2016年8月28日日曜日

小山城 (静岡県吉田町)

2016年7月31日訪城

小山城南麓にあるでかい城址碑
7月に藤枝市での所用ついでに隣の吉田町に向かい小山城へ行ってきた。城は吉田町の平野に突き出た舌状台地の先端にあり、画像の奥に見えるように模擬天守閣が建っているため実に解りやすかった。

小山城は武田氏が今川氏の砦を利用して1571年頃に築いた城で、家臣の大熊朝秀が城主として置かれた。武田軍の高天神城攻めの拠点となったが、長篠の戦い以降は徳川軍の攻撃にさらされるようになり、1582年に落城した。


能満寺のソテツ
城の南側から案内に沿って行くと能満寺の境内に入ってしまうが、城址には境内を通って奥の階段と坂から登れるようになっていた。もっとも、この場所も城址の搦手の郭があった場所なので既に城内と言える。なお、寺の本殿前には日本最大級の天然記念物のソテツがあり、まるでヤマタノオロチのような外観には驚かされた。


本丸跡
能満寺から台地に登った場所が本丸で、舌状台地の先端部となる。城の中枢の建物がここにあったはずだが、今はのんびりした広場である。周りにあるのは桜の木みたいなので花見の時期は賑わいそうな感じだ。


三日月堀と丸馬出
本丸と唯一陸続きの西側は堀切で切られており、その外側には丸馬出と三日月堀があって、まさに武田氏の城というのがよくわかる。


三重堀の一つ
ただ、遺構として最も圧倒されたのは三の丸の三重堀で、草木のために写真だと分かり辛いが、かなり大規模な堀である。先に本丸の堀を見て、「この城の堀はこのくらいか」と思っていただけに、これには圧倒された。


模擬天守閣の石垣のユリ
最初の画像に写っていた模擬天守閣は二の丸跡の南側に建っており、内部はよくある歴史資料館となっている。画像のユリは模擬天守閣の石垣に咲いていた逞しい個体で、この日は城内至る所でユリの花が咲いていた。


模擬天守閣からの景色
 模擬天守閣の最上階からは吉田町が一望でき絶景であったが、何よりも城内の三日月堀等がよく見えるのが素晴らしかった。なお、ここから富士山も見えるそうだが、靄のせいか確認できなかった。

余談になるが、城の南麓に八木秀という鰻のお店があり、ちょうど土用丑の日だから寄って行こうかと思ったら、12時前の時点で既に店の外に20~30人が待っている状態で、さすがに待つ余裕がなかったため諦めた。なお、能満寺公園駐車場付近で鰻の弁当を販売していたため、これを買って食べたが、想像していたよりも美味しかった。さすがは鰻が名物の吉田町である。

2016年8月12日金曜日

津久井城 (神奈川県相模原市)

8月11日は新しい祝日「山の日」ということで、比較的近場にある本格的な山城の津久井城へと登ってきた。城跡は予想以上に見事な要害だったが、同時に危険個所も多く心身ともに疲れた。

津久井城は中世に三浦氏の一族の津久井氏が築いた城で、後に北条氏の城となって家臣の内藤氏が城主となった。武田信玄の北条攻めにも耐えた堅城だが、豊臣秀吉の「小田原の役」では徳川軍の攻撃を受けて陥落した。

本丸の腰郭(米曲輪)にある虎口跡
根小屋地区に立ち寄ってから御屋敷跡を経由して、直登はせず山腹を時計回りするルートで本丸へと向かった。本当のところは大手道を使いたかったのだが、危険につき通行禁止の看板があったため、このようなルートになった(山腹を横切るルートも十分危険だったが…)
画像は大手道の山頂側にある虎口跡で、ここにも同様に通行禁止の看板がある。


