堀の一つである鯱鉾池が残っており、夏草が茫々で今も水があるのか良くわからなかったが、その規模だけはちゃんと確認出来た。画像の正面奥は台所曲輪跡で、ちゃんと石垣で護岸された曲輪なのだがこちらも夏草に覆われて石垣が見辛い状態だった。