2018年10月20日土曜日

9月の3連休の旅:盛岡城(岩手県盛岡市)

2018年9月22日訪城。

9月末の3連休は旧南部領へと出かけ、初日はまず盛岡へと立ち寄った。盛岡は南部藩の藩庁である盛岡城があり、もちろん目的地はそこである。盛岡城には何度も来ているが、最近は来ていなかったから久方ぶりである。

桜山神社参道
県庁前から下曲輪跡へと入る道は現在は桜山神社の参道になっており、画像の奥に見える二個目の鳥居の位置にはかつては城の大手門である綱御門が建っていた。現在は綱御門の枡形も無くなって全く門があった形跡が無く、下曲輪跡は門前町のように商店が連なっている。


旧日影門外時鍾
前回盛岡城を訪れた時は時鍾のある場所が修繕中で見る形も無かったが、今は旧下曲輪土塁の上に建つ時鍾が綺麗に修復されていた。なお、この時鍾は江戸時代には外曲輪の日影門の外の土塁の上にあった。


御田屋清水
下曲輪から水堀の亀ヶ池を挟んで西には御新丸があったが、そこで茶会などに使用されていた御田屋清水が今も現存している。周囲は開発で完全に市街地になってしまった為、交差点の脇にこじんまりとした公園のように残っているのはなかなか異彩を放っている。


御新丸から内曲輪へ入る土橋の跡
御田屋清水の目の前には御新丸から内曲輪に入る土橋がかつてあったが、そこは今は車道になっている。画像がその場所で、右側画面外には今も水堀の亀ヶ池が残っている。なお、画像の左側の産業会館が建っている場所はかつては船で北上川へと出る場所の御舟入があった。


北上古川跡
御舟入からは北上古川という北上川旧路を水堀にした場所に出てそこから北上川に出る水路があったが、残念ながらそれらは全て埋め立てられてしまっている。ただ、今でも堀跡は城内よりも低くなっており、画像の不自然な道も水堀の縁の跡である。


周辺図
なお、御田屋清水や御舟入跡などの位置関係は画像の通りである。画像右の水色の部分が北上古川跡。


坂下門跡
北上古川にはかつて筋違い橋が架けられており、橋を渡った先にあったのが坂下門である。坂下門の名前は吹上坂の下あったことからで、画像の今は歩道になっている場所にあった。


御彦蔵跡
車道を挟んで逆の歩道沿いには御彦蔵跡の石碑があるが、この御彦蔵は今も現存しており、車道工事で取り壊されそうになった為、ここから移築したとのこと。


現在の御彦蔵
御彦蔵は参勤交代の道具を保管していた蔵で、今はかつて城内の米蔵があったあたりに移築されている。なお、盛岡城の建物としては唯一現存しているのがこの御彦蔵である。


御台所曲輪
この日は御台所曲輪は石垣フェスの準備で立ち入り禁止になっており、城内にも至る所にフェスの施設らしきものが立てられていた。なお、石垣フェスは10年くらい前からやっている音楽イベントらしい。


二ホンミツバチの木
三の丸には何やら柵で囲まれた木が1本だけあったが、どうやらここには二ホンミツバチが住んでいるらしく、近寄らないようお願いした看板が立てられていた。普段道端でよくみるミツバチはセイヨウミツバチなので、二ホンミツバチはめったに見ることは無い。


瓦御門跡の石垣は修繕中
盛岡城では現在三の丸の瓦御門付近の石垣を修繕中で、工事にあたって発掘調査したと見られる箇所が見られた。

2018年10月8日月曜日

9月の福井への旅:大垣城(岐阜県大垣市)

2018年9月10日訪城。

結局、福井にいる間はずっと雨空だった為、消化不良のまま帰途についた。途中で昼食をとるために美濃の大垣に立ち寄って、ついでに大垣城にも立ち寄ったが、ここでもやはり雨に悩まされることになった。

艮隅櫓と模擬城門
大垣城に来るのは2回目で以前来た時はかなり昔でデジカメがまだ無かった頃だった。それでも本丸の東側のこの光景は全く変わっていないように見える。以前来た時はあまり大垣城について知らない頃だったので特に気にしなかったが、手前の道は本来は水堀だった場所で、当然この位置に昔は城門は無かった。右側の艮隅櫓は外観だけは当時を再現したらしいので、それ以外はフェイクということになる。


乾隅櫓
本丸の外側をぐるりと回ると北西部に乾隅櫓があり、これも外観だけは当時に合わせて再現したそうである。なお、画像の左下には本丸から船でちょくせつ堀に降りるための水手門跡がある。