山頂の本丸
画像の通り山頂にはハッキリ土塁が残っており、その一角に内藤氏家臣の末裔の島崎氏が建てた津久井城について記した石碑があった。


本丸からの景色
絶景ではないが展望箇所がいくつかあり、ダム湖や山麓の街を眼下に見渡すことができた。ちなみによくある展望台のようなものは無い。

堀切
城跡の遺構で最も圧倒されたのが竪堀と堀切で、画像は最も本丸側にある堀切。堀底に土橋が見えるが、当時は堀に橋を架けていたという。岩を削って造られているため、土の堀切よりも迫力がある。

飯縄神社
山頂には守り神が廃城後も残っていたりするが、本丸周辺には祠すら見当たらなかったので不思議に思ってると、本丸とは別のピークに飯縄神社を見つけた。この神社の周りも腰郭や土塁を備えた郭群になっており、城を守る東側の拠点といった感じだった。それにしても、飯縄神社は武田が信奉していた神社で、北条との関わりは記録に無いため、城主の内藤氏はもしかすると甲斐内藤氏と関わりがあったのだろうか?

宝が池
山城に大切なものと言えばまず「水の手」で、本丸方面には井戸があったらしいが場所がよく解らなかった。その点、飯縄曲輪の水の手はハッキリしており、「宝が池」と呼ばれて今でもしっかり水を貯えていた。

鷹射場からの下山ルート道中
飯縄曲輪から鷹射場の間にある堀切も圧巻だったが、鷹射場まで来ると明確な遺構らしきものは見当たらなくなった。鷹射場からそのまま両側が急崖の道を進んで鎖場じゃない方から下山したが、このルートはほぼ下に落ちる道で正直なところ飯縄曲輪に引き返した方がマシだった。この後、危険個所だらけの山中の道を彷徨って根小屋まで戻ってきたが、危うく日没してしまうところだった。画像は"下に向かって落ちている"途中で一瞬驚いた箇所。道が無くなったのかと焦ったが、正しい道は画面外左側にあり、間違った方向に降りないようにさせるための看板だった。

2016年8月1日月曜日

河村城 (神奈川県山北町)

2016年7月30日訪城

河村城本丸
土曜日の午後に時間が出来たため、まだ行ったことのない河村城を訪れた。城のある山へは山北駅から最短で登れるルートから登ったが、藪蚊に追い回される羽目になった上に、草が茫々だったため行くなら夏場は避けた方がいいかもしれない。

歴史的には波多野氏一族の河村氏が築いた城で、南北朝時代には籠城戦も行われているが、城の特徴的には室町時代にここを収めた北条氏の特徴がよく出ていた。


復元された木橋
城はとにかく堀切が沢山あり、堀底に畝があってまさに北条流の縄張りだった。本丸と蔵郭の間の堀切では橋の橋脚跡が発掘されており、今はそこに木橋が復元されていた。説明板によると手摺は神奈川県産の木材を使っているそうだが、当時の戦闘用の橋には手摺は無いだろうというのは無粋な話だろう。


蔵郭~近藤郭間の堀切
蔵郭の木橋の架かる堀切とは逆側にある堀切は城内最大の堀切で、建物の2階よりもさらに高く感じる深さがある。ここも当然畝のある堀切で、草に覆われているが茶臼郭の堀切よりもここの方が解りやすい。奥に見えるのは堀を渡る通路で、現代製土橋のようなものである。


大庭郭
蔵郭、近藤郭からさらに東にあるのが城内最大の広さの大庭廓で、視界が開けている上に歩道が整備されているのでかなり歩きやすい。ちなみにこの先に大手口があるが、残念ながら藪に覆われていた。


大庭郭からの景色
本丸からも小田原方面がよく見える場所があったが、大庭郭からの方が視界が広く絶景であった。ただ、本丸と違って日影が無いため、夏場の炎天下では辛いものもあった。


北郭張出から見る富士山
本丸から西に行くと馬出郭や西郭、北郭があるが、こちらは蔵郭や大庭郭と違って森の中に入る形になる。一番端の北郭張出まで行くと富士山ビューポイントがあると聞いて向かったが、その結果が画像の通りである。手前の山の背後にかすかに見えているのがおわかりいただけるだろうか…?