2020年6月8日月曜日

晩秋の湯坂路(鎌倉古道):湯坂城(神奈川県箱根町)

2019年11月30日訪城。

冬も間近に迫ったある日、山登りのため箱根へと出かけた。この日、向かったのは箱根湯本から湯坂路(鎌倉古道)を通って元箱根まで登るルートで、東海道が整備されるよりも古い時代の幹線道路の跡でもある。


湯坂路入口
箱根湯本から橋を渡って湯坂路の入口へと向かうが、この入口は尾根の先端ではなく国道を少し登った先にあり、道も狭く倒木で荒れていてなかなか初見殺しな山道だった。


石畳
しかし、ある程度登ると道は急に広くなり、部分的に石畳になっている箇所が散見されるようになった。この石畳は昭和の頃に整備されたらしいが、残念ながらメンテナンスはされなかったようだ。


五の曲輪
九十九折りの道を登り切ると開けた場所に到着したが、ここからはかつての湯坂城の五の曲輪に入るようだ。なお、湯坂城は小田原の領主だった大森氏によって湯坂路を抑えるために築かれた山城である。


三の曲輪
五の曲輪から一段登ると四の曲輪を経て三の曲輪に入る。三の曲輪は湯坂城で最大の広さを誇る曲輪であるが、笹薮が覆い茂っていて山道周辺以外は全く確認出来なかった。


堀切と土塁
三の曲輪をしばらく進むと堀切とその先の土塁に突き当たり、道はここで北側に食い違っている。この先がいよいよ二の曲輪になるが、この箇所の構造から見て二の曲輪は城内でも重要な場所だったと推測される。


二の曲輪の土塁
二の曲輪内部は三の曲輪に比べると狭いが、東側同様に西側にも土塁が設けてあった。現代の山道は土塁の上を乗り越えるように直進しているが、本来の道は画像の土塁手前から右側に迂回して進む道になっている。


一の曲輪から見た二の曲輪の土塁
画像は逆に一の曲輪側から見た二の曲輪の土塁で、画像右に現代の道、画像の左に本来の道が見える。なお、この位置に湯坂城についての説明板が設置してある。


一の曲輪
一の曲輪は他の曲輪よりも狭く、むしろ西側の尾根伝いに来る敵に備えた出丸のようにも感じる。なので、主郭的な機能を持っていたのは、二の曲輪か三の曲輪だと思われる。


西端部の堀切
一の曲輪の先にも堀切があり、ここが湯坂城の端となる。ここから先は湯坂路は登り坂となり、どんどん尾根を登っていくことになる。