2023年2月25日土曜日

羽州街道:花立峠(山形県上山市)

 2023年1月22日散策。

上山宿から約2kmほど羽州街道を北上した丘の上が花立峠で、ここは上山藩と山形藩の藩境でもあった。

峠からの上山方面の景色
峠と言ってもさほど高さはないのだが、周囲に木々が少ないため街道からの景色はなかなかの絶景だった。画像は上山方面を見たもので、中央奥に超高層マンションのスカイタワー41が見える。

峠にある池
峠の頂上付近には大きな池があり、坂を上り切ったあたりで唐突に現れるため地味に驚かされる。池が自然にできるような地形には見えないため、農業用か公園用に造られたものだろうか?なお、『天保国絵図』によれば坂のこの付近に一里塚があったようだが、それらしき痕跡は確認できなかった。

従是南上山領
峠には「従是南上山領」(これよりみなみ かみのやまりょう)の石碑が立っており、上山藩領境界石標と呼ばれている。ただし、現在の石標は復元したレプリカで、オリジナルはかみのやま温泉の旅館の庭に引き取られて飾られていたが、誤って建屋の工事中に破壊してしまったという。

花立峠
なお、オリジナルの石碑がかつて立っていた場所は画像のあたりとされており、ここに石碑と大きなお地蔵様が立っていたことが浮世絵にも描かれている。現在は小さなお地蔵様と湯殿山の石碑などが並んでいる。


2023年2月24日金曜日

羽州街道:上山宿(山形県上山市)

 2023年1月22日散策。

上山藩の城下町は羽州街道の宿場町でもあり、更に温泉宿もあるというなかなか盛り沢山な町で江戸時代にはかなり賑わいがあったようだ。

矢来橋
上山宿の江戸口は矢来橋の手前にあり、道が折れ曲がるように土塁と木戸が設置してあったようだが、現在はその場所がわからないほど痕跡が無くなっている。たぶん画像の矢来橋と交差点との間らへんにあったはずである。

枡形跡
橋を渡った先には枡形のスペースがあり、画像の右手あたりにかつては番所があったのが絵図で確認できる。上山宿に入る人々は一旦ここで身分や荷物を確認されたのだろう。

上山宿十日町
上山宿に入ってしばらく行った場所の十日町あたりが宿場町の中心部で、画像の右手奥に見える「しまづ」が本陣跡である。一方、手前左手は長屋門を改造した建物のようである。

羽州街道から大手道に入る箇所
本陣跡から斜め前あたりにお城に行くための大手道が分岐しており、分岐した先にはかつては上山城の大手門があった。なお、画像の付近には羽州街道の説明板も設置してあった。

羽州街道から見た観音堂と温泉場
羽州街道をさらに北上して交差点で左側を見ると突き当りに観音堂がある通りが見えるが、ここの右手奥に温泉の共同浴場がある。この浴場と観音堂はともに江戸時代の絵図にも載っており、歴史あるスポットである。

羽州街道から見た愛宕神社
羽州街道を更に北上すると愛宕神社の石柱が街道沿いにあるが、ここの愛宕神社も江戸時代と同じ場所に今も鎮座している。なお、ここに至るまでの途中に脇本陣跡があったらしいのだが見つけられなかった。

鍵の手
しばらく進むと道が折れ曲がる宿場町や城下町特有の鍵の手がある。ここを境界にして先の町は十日町ではなく新丁と呼ばれる。

山形方面の木戸跡付近
新丁の先には上山宿の北の入り口である土塁と堀と木戸があったようだが、こちらもハッキリとした痕跡は見当たらず場所を特定することが出来なかった。画像は恐らくここらへんじゃないかなと思った場所。


2023年2月21日火曜日

山形への温泉旅行:上山藩武家屋敷と藩校(山形県上山市)

 2023年1月22日散策。

上山城の東側には羽州街道が通っており城下町兼宿場町が広がっていたが、逆の西側には武家屋敷がかつては広がっていた。そして今でも4軒ほど武家屋敷が残っており、山形県内ではここだけの貴重な場所である。

武家屋敷通り
武家屋敷はこの通りに4軒並んでおり、上山城の裏口である土門口から出てすぐの場所のため、比較的地位の高い家臣の屋敷が並んでいる。

森本家(非公開)
南端にあるのが森本家の屋敷で、ここは今も利用されているため内部は非公開となっている。森本氏は藤井松平氏の丹波国時代からの代々の家臣で、藩主の随伴役や御側目付を務めている。藤井松平氏が上山にやってきた1697年頃の城下絵図を見ると、この場所は酒井文之進の屋敷になっており、森本氏の屋敷は他の場所にあったようだ。実際、説明板にも1861年頃にここに引っ越してきたと書かれている。

三輪家(公開)
森本家の隣の三輪家の屋敷は唯一有料(220円)で内部まで公開されており、広い庭先としっかりとした茅葺の曲屋が印象的だが、本来の玄関は改造で無くなっているようだ。三輪氏は元は奥平氏家臣飯田氏の庶子で、1796年に藤井松平氏に仕えているため、4軒の中では比較的新しい家臣のようだが側用人として重用されていた。

