2019年7月27日土曜日

春の連休の旅:泉の館(福島県南相馬市)

2019年3月24日訪城。

野馬土手北東部を散策した後は、そのまま新田川を渡って泉地区へと移動し、泉の館跡を目指した。泉の館は相馬氏代々の家臣である泉氏の居城で、泉胤康が相馬重胤に従って下総国から下向したのが始まりだという。ただ、1597年の泉胤政の代の時に、牛越城の築城工事の裁定に不満を唱えて家臣を辞めており、その時に自分の居城である泉の館に火を放って燃やしてしまっている。

泉の館入口
泉の館跡の入口から500mほど離れた坂の下に画像のような市指定史跡の標柱が立っている。画像に見える車道を登って行ってもいいが、隣の住宅地の脇道から農道を登る道の方が早い。


泉の館遠景
車道の坂を登っていくと左手に鳥居の見える山があるが、そこが城跡である。ただ、手前の現在畑になっている箇所なども麓より高い位置にあるため、泉氏の郎党の屋敷があってもおかしくない立地に見える。


雷神社の鳥居
車道の坂を登っていくとやがて東北電力の入口ゲートが見えてくるが、途中から脇の農道に入ってさきほど見えていた鳥居を目指す。鳥居には雷神社と書かれており、現在城跡は雷神社の境内になっていることが判る。それにしても、雷神社ということは東北電力の関係者が祀ったのだろうか、それともたまたま偶然東北電力の敷地に祀られていたものだろうか?


横堀と土橋
鳥居のある場所は本来の登城口かどうかは不明だが、登るとすぐに横堀とそれに架かる土橋が確認できた。ただ、神社を祀る際に土塁や切岸を崩して土橋を架けたようにも見えるので、土橋が城の遺構かどうかは判断しかねる。


腰曲輪
城の中腹には比較的広い曲輪があり、腰曲輪と思われるが、中腹に輪郭式に展開している為、二の丸的ものかもしれない。内部は雑木林が竹に侵食されかけている状態で、藪はあまり無く比較的移動はしやすかった。


主郭虎口
腰郭から道がくの字に折れて主郭の虎口に続いているが、どういうわけか折れた先は藪化で塞がれており、新しい細い道が山の斜面を斜めに登っていた。


主郭土塁
道を登って主郭に入ると、そこは土塁を乗り越えた内側であり、本来の登り口でないことが判る。家で例えるなら外から梯を架けて窓から入るようなものである。


主郭跡
主郭跡に入ってまず驚いたのは、主郭の大部分が笹薮に覆われて散策不可能な密度と化しており、その主郭を横切るように横幅3~4mほどだけ藪が刈り払われてモーゼの十戒のようになっていることだった。雷神社の祠は北側の土塁の上に祀られており、ここだけ土塁が厚くなっているため櫓台の跡なのかもしれない。


主郭からの眺め
主郭からは南側を見渡すことが出来、ここに来る前に立ち寄った野馬土手の桜井古墳は画像奥の緑の雑木林よりも右側の方にある。

2019年7月21日日曜日

春の連休の旅:野馬土手(福島県南相馬市)

2019年3月24日訪問。

休みの最終日は仙台から浜通りを南下して南相馬市へと入り、野馬追で有名な原ノ町へと向かった。江戸時代の原ノ町は総延長24kmにもおよぶ土手で周囲を囲まれており、その中では馬が暮らしていた。人が暮らしていたのはその土手の外側で、今の市役所あたりに南北に街道があり、その街道沿いの500mほどに「原ノ町」の宿場があった。面白いことに街道は土手に囲まれた牧の中を南北に通っており、旅人は木戸から土手の内側に入って、馬が暮らす原を抜けて、また木戸から土手の外へ出るといったルートを通らないといけないのである。実際、水戸藩の藩士がその様子を日記に残している。

というわけで、京都の御土居のようなものを相馬氏が馬のために造ってしまったというのを歴史書で知って、是非ともその遺構を見たいと思って来たが、やはりここも市街地化によって遺構は断片的にしか残っていないようだった。そのため、遺構の中でも比較的よく残っている北東部の桜井古墳付近の野馬土手を見に向かった。

野馬土手
桜井古墳付近は公園になっており、ぱっと見では公園と外を区切る敷居のようになっているが、この土塁が野馬土手である。なので正確には公園内部が、土手の外側ということになる。


野馬土手(修復)
野馬土手は江戸時代に造られたものだが、さすがに風化も激しく、公園の東側の野馬土手は最近修復されたものだった。ちなみにこの土手のさらに東の公園から出た延長線上に風化や開墾で無くなりかけている土手の痕跡が見られる。


桜井古墳
ちなみに桜井古墳は前方後円墳の1号墳と円墳の2号墳が残っており、画像の1号墳は地方にしてはなかなか大きく迫力があった。

移動距離が長すぎてこの時は見ていないが、直線距離で3km離れた南相馬博物館のあたりにも野馬土手が残っており、そこからさらに南少し行った場所には木戸の跡が残っているそうである。

