2018年12月9日日曜日

9月の3連休の旅:岩谷観音堂と九戸城の外堀(岩手県二戸市)

2018年9月24日訪城。

この日、八戸を後にした次は二戸へと向かった。ややこしいようだが九戸城がある二戸市である。

馬淵川と大崩崖
二戸市の九戸城がある一帯は川と険しい山で隔離された段丘の上にあり、この地域自体が天然の要害になっているため、豊臣軍6万の軍勢でも容易に攻めれなかったのはよく判る。画像の馬淵川は九戸城の西側の外堀でもあった。


白鳥川
城の北側は白鳥川が流れており、ここは渓谷になっていて城側は断崖なため取りつくのも難しい。

岩谷観音堂
この断崖の箇所に岩谷観音堂という名刹があり、以前来た時は見ていなかったので立ち寄ったものの、どうも写真で見たのと景色が違っており少々困惑した。


破損した岩谷観音堂
岩谷観音堂をよく観察してみると鉄製の橋の手すりが明らかに不自然に凹んでおり、状況から見て観音堂の上部の方の岩盤が崩落して破損したようだ。

2018年12月4日火曜日

9月の3連休の旅:八戸城(青森県八戸市)

2018年9月24日訪城。

八戸で一泊した翌日の連休最終日は朝はとりあえず八戸城へと出かけた。根城の方ではなく、八戸藩の藩庁だった城の方である。

八戸城址碑
八戸城の本丸跡である三八城公園は以前来た時と特に代わり映えはしていなかったが、変わっていたのは公園の近くにあった民家が駐車場になっていたくらいだろうか。


発掘現場
八戸市庁舎前では発掘調査が行われていたが、ここはちょうど二の丸堀よりも外側にあたるため城下町側である。パッと見では柱穴のようなものが見えるが、何の跡なのかは素人には分からない。


駅前の道路の付け替え
本八戸駅に降りていく道路は新しく東側に造る車道に付け替えるようで、計画の絵図が本八戸駅前の商店街に飾られていた。


新道路予定地
現場と見比べてみるとここから右の奥の方に新しい道が出来るようだ。しかし、現状だとまだ道を通せる状態じゃないので、右に見える龗神社の敷地を削るのだろうか?ちなみに今ある左の車道は八戸城本丸の内堀だった場所である。


新道路予定地
先の新道はこの場所に出てくるようで、そのまま直進して高架の手前の車道と繋がるようだ。なお、本八戸駅は左の画面外にある。


八戸城角御殿表門
ちなみに八戸城の一番の見所は現存する角御殿の表門で、棟門らしいが明らかに普通の棟門と構造が違う。

2018年12月2日日曜日

9月の3連休の旅:平良ヶ崎城(青森県南部町)

2018年9月23日訪城。

聖寿寺館から東へ少し行った場所にある山から南に伸びた舌状丘陵の先に平良ヶ崎城があり、これも南部氏のある意味居城であるため南部五ヶ城に数えられている。聖寿寺館は南部氏が普段住んでいる屋敷で、一方の平良ヶ崎城は領内の政治を行う役所であった。要するに今で言う家と仕事場の関係である。

堀切跡
聖寿寺館方面から来るとそのまま平良ヶ崎城の堀切跡に造られた車道に入るが、この車道はまだ未完成なのか丘の向こう側に行くと砂利道になる。平良ヶ崎城には昔まだデジカメが無い頃に一度訪れており、その時も堀切に道があったがこれほど広くはなかった。たぶん北曲輪側がかなり削り取られたと思われる。


北曲輪
北曲輪(北古舘)は現在は畑になっており、背後の山との境界は曖昧な状態である。


北曲輪から見た南曲輪
北曲輪側が高いため、そこから南曲輪(南古舘)をのぞいてみたがどうやら今は草が生える荒れ地のようだ。昔来た時にはここには学校が建っており、校庭の前に平良ヶ崎城の説明板があった。現在は立ち入り禁止になっているため、内部の詳細は判らないが、聖寿寺館のように発掘して整備する予定なのだろうか。


佐藤館跡の堀
聖寿寺館から平良ヶ崎城に来る途中の段丘端に佐藤館がある。聖寿寺館と同じく堀で段丘に曲輪を形成しているが、今は民家があるため内部は詳しく確認は出来なかった。平良ヶ崎側から見ると確かに段丘に切れ目が入っており、遺構図のように堀があることだけは確認出来る。

2018年12月1日土曜日

9月の3連休の旅:聖寿寺館(青森県南部町)

2018年9月23日訪城。

馬場館から奥州街道に沿って北に移動した先にあるのが聖寿寺館で、南部晴政の代まで長らく三戸南部氏の居城だった城である。

内堀東部(奥州街道)
奥州街道は聖寿寺館の内堀を通っており、この部分は堀底道として利用されていたことがわかる。


内堀北部
城跡は内堀の跡がよく残されており、台地上の内堀北部も画像のように畑などに利用されて残っていた。なお、画像の右側が主郭で白いものは城址の標柱。


鍛冶建物や納屋跡
過去に一度来た時は城跡は果樹園と民家だった記憶があるが、今回来てみたら城跡の建物跡が平面復元されていた。画像の建物跡は鍛冶を行っていた痕跡が発掘された鍛冶施設と納屋の跡だという。まだ、整備途中のようだが将来的には史跡公園になるんだろうか。


発掘現場
訪れたこの日もちょうど発掘調査が行われている真っただ中で、人の姿は見当たらなかったが、ロープが張られて立ち入りが制限されていた。


内堀北西部
発掘現場は立ち入り禁止なため、内堀を通って北西部に移動したが、この部分は車道等になっていない為、内堀の中では最も昔の状態を留めている箇所かもしれない。


館神
主郭北西隅には館神が祀られており、城にはほぼ必ずある祭祀や守護を兼ねた施設である。城が移転したり廃城になっても大抵祠等になって残るため、ある意味城の生き証人でもある。


井戸跡
主郭北西部は既にある程度整備したようで、井戸跡などが表示されていた。ここは穴のままだと安全上まずいと思ったのか、井戸跡の中は白い石で埋め尽くされていた。


史跡聖寿寺館跡案内所
聖寿寺館跡から少し三光寺側に移動した場所には新しく聖寿寺館の案内所が建てられていたが、内部はちょっとした歴史説明や発掘遺物の資料館にもなっていた。中では2~3組の観光客と地元民っぽい人々が訪れて閲覧しており、聖寿寺館跡が予想よりも興味を持たれていることが判ったのが意外だった。