2019年3月24日訪城。
泉の館跡の散策後は平安時代の役所跡である泉官衙遺跡を見て回ったが、埋蔵遺跡のため看板以外に見所が無かった為割愛。そして、野馬土手跡散策に戻って桜井遺跡よりも西の方を見て回ったが、こちらも目ぼしいものを見つけられなかったので割愛。
野馬土手跡北部を西に沿って南相馬市役所付近まで移動した後、せっかくなので泉館の城主の泉政胤が普請に参加していた牛越城にも立ち寄った。牛越城は元は相馬氏家臣の牛越氏の居城で、牛越定綱が謀反を起こして相馬氏に討伐された後に相馬氏の城となった。そして、村上城の築城を中止した後に相馬氏は居城を牛越城に移して、城を改築したがこの時に先の泉館で述べたように泉氏が不満をぶちまけて出奔したのだった。しかも、関ケ原の合戦時の立ち回りにより西軍派とみなされて御家取り潰しになった報告が届いたのも牛越城で打ち上げ中のことであった。牛越城は不吉すぎるとして廃城となったのも頷けるほどである。
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出城? |
牛越城は現在牛越浄水場の施設の北にある山の上に築かれており、谷戸地形の内側の車道から城跡まで道が付いている。この谷戸地形の南側も牛越城の出城らしいが、切り立った斜面で登れそうな感じもしなかったので確認していない。
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谷戸地形 |
谷戸地形の内側は三方を囲まれている為、平時の武士の居館が大抵はここに置かれるが、牛越城の説明では全く言及していなかったので、谷戸地形の内側が昔はどうなっていたのかは謎である。
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妙見館跡 |
谷戸の奥から北側の丘陵に取り付ける為、牛越城の一番西にある妙見館という出丸を目指したが、内部は竹に侵食されて酷い有様だった。名前から見て相馬氏の守護神である妙見を祀る社があった場所なのだろう。後の相馬氏の居城の中村城で例えるなら相馬中村神社がある場所の曲輪に相当する。
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堀切 |
妙見館から尾根に沿って東に移動すると大きな堀切で丘が分断されており、この堀切は「千人沢」と縄張り図に記述があった。人夫千人で掘ったという意味だろうか。
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土塁 |
堀切の内側には土塁も築かれており、現在この堀切と土塁を貫通して車道が丘の上まで伸びている。土塁の内側は帯曲輪跡であり、この曲輪は東に長く伸びていた。
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本丸跡 |
車道を登った先はいよいよ本丸跡になるが、ここは今は水道局の施設になっており、立ち入り禁止の為、ほぼ散策不可能な状態だった。ちなみに正確には画像のタンクがある場所は本丸と二の丸の間の堀跡で、奥に見える水槽施設のある場所が本丸跡になる。当然、地形は大きく削られている為、遺構は消滅したと見ても間違いないだろう。
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櫓台? |
一応、フェンスの境界に櫓台らしきものが確認できるが、単に地形の削り残しとも見れるため定かではない。ちなみに画像の左外側が二の丸跡だが、藪が酷い為中の方を見るのは断念した。
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帯曲輪へ降りる階段 |
本丸跡南側から帯曲輪に降りる階段が付いているので降りてみたが、帯曲輪内部の散策用ではなく、麓の水道局の施設から丘の上の水道施設に登るための階段のようだった。
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帯曲輪内部 |
帯曲輪内部は幸い藪にはなっていないが、細長い平場になっていることと土塁が確認出来る程度だった。なお、帯曲輪から移動すれば東館の曲輪に取り付けそうだったが、この時は帰りの電車の関係でタイムオーバーで確認できなかった。