山田家(非公開)
三輪家の隣が山田家だがこちらも森本家同様に今も利用中のため非公開となっている。あと、屋敷は他と比べるとやや現代寄りに改造されているようだ。説明板によれば山田氏は常陸国の笠間出身で、藤井松平氏に仕えた時期がよくわからないが、馬廻や奉行、目付等を務めた重臣で、1697年の城下絵図のこの場所にハッキリと山田恒右ェ門の名前がある。ただ、説明板によると1753年4月にこの場所に山田恒右ェ門が住んだのが始まりとあり、56年ほどの食い違いがある。

旧曽我部家(非公開)
4軒の中で一番北にあるのが旧曽我部家で、三輪家同様に今は市の管理のはずだが、ここだけ「旧」が付いている。あと、内部は残念ながら今は公開されていない。曽我部家も山田家同様に馬廻や奉行等を務めた重臣で、説明板によれば1708年に藤井松平氏に仕えたとあるが、1697年の城下絵図のこの場所に曽我部千治?の名前が既にある。ただ、仕えた初代の名は曽我部宗八なので、別人なのかもしれない。

藩校明神館跡
曽我部家からほど近い場所には藩校の明神館跡があるが、今は空き地になっており、説明を見る限りでは現在宅地になっている隣も藩校跡の一部のようだ。

藩校明神館跡の石積み
藩校跡と言ってもただの空き地で遺構は見られないと思ったが、説明板を読むと裏側に石積みが残っていると書かれており、実際に画像のような遺構らしきものが確認できた。

2023年2月19日日曜日

山形への温泉旅行:上山城の外堀(山形県上山市)

 2023年1月22日訪城。

上山城は絵図が残っているため外堀跡もトレースしやすいと思ってぐるりと一周確認してみた。

L字水堀付近(外堀北西側)
上山小学校の校舎のある場所は絵図によればL字型の水堀があった場所で、画像左側を見ると確かに坂の上の平場より低くなっており、水堀とその南側の堰を潰して学校が造られたような形跡がある。左に見える側溝はそのまま東に向かっているため、絵図に書かれている水堀から流れている水路の名残と思われる。

水路の合流地点(外堀北側)
L字堀から流れてくる水路と温泉のある湯町方面から流れてくる水路が合流するのが画像の場所で、ここも絵図に描かれているが、水路は思いのほか深くなっていて外堀としても申し分ないものだった。

町堀跡(外堀東側)
東側の城下町との境界には「町堀」と呼ばれた一番低い位置の外堀があったが、今は現状のように宅地になって消滅している。なお、車道より右側の家が建っている場所が堀跡である。

町堀跡から見た大手門跡
町堀は大手門枡形跡付近まで続いていたが、いざ大手門枡形付近まで移動すると今もハッキリ高低差があることがよくわかった。画像の石垣は遺構では無さそうだが、絵図によれば実際石垣でしっかり造られた枡形だったようである。

大手道と大手門枡形跡
画像は大手門枡形跡を大手道から見た光景で、画像中央奥あたりに枡形があって中央の部分は水堀に架かる土橋の跡である。

三島坂横の水堀跡(外堀南東側)
大手門跡を抜けて三島坂を上る途中の左手に見える場所も水堀跡で、城の南側の外堀の端っこの部分にあたる。現在は画像の通り埋め立てられてしまっている。

饅頭屋の裏あたりの水堀跡(外堀南側)
南側の外堀も埋め立てられて宅地や宿泊施設の敷地になっており、堀跡だとわかる形跡がなかなか見当たらなかったが、画像の駐車場?のような場所は宅地よりも窪地になっており、辛うじて堀跡の痕跡を残しているように見えた。

大沼跡(外堀西側)
外堀の西側は元々あった大沼という沼を利用しており、城内で一番大きな水堀だったが、ここも全て埋め立てられて今は小学校の校庭となっている。この大沼の北側に登城路を挟んでかつてあったのが最初に出てきたL字の水堀である。


2023年2月18日土曜日

山形への温泉旅行:上山城(山形県上山市)

 2023年1月22日訪城。

温泉宿に一泊した翌日はまず上山城跡に向かった。ここに来るのはかなり久しぶりである。

模擬天守(上山郷土資料館)
二の丸跡にある模擬天守は内部が郷土資料館で、前回来たときは昭和の資料館のような展示だったが、さすがに年数がたっているだけに以前とは展示が全く違っていた。あと、やはり最上階からの眺めは絶景だった。

本丸追手門跡
本丸跡は今は月岡神社の境内となっており、鳥居のある場所は本丸追手門跡である。上山城の絵図は複数あって施設がどれも違うため正確な事は不明だが、全盛期には二階建ての櫓門があったようである。ちなみに左に見える月岡神社の石柱の裏側は文字が上山城址になっている。

本丸東門跡
二の丸跡の資料館の裏から本丸跡に入る場所にかつてあったのが本丸東門で、絵図によってはここに城門と櫓が合体したようなものが描かれており、これをモデルにして建てられたのが今の資料館である(さすがに拡大解釈しすぎのサイズだが…)。

