2023年2月21日火曜日

山形への温泉旅行:上山藩武家屋敷と藩校(山形県上山市)

 2023年1月22日散策。

上山城の東側には羽州街道が通っており城下町兼宿場町が広がっていたが、逆の西側には武家屋敷がかつては広がっていた。そして今でも4軒ほど武家屋敷が残っており、山形県内ではここだけの貴重な場所である。

武家屋敷通り
武家屋敷はこの通りに4軒並んでおり、上山城の裏口である土門口から出てすぐの場所のため、比較的地位の高い家臣の屋敷が並んでいる。

森本家(非公開)
南端にあるのが森本家の屋敷で、ここは今も利用されているため内部は非公開となっている。森本氏は藤井松平氏の丹波国時代からの代々の家臣で、藩主の随伴役や御側目付を務めている。藤井松平氏が上山にやってきた1697年頃の城下絵図を見ると、この場所は酒井文之進の屋敷になっており、森本氏の屋敷は他の場所にあったようだ。実際、説明板にも1861年頃にここに引っ越してきたと書かれている。

三輪家(公開)
森本家の隣の三輪家の屋敷は唯一有料(220円)で内部まで公開されており、広い庭先としっかりとした茅葺の曲屋が印象的だが、本来の玄関は改造で無くなっているようだ。三輪氏は元は奥平氏家臣飯田氏の庶子で、1796年に藤井松平氏に仕えているため、4軒の中では比較的新しい家臣のようだが側用人として重用されていた。

山田家(非公開)
三輪家の隣が山田家だがこちらも森本家同様に今も利用中のため非公開となっている。あと、屋敷は他と比べるとやや現代寄りに改造されているようだ。説明板によれば山田氏は常陸国の笠間出身で、藤井松平氏に仕えた時期がよくわからないが、馬廻や奉行、目付等を務めた重臣で、1697年の城下絵図のこの場所にハッキリと山田恒右ェ門の名前がある。ただ、説明板によると1753年4月にこの場所に山田恒右ェ門が住んだのが始まりとあり、56年ほどの食い違いがある。

旧曽我部家(非公開)
4軒の中で一番北にあるのが旧曽我部家で、三輪家同様に今は市の管理のはずだが、ここだけ「旧」が付いている。あと、内部は残念ながら今は公開されていない。曽我部家も山田家同様に馬廻や奉行等を務めた重臣で、説明板によれば1708年に藤井松平氏に仕えたとあるが、1697年の城下絵図のこの場所に曽我部千治?の名前が既にある。ただ、仕えた初代の名は曽我部宗八なので、別人なのかもしれない。

藩校明神館跡
曽我部家からほど近い場所には藩校の明神館跡があるが、今は空き地になっており、説明を見る限りでは現在宅地になっている隣も藩校跡の一部のようだ。

藩校明神館跡の石積み
藩校跡と言ってもただの空き地で遺構は見られないと思ったが、説明板を読むと裏側に石積みが残っていると書かれており、実際に画像のような遺構らしきものが確認できた。