2019年12月15日訪城。
浜路の集落から南下すると横沢の集落があるが、そこはかつての横沢の城下町で、その横沢の先にある舘集落が文字通り城館のあった場所になる。館主は安積伊東氏の一門の横沢氏で、伊東祐行がこの地に移り住んだのが始まりで、後に会津の蘆名氏の傘下に入る。だが、伊達政宗の会津侵攻時に伊達氏に降った為、最終的に横沢彦三郎はこの地を離れて仙台へと移った。
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横沢集落(左)と舘集落(右)
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浜路浜より南には水田地帯が広がっており、山に接する位置に島のように集落がある。画像はやや見づらいが横沢集落と舘集落を湖岸側から見た風景。館集落と水田の間の落差はせいぜい2~3mほどで横沢館は平地に土塁と堀だけで曲輪を造っていたのだろう。
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城址碑
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集落の内部には城跡の面影がほとんど無かったが、唯一城址碑のある神社と公園のある場所にだけは遺構が残されていた。城址碑は岩邊城と書かれていたが、脇に岩辺地城の補足書きがあり、下には横沢城とも書かれていた。
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土塁と城鎮稲荷神社
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位置的には主郭跡の北東隅付近で、この場所に土塁がL字型に残っている。神社は城址碑の記述によれば伊東氏が伏見から勧請した城鎮稲荷神社のようだ。主郭北東隅という位置から考えて明らかに鬼門封じのために祀ったものだろう。
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館集落の西端
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城址碑の記述によれば西側には小倉宮が置かれたようだがこちらは見つけられなかった。どこか別の場所に移されたか合祀されたのだろう。
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神明社?
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横沢館は長方形の主郭とその東にあった東館の2つの曲輪から構成されており、城址碑に寄れば東館には観音堂があったという。現状は観音堂らしきものは残っておらず、画像の神明社と思われる小さな社があるくらいだった。