2019年7月7日日曜日

春の連休の旅:北目城(宮城県仙台市)

2019年3月23日訪城。

郡山遺跡の散策後、続けてすぐ隣にある中世~近世の城跡である北目城跡の散策に向かった。北目城は中世の国人領主の粟野氏の居城だった平城で、後に伊達政宗が一時居城としている。正確にはこの時の居城は岩出山城だったが、上杉との合戦や仙台開府の工事の監督で北目城に居ることが多く、事実上の居城扱いだった。発掘調査でも伊達政宗の時代に整備されたと思われる障子堀などが見つかっている。

北目城跡
城跡は国道4号バイパスと広瀬河畔通りの交差点付近にあり、交差点よりやや西側に城跡の標識と説明板等がある。城跡の正確な構造が判明していない為、明確には言えないが、説明板がある辺りは外郭と推定される。「矢来」が大手とされているので、この付近に城の大手口があったかもしれない。


館の内
交差点のある辺りが住所で言う「館の内」で、今は住所が「東郡山」になっている一部も元は「館の内」だったようなので、恐らく交差点より東側が主郭と思われる。予想される構造は主郭から西に向けて曲輪が展開する梯郭式だが、発掘調査の結果を見ると主郭から西と南に曲輪が展開する構造かもしれない。


堀跡?
「館の内」の北側には明確な落差があり、ここが堀跡と思われるが、江戸時代の「郡山村」の絵図を見た感じでは、旧広瀬川の湿地帯がこの辺りにあったようで、それを自然の外堀としていたのかもしれない。


水路(堀跡?)
城跡の南側の北目宅地を東西に流れる水路は城と城下町の境界の堀跡と思われるが、城跡の西側を南北に流れる水路は城跡の推定域より外にあるため堀跡ではないかもしれない。国道4号バイパスが出来る前のまだこの辺りが畑だった頃の写真だと堀跡は広く畑で、曲輪跡は3mほど高い様子なので、なおさら無関係そう。


出丸跡
城跡南西には「出丸」という地名が残っており、文字通り北目城の出丸跡と思われる。現在は国道4号バイパスが貫通しているため確認し辛いが、画像のすき家のあたりである。

2019年7月1日月曜日

春の連休の旅:郡山遺跡(宮城県仙台市)

2019年3月23日訪城。

富沢館跡を散策した後は富沢駅から長町駅まで移動し、郡山遺跡を見に向かった。郡山遺跡は7世紀に朝廷によって築かれた城柵で、7世紀末には陸奥国府が置かれて建物の向きが真北に修正される等、全く別物に改築されている。ただ、8世紀前半には多賀城が完成して陸奥国府はそちらに移るので、郡山遺跡が使用された期間は思いのほか短い。

郡山遺跡の地図
長町駅から大通りを東へ350mほど行くと、郡山遺跡の北西隅にぶつかるが、ここに郡山遺跡の説明板の一つがあり、画像のように地図も載っている。


郡山遺跡説明板
郡山遺跡自体はかなりデカいので、説明板は各地に分散して多く設置されており、画像の説明板は郡山遺跡の外溝の北西隅を説明する内容になっている。


外溝跡
外溝跡は残念ながら埋め戻されてしまっているが、画像のように歩道に色を変えたタイルで平面表示している。画像奥の道路の中央分離帯の場所あたりが北西隅で、埋め戻される前の外溝はそこから東(画像右側)へと折れている。


内郭跡
北西隅から内郭跡を目指すが、周囲は住宅地で地図を見ないとなかなか把握出来なかったが、内郭跡南側付近は比較的広い空き地になっており、ここに詳細な説明板や史跡碑が設置されていた。政庁自体は画像のさらに奥の方で、ちょうど雑木林が見えるあたりである。


政庁跡
政庁跡も確認しようと思ったが、残念ながら住宅地と畑になっており、現状は見れるものが無さそうだった。政庁発掘調査時の写真を見た感じでは、画像の民家の畑の中に政庁跡が埋まっているはずである。


大溝跡
郡山遺跡は内郭の周囲を大溝が囲み、そのさらに外側を外溝が囲むという二重構造になっていた。そのうちの大溝の南側あたりは比較的確認しやすくなっており、遺構自体は埋め戻されているが、現在も窪地になっているため判りやすい。


内郭南門跡
郡山遺跡では唯一確認されている城門跡で、ここから真北に200m行った先に政庁跡がある。なお、門跡自体は埋め戻されている為、現状は住宅地の中にポッカリ空いた空き地にしか見えない。


郡山廃寺跡
古代城柵には必ず寺院がセットで付属するという当時のルール通り、郡山遺跡にも南の離れた一角に廃寺の遺跡が確認されている。ただ、例に漏れずこちらも埋まっている為、現状は画像のような史跡碑が確認出来るだけである。