2020年9月28日月曜日

郡山市街と湖南地方への旅:横沢館(福島県郡山市)

 2019年12月15日訪城。

浜路の集落から南下すると横沢の集落があるが、そこはかつての横沢の城下町で、その横沢の先にある舘集落が文字通り城館のあった場所になる。館主は安積伊東氏の一門の横沢氏で、伊東祐行がこの地に移り住んだのが始まりで、後に会津の蘆名氏の傘下に入る。だが、伊達政宗の会津侵攻時に伊達氏に降った為、最終的に横沢彦三郎はこの地を離れて仙台へと移った。


横沢集落(左)と舘集落(右)
浜路浜より南には水田地帯が広がっており、山に接する位置に島のように集落がある。画像はやや見づらいが横沢集落と舘集落を湖岸側から見た風景。館集落と水田の間の落差はせいぜい2~3mほどで横沢館は平地に土塁と堀だけで曲輪を造っていたのだろう。


城址碑
集落の内部には城跡の面影がほとんど無かったが、唯一城址碑のある神社と公園のある場所にだけは遺構が残されていた。城址碑は岩邊城と書かれていたが、脇に岩辺地城の補足書きがあり、下には横沢城とも書かれていた。


土塁と城鎮稲荷神社
位置的には主郭跡の北東隅付近で、この場所に土塁がL字型に残っている。神社は城址碑の記述によれば伊東氏が伏見から勧請した城鎮稲荷神社のようだ。主郭北東隅という位置から考えて明らかに鬼門封じのために祀ったものだろう。


館集落の西端
城址碑の記述によれば西側には小倉宮が置かれたようだがこちらは見つけられなかった。どこか別の場所に移されたか合祀されたのだろう。


神明社?
横沢館は長方形の主郭とその東にあった東館の2つの曲輪から構成されており、城址碑に寄れば東館には観音堂があったという。現状は観音堂らしきものは残っておらず、画像の神明社と思われる小さな社があるくらいだった。

2020年9月18日金曜日

郡山市街と湖南地方への旅:浜路浜(福島県郡山市)

 2019年12月15日訪問。

郡山市街に一泊した翌朝、今回の旅の目的地である湖南地方へと向かった。市街地から磐梯熱海経由で湖南地方へと向かったが、今でこそ湖畔沿いに車道があるものの、明治時代以前はここに道は無く、安積盆地からは峠を越えないと湖南地方に行くことは出来なかった。

湖南地方へ向かって最初に立ち寄ったのが「浜路浜」で湖南七浜の一つであり、江戸時代以前は安積盆地から御霊櫃峠を越えて会津へと向かう時に船に乗り換えた浜路湊があった場所である。中世の安積伊東氏が蘆名氏の傘下にあった時、会津の蘆名氏の元へ向かう伊東氏がよくこの湊を利用していた。


エゾノキ
浜路浜には郡山市指定の天然記念物であるエゾノキがあり、画像の木は樹齢400年以上の古木である。伝承によれば会津方向から湖を渡ってくる船はこの木を目印にしていたという。


エゾノキ群
樹齢400年以上の木は先の1本だけだが、周囲には樹齢200年未満のエゾノキが7本ほど存在しており、これらも併せて天然記念物に指定されている。


湖岸
湊と言っても恐らく桟橋があるタイプではなく、時代考証的に砂浜もしくは小石の浜に平船を直接打ち上げるタイプの湊だったのだろう。現状、エゾノキがある辺りの湖岸は護岸されてテトラポットが並んでおり、湊の面影は全くないが、ここよりも北側には前述のような小石の浜が見られる。


大山祇神社
エゾノキのある辺りに小さな神社が祀られていたが、由緒などは不明である。「大山祇神社」の額が飾られていたので、水上交通と山の安全を願って勧請されたものだろうか。なお、会津の大山祇神社は総本社の瀬戸内大三島にある大山祇神社ではなく、相模国の三嶋神社から分祀されたものらしい。なので案外この神社も伊豆国出身の安積伊東氏に関連するものかもしれない。