2018年9月23日訪城。
三戸城を散策後、馬淵川沿いに北上して馬場館跡へと向かった。馬場館は三戸五ヶ城の一つで、聖寿寺館が南部氏の居城だった頃に家臣の御宝蔵奉行の馬場吉武が館主を務めていた。
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地獄沢土橋跡 |
三戸の街から馬場館のある段丘の上に登る道は山と川の間の狭い道で、これでも江戸時代の奥州街道であるが、実は馬場館が現役の頃は奥州街道はここを通って居なかった。馬場館にとってはここが搦手口であり、画像では判り辛いが沢の上に道を通している。地獄沢という名前が付いているのだから難所だったのだろう。(※名称は坂の下にあった処刑場からきている説もある)
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稲荷神社 |
ちょうど搦手口を見下ろす絶好の位置に稲荷神社が祀られているが、今はもう氏子が居ないのか朽ち果ててしまっている。
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馬場の郷 |
段丘の上は山裾の広い台地になっており、大部分が果樹園や畑となって残りは住宅地となっている。中央あたりに馬場の郷という集会所があり、ここのT字路を西側に曲がった場所に馬場館の標柱がある。
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馬場館跡 |
当初はこの標柱のある民家のあたりが館跡だと思っていたが、台地全体が城の縄張りであるという。たぶん屋敷は今の民家のあるあたりにあって、残りは文字通り「馬場」や「的場」として使用していたのだろう。
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本三戸八幡宮 |
馬場館跡の東端部には南部氏の守護神である本三戸八幡宮が祀られているが、八幡宮のある場所と馬場館跡の標柱のある台地の間は土取りで消滅してしまい、今は飛び地の独立丘陵みたいになってしまっている。
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古町 |
馬場館の丘の北側の麓は「古町」と呼ばれているが、聖寿寺館や馬場館が現役の頃はここが三戸城の城下町だった。聖寿寺館が放火で焼失した後、現在の三戸城へ移転したため、城下町も現在の三戸の町へと移転したのである。ちなみに画像の「古町」の標柱の背後に見える丘が馬場館で、ちょうど丘への登り口に大手口(天神坂口)があるのだが、どうみても民家を通らないといけないため確認していない。