2017年11月18日土曜日

10月の3連休旅行:福山城(広島県福山市)

2017年10月8日訪城。

三原でお昼を食べた後は岡山方面へと向かい、福山城を見るために福山に立ち寄った。

福山城は水野勝成によって1619年に常高興寺があった丘に築かれた平山城で、当時は新しい城の築城が制限されていたが、毛利氏のような有力な外様大名に備える為に特例で許可されたという。ただ、城は皮肉にも幕末に毛利氏(長州藩)の攻撃を受けて降伏している。

舟入の二重櫓の櫓台(部分復元)
福山駅から南口を出てすぐの場所はかつて舟入があった場所で、当時船が係留されていた場所に今はタクシーが係留(タクシープール)されているのだから面白い。この舟入の出入口を監視するための二重櫓が当時ここにはあり、発掘調査でその石垣の全貌が明らかになっている。今は埋め戻されてしまっているが、櫓台の南側が部分的に復元されて判るようになっていた。


駅北口の石垣
変わって今度は駅の北口から出ると目前にいきなり二の丸の石垣が飛び込んできた。駅自体は当時の三の丸の上にあるため、手前の車道の部分は本来は水堀であった。なお、福山城は三原城の時と違って堀は徹底的に埋めてしまったらしく、こちらでは当時の水堀を見ることは結局無かった。


黒鉄門跡から二の丸へ登る坂
二の丸の入口の黒鉄門跡は今は見る影も無いほど無くなっていたが、門から二の丸に登る坂はかろうじて生きており、ここから二の丸へと登った。なお、当時は画像の左側にも鉄砲櫓、鑓櫓、菱形櫓が建っていて厳重な登城路だったようだが、今は見ての通り左側は大地ごと消滅している。


伏見櫓
坂を上り切って道を曲がると伏見櫓が正面に見え、なかなかの威圧感がある。なお、この櫓は京都の伏見城にあったものを移築したために伏見櫓を呼ばれている。解体修理で伏見城の松ノ丸東櫓だった刻印が見つかっており、伏見城から移築されたという言い伝えの建物は全国にあれど、その大半が真偽のほどが定かでないまま消失しており、そのため証拠が残るこの櫓はかなり貴重な文化財である。


筋鉄御門
伏見櫓の下を通り二の丸から本丸へと入る部分にある城門が筋鉄御門で、これも福山城内に現存する貴重な建造物である。こちらも伏見城からの移築と伝わる。


湯殿(中央)と月見櫓(奥)
筋鉄御門の手前から東を見ると何やら特徴的な飛び出た建物があるが、これは湯殿と呼ばれる建物で、文字通り風呂場だったようである。つまり、城下町を眺めながら風呂に入っていたということだろうか。ちなみにこれも伏見城からの移築の言い伝えがあるが、残念ながら焼失してしまい、今あるものは復元した建物だという。奥の月見櫓も同様に復元(外観復元)したものである。


伏見御殿跡
御門を抜けて本丸に入ると目の前に藩主の居所である御殿跡があって石で間取りを表現していた。前述の湯殿はこの御殿の一部である。


鏡櫓
月見櫓から少し北側に鏡櫓があり、こちらも月見櫓同様に外観復元したもので、内部は資料の倉庫になっている為、一般開放はされていない。


鐘櫓
本丸の西側、伏見櫓から見て北側に鐘櫓があり、文字通り時を告げる鐘を鳴らしていた櫓である。現在も時報として使用されており、6時・12時・18時・22時に鐘が鳴るようだが、訪城時は既に14時を回っており、18時まで長居するつもりも無かった為、結局鐘の音は聴いていない。


天守閣
本丸散策の最後は外観復元された天守閣に登ったが、内部は他の城郭などと同様に資料館になっていた。当然ながら内部は有料である。


天守閣からの城下を望む
天守閣最上階からの眺めは絶景で、丘の上にあるためビルが立ち並ぶ現代でも遠くまで見渡すことが出来た。画像の右下にちらりと見えるのは鏡櫓の屋根で、中央に見えるのは福山駅。


御台所門跡
城内を散策中に驚いたのが、二の丸から本丸に入る御台所門があった場所で、画像の通りまるで迷路の行き止まりのようになっていた。かつての登城路も今は草が茂り、なんとも異質な空間になっていたのが印象深い。


旧内藤家長屋門
城内の一角には旧武家屋敷の長屋門が移築されており、市街地化で失われた城下町の建物の面影を今に伝えている。福山城に来る前に訪れた三原城の歴史公園に西国街道沿いの長屋門跡の礎石があっただけに、これのおかげで当時はあそこにこんな門があったんだろうなと想像出来て良かった。