8月11日は新しい祝日「山の日」ということで、比較的近場にある本格的な山城の津久井城へと登ってきた。城跡は予想以上に見事な要害だったが、同時に危険個所も多く心身ともに疲れた。
津久井城は中世に三浦氏の一族の津久井氏が築いた城で、後に北条氏の城となって家臣の内藤氏が城主となった。武田信玄の北条攻めにも耐えた堅城だが、豊臣秀吉の「小田原の役」では徳川軍の攻撃を受けて陥落した。
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本丸の腰郭(米曲輪)にある虎口跡 |
根小屋地区に立ち寄ってから御屋敷跡を経由して、直登はせず山腹を時計回りするルートで本丸へと向かった。本当のところは大手道を使いたかったのだが、危険につき通行禁止の看板があったため、このようなルートになった(山腹を横切るルートも十分危険だったが…)
画像は大手道の山頂側にある虎口跡で、ここにも同様に通行禁止の看板がある。
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山頂の本丸 |
画像の通り山頂にはハッキリ土塁が残っており、その一角に内藤氏家臣の末裔の島崎氏が建てた津久井城について記した石碑があった。
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本丸からの景色 |
絶景ではないが展望箇所がいくつかあり、ダム湖や山麓の街を眼下に見渡すことができた。ちなみによくある展望台のようなものは無い。
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堀切 |
城跡の遺構で最も圧倒されたのが竪堀と堀切で、画像は最も本丸側にある堀切。堀底に土橋が見えるが、当時は堀に橋を架けていたという。岩を削って造られているため、土の堀切よりも迫力がある。
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飯縄神社 |
山頂には守り神が廃城後も残っていたりするが、本丸周辺には祠すら見当たらなかったので不思議に思ってると、本丸とは別のピークに飯縄神社を見つけた。この神社の周りも腰郭や土塁を備えた郭群になっており、城を守る東側の拠点といった感じだった。それにしても、飯縄神社は武田が信奉していた神社で、北条との関わりは記録に無いため、城主の内藤氏はもしかすると甲斐内藤氏と関わりがあったのだろうか?
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宝が池 |
山城に大切なものと言えばまず「水の手」で、本丸方面には井戸があったらしいが場所がよく解らなかった。その点、飯縄曲輪の水の手はハッキリしており、「宝が池」と呼ばれて今でもしっかり水を貯えていた。
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鷹射場からの下山ルート道中 |
飯縄曲輪から鷹射場の間にある堀切も圧巻だったが、鷹射場まで来ると明確な遺構らしきものは見当たらなくなった。鷹射場からそのまま両側が急崖の道を進んで鎖場じゃない方から下山したが、このルートはほぼ下に落ちる道で正直なところ飯縄曲輪に引き返した方がマシだった。この後、危険個所だらけの山中の道を彷徨って根小屋まで戻ってきたが、危うく日没してしまうところだった。画像は"下に向かって落ちている"途中で一瞬驚いた箇所。道が無くなったのかと焦ったが、正しい道は画面外左側にあり、間違った方向に降りないようにさせるための看板だった。