2018年3月4日日曜日

2月の連休旅行:若松城惣構ほか(福島県会津若松市、喜多方市)

2018年2月11-12日訪城。

連休初日は晴天に恵まれて大内宿や若松城で祭りを楽しむことが出来たが、連休中日と最終日は一日中吹雪で移動にも困る状態で満足に楽しむことは出来なかったが、それでも意地で傘を片手に若松城の惣構え等を巡った。

ホテルから眺める景色
前日とはうって変わって雪模様となり、午前9時頃だというのに空が暗い。今回泊まったホテルニューパレスは若松城の惣堀跡の上にあり、ホテルの目の前は大町口門跡である。


大町口門跡
ホテルの玄関前にはしっかり大町口の碑と説明板があり、この近くの青春通り案内板の地図にはしっかり堀跡も描かれていた。


野口英世青春広場(惣堀跡)
ホテルの前にある広場は画像の手前から奥に向かってが惣堀の跡で、奥にある野口英世像のある場所だけ高くなっているため、縄張り図に照らし合わせると惣構えの土塁跡だと思われる。つまり、惣堀は野口英世像の手前で画像左に折れる形になる。


桂林寺口門跡と惣堀跡
大町口跡から惣堀跡に沿って西に移動して桂林寺口門跡付近に向かったが、ここには説明板や史跡碑は見当たらなかった。画像の手前の道路あたりが門跡で、左が城内、右が城下町となる。奥に向かって斜めに伸びる小道が惣堀跡である。


諏訪神社
桂林寺口の西にある諏訪神社は江戸時代と全く同じ場所に今も鎮座しており、縄張り図を現代の地図に照らし合わせた時の良い目印になる。諏訪神社なので信濃国に関わりのある保科氏の時代に勧請されたのかと思いきや、意外なことに勧請されたのは芦名氏の時代だそうである。


諏訪神社の惣構えの土塁
神社の北側には惣構えの土塁が残っており、天寧寺土塁に次ぐ規模の遺構だが、こちらは諏訪神社の境内に含まれている為か天寧寺土塁とは違って史跡指定はされていない。


案内板
諏訪神社から南西の位置にある町が"本町"で、芦名氏の時代から城下町だった場所である。街中には画像のような案内板があるが、この中にしっかり惣堀跡や歴史スポットも描かれているので参考になる。


小舘跡(西黒川館跡)
本町にある小館稲荷神社は芦名氏がこの地にやってきた時に住んだ小館(西黒川館)の館内東側に祀っていた神社で、市街地化で小館の面影は無くなってしまったが、この神社だけが形を変えて今に残る。


融通寺口門跡
画像の建物は三角食堂という地図で見るとまさに△な場所にある建物で、ちょうどこの場所が融通寺口門跡になる。画像の手前が城内で左奥に進むとさきほどの城外の本町に出る。


河原町口門跡
融通寺口から南下すると河原町口門跡に至るが、ここは見事に桝形跡に沿って道路が鍵の字に折れている。これだけハッキリしているなら説明板くらいありそうなものだが、探しても見つからなかった。


秋月悌次郎の屋敷跡
河原町口門跡の近くには秋月悌次郎屋敷跡もあった。幕末の会津藩士で、戊辰戦争関連のドラマにも一応出てくる重要人物だが、八重や白虎隊や家老の西郷などが目立つお陰で知名度はいま一つと思われる。


花畑口門跡
河原町口から惣堀跡は住宅地、学校、市営団地を縫って伸び、画像の米代団地付近に花畑口門跡がある。堀のあった画像左側の道路が低く、城内の右の団地側が微妙に高くなっているため、内外の境界が判りやすい。


南町口門跡と惣堀と十八蔵橋跡
花畑口から東へ行くとやがて南町口門跡にたどり着くが、ここには浅くなって水は張っていないものの惣堀がハッキリ残っている。また、堀に架けられていた十八蔵橋の現代風の欄干があるが、現在は橋と呼べるものは無い。


修繕中の廊下橋
風雪と戦いながら惣構え散策をした後は日が沈む前に本丸へも立ち寄ったが、前夜までやっていた絵ろうそく祭りの燭台などが全て片付けられており、まるで何事も無かったかのようになっていたのには驚いた。なお、修繕中の廊下橋を確認しようとしたところ二の丸がほとんど立ち入り禁止だったので、遠目に確認したのがこの画像。


喜多方駅前
余談になるが、連休最終日は中日の風雪がまだ可愛いくらいの吹雪となり、行く場所が無いわ、交通機関が止まるわで酷い目にあった。画像はせめて喜多方ラーメンでも食べてから帰るかと思って喜多方まで行った時の光景である。幸いなことにラーメン屋は営業していたため、膝まで雪で埋まる中をラッセルして食べてきた。