本丸東門の残骸?
本丸東門跡はよく見ると石が沢山転がっており、絵図の通り石垣作りの埋門とそれに乗る二階櫓が本当に存在した証拠にも見える。

本丸土塁
本丸の周囲にあった土塁は今は断片的に残っており、画像の南東隅の土塁の上には絵図によっては二階櫓が描かれているものもある。

隅櫓の石垣跡?
この南西隅の土塁の上にも石の残骸が散らばっており、画像のように並んでいるものもあるため、櫓台の石垣の残骸、もしくは城壁の礎石なのではと思われる。

本丸西門跡
画像の坂の上にあったのが本丸西門跡で、絵図によっては櫓門が建っていたようである。坂の下には御館があったので、追手門と同様に重要な門だったようだ。

南内堀跡
本丸追手門跡の前の車道は内堀の水堀跡であるが、今の地形をよく見ると追手門を出た南側の二の丸跡はさらに低くなっており、水堀は外側に堤があるタイプだったのではと思われる。

西内堀
内堀で唯一現存しているのが西堀で、ここにはちゃんと水堀が残っている。昔訪れた時は立派な柵等は無く、草も茫々でただの溜池に見える堀だったが、今は見違えるように周囲も綺麗になっており、堀の周囲もちゃんと柵で囲まれていた。

北内堀跡
内堀の北側は今は切通の通路になっており、これだと見た目は堀切にしか見えないが、当時はちゃんと水堀があったようである。そして水堀は絵図によればここから東に向かってカーブを描いていたようである。

内堀跡の北から東にカーブする部分
内堀のカーブの痕跡は画像の坂の部分に残っており、これを見た限りでは水堀の位置は今の通路よりも高めの位置にあり、今の現代の切通は堀底をさらに削って作られたものと考えられる。なお、内堀の東側は資料館が出来たことで埋められてしまっている。

2023年2月12日日曜日

山形への温泉旅行:山形城(山形県山形市)

 2023年1月21日訪城。

かみのやま温泉での散策は翌日にする予定だったため、一度山形市へ向かい山形城跡に立ち寄った。去年は山形市には行けなかった為、久しぶりの訪城だったが、色々変化と発見があって楽しかった。

本丸南西隅と内堀跡
本丸南西隅の内堀は以前と同じだったが、以前は無かった土塁が新たに復元されていた。ただ、なぜか本丸南西隅の櫓跡の部分だけ土塁が無かったが、もしかすると櫓台の考証が纏まっていないから土塁も築けない感じなんだろうか。

本丸西側と埋門土橋跡
本丸の土塁は西側の埋門跡まで築かれており、埋門土橋の土台が以前と違い綺麗な形に補修されていた。この埋門土橋は江戸時代後期の絵図面には全く記述が無いため、最上義光時代にあった本丸西門土橋を改築後も脱出口用に残していたものと思われる。

本丸北西隅堀跡
本丸の堀跡は車道や園路になっている部分以外は全て発掘が始まっているようで、本丸北西隅の部分もちょうど露天掘りの途中になっていた。

本丸北堀跡と北門土橋跡
今回、本丸内堀跡の発掘状況を見て一番興奮したのが北側で、画像中央に見えるように北門土橋の石垣が残っていたからだ。手前にある石は堀跡から発掘された石で、恐らく本丸北門の石垣の残骸だろうか。

二の丸天守台跡
発掘調査は二の丸天守台跡付近でも行われており、こちらも何が出てくるのか気になるが、現状だとよくわからない状態だった。

天守台跡の上
天守台跡本体はまだ発掘調査がされていないようだが、上には明らかに裏込め石と思われるものが散乱しており、いつか全貌が判明するのが待ち遠しい。

二の丸乾櫓跡
二の丸は南の二か所の櫓台が整備済みだが、北西隅の乾櫓跡はまだ整備されておらず、こちらも整備が待ち遠しい。現状でも櫓台の形がわかるほど石が見えており、南側には階段跡らしき石も見えている。

二の丸肴町向櫓跡は整備中
なお、二の丸北側中央の肴町向櫓跡はちょうど整備中で北から東にかけての土塁付近が広範囲に立ち入り禁止となっていた。

肴町向櫓跡付近
とりあえず立ち入り禁止になっていない弓道場手前あたりから望遠で見る限りでは、今は土を運び上げて土塁自体を補強しているように見えた。

二の丸巽櫓跡
ちなみに整備済みの南東隅の巽櫓跡にも行ってみたが、こちらでは櫓台の上に東屋っぽい建物をちょうど立ててる最中だった。

最上義光時代の二の丸土塁跡
今まで山形城には何十回と来ていたが、今回初めて気づいたのが画像の手前から奥に伸びる線のような石列で、これは発掘調査で判明した最上義光時代の二の丸の塁線を示しているのだという。つまり義光の時代はこの線より右側は水堀で、これは当時の絵図でも見て取れるため、絵図の正しさが証明された証拠でもある。