模擬城門
本丸の西側に回り込むとここにも模擬の城門があるが、東側の模擬城門とはデザインが異なる。冷静に見るとツッコミどころ満載で面白い。


鉄門跡
本来の本丸の城門は二の丸から本丸に入る場所にである本丸南側にあり、今はその跡には何もなく鉄門跡の立て札が立てられているのみである。


大垣城下図
絵図の中央にあるのが本丸で本来は周囲が水堀に囲まれた島のような場所だったことが判る。その周囲にも多重に水堀が巡っており、当時の大垣は水の都だった。


天守閣
本丸は二重構造になっており、内側の上段の北西隅に天守閣が建っている。戦前までは現存しており、戦災で焼失するまでは国宝だった。現在建っているのは外観だけ復元された鉄筋コンクリート天守閣だが、昔は来た時は外観が酷くてガッカリした記憶がある。なんせ見た目が田舎でよく見かける城郭風民家と同じだったからだ。今回は印象ががらりと変わっていたが、どうやら平成22年頃に外観を修正したらしい。


天守閣から西側を望む
天守閣からの眺めは平地にある為に絶景とまではいかなかったが、それでもなかなか良かった。なお、画像の眼下に見える公園の広場は当時は水堀だった。


天守閣から北側を望む
北側から見ると民家と雑居ビルに埋め尽くされているが、ここも当時は真下には水堀が広がっていた。それにしても、天守閣からは全く水の都の面影が見えないのが逆に凄い。


二の丸跡(護国神社)
本丸の南側に隣接してあった二の丸は今はどうなっているかと思ったら護国神社と大垣公園になっていた。二の丸も周囲を水堀で囲まれていたはずだが、本丸と違ってこちらは郭と水堀の境界が全く分からない状態だった。


惣堀跡
大垣城で唯一水堀の名残があるのが惣堀跡で、ほぼ当時と同じ惣堀の位置が今は水路となっている。

2018年10月6日土曜日

9月の福井への旅:大野城-後編-(福井県大野市)

2018年9月9日訪城。

前編からの続き。城の麓の散策を終えていよいよ本丸のある亀山へと登る。


亀山登り口にある模擬門
今の亀山には山頂まで舗装道が付いているが、実際に車で登れるわけではないので、観光客は麓に車を置いて登ることになる。そのちょうど登り口にあるのがこの模擬門で、説明は書かれていなかったが、真乗寺に移築された大野城の城門を参考に造ったと思われる。


百間坂の頂上
舗装道は途中から百間坂に行く道に分岐しており、百間坂は九十九折の階段を登る道になっていた。本来はこの百間坂だけが本丸に登る唯一の道で、舗装道は後から山を削って造られた道である。百間坂を登ると画像の場所に着き、再び舗装道と合流する。


本丸表口
麻木櫓があったとされる北の出丸を背にすると、ここがいよいよ本丸の表口で、今に残る石垣がなんとも城らしい光景を醸し出している。ちなみに右奥に見える石垣の上には金森長近の像が立っていた。


本丸と天守閣
本丸は南北に伸びた三角形のようになっており、中央に大きな天守台があってその上に内部が資料館となっている模擬天守閣が建っている。当時の天守閣は独特な造りをしており、二階建てで二階部分にテラスがあるような寺社建築に近い感じだったので、今の他の城を参考にして造った外観とは異なっていた。


天守から城下町を望む
模擬天守の最上階からは城下が良く見え、亀山がほぼ独立丘陵に近いために360度がよく見渡せた。天候が悪い為、低い雨雲がかかっているのが残念だったが、それでも絶景であった。なお、画像の真下に見えるのが二の丸、三の丸跡。奥に広がるのが城下町。


お福池
天守閣から裏側に降りるとちょうどそこには城の生命線である水の手があり、「お福池」と呼ばれていた。ちなみにお福というのは金森長近の正室(奥さん)の名前らしい。


本丸裏口
お福池から武具櫓跡の脇を通って城の南に抜ける場所には城門が設けてあり、これも後から造られた模擬門だが、当時の絵図ではここに棟門が描かれており、大野城の中では最も当時に近い風景かもしれない。


南の出丸の堀切
南にどんどん降りていくとやがて最も南にある出丸にたどり着くが、ちょうどこの場所には堀切が設けてあった。山の形から考えると、北側にも堀切がありそうだったが、残念ながら時間が無かったので確認していない。