2021年2月25日木曜日

九州の西半分ついで旅:唐津城・その3(佐賀県唐津市)

 2020年8月4日訪城。

その2からの続き。

本丸北門
山の麓を散策した後は山頂の本丸へと向かうべく、唐津城名物の斜めエレベーターに乗ったのだが、コロナ対策で色々やっているうちにうっかりカメラに撮り忘れていたようで、この辺りの写真が全く撮れていなかった。唯一撮っていたのが本丸北門の模擬建造物の辺りで、この門の櫓部分の内部がエレベーターの本丸側乗降口になっている。なお、北門自体は閉鎖しているようで、画像の通り通ることはできない。


唐津城天守閣
本丸の南西隅には模擬天守閣が建っており、内部はお馴染みの資料館兼展望台となっている。唐津城には天守閣は築かれなかった為、屏風絵の名護屋城の天守閣を参考にして昭和の第一次築城ブームの頃に建てられたという。


天守閣から見た高島
天守閣の最上階からの景色はなかなか絶景で、海の方角を見ると山頂が特徴的な島が浮かんでいた。後から調べたところ、宝くじで有名な神社がある島らしい。


天守閣から見た虹の松原
唐津城の東に伸びる砂州には日本三大松原の一つである「虹の松原」があるが、砂州の先端付近が宅地化しているため、松原が奥に追いやられてちょっと残念な風景に見える。


天守閣から見た下曲輪
天守閣から南の方を見ると、登る前に散策していた下曲輪跡がよく見える。画像の右上に見える橋が城内橋で、橋の根本の部分に隅櫓の櫓台がある。あと、画像右端の住宅が密集している場所が舟入跡である。


天守閣から見た西の海岸線
天守閣の西側には綺麗に弧を描いた砂浜が広がっており、なかなか風光明媚で美しい。画像の左に見えるのは二の丸跡だが、砂浜側の住宅地がある場所は城外だった場所である。


工事中
この時は本丸の東半分くらいが工事中になっており、おかげで本丸の表門を通ることが出来なかった。

本丸西門
唯一通れる出入口が本丸西門だけだったので、そこから下山することにしたが、この辺りはなんだかビルの裏路地のような感じで、模擬天守閣が外観を城っぽくした雑居ビルだと判るのが痛々しい。


本丸帯曲輪
本丸から出て降りた中腹には比較的広い帯曲輪が展開しており、ここには画像中央に見られるような井戸等も残っていた。画像だと見づらいが右奥に金毘羅神社がある。


総締門跡の藤棚(舞鶴公園のフジ)
帯曲輪にある総締門跡には覆いかぶさるように藤棚が広がっており、この藤は市の天然記念物にも指定されている古木である。もし次に来る機会があったなら、この藤の花が満開の時期に来てみたいものである。


大手道
総締門跡から出ると、後は麓まで階段が続いており、ここが本丸へと向かう本来の大手道にあたる。麓まで降りると最初にエレベーターに向かう途中に通った道に合流する。


城下町の洒落た通り
城から戻った後は少し城下町を散策したが、東西に伸びる京町アーケードの西の端から南北に伸びる通りには画像のように洒落た歩行者天国?があった。この日は平日でかつコロナ禍でもあるため人通りはほとんどなかったが、特色のある街を作っていこうという思いが感じられる風景であった。


2021年2月23日火曜日

九州の西半分ついで旅:唐津城・その2(佐賀県唐津市)

 2020年8月4日訪城。

その1からの続き。

二ノ門堀
三の丸と二の丸の間には「二ノ門堀」の水堀が残っており、唐津城ができる前はここには松浦川が流れていたという。築城時に川は東に付け替えられて旧川筋はそのまま水堀として利用された。


二の丸北の門跡
二ノ門堀の北側を越えて一旦二の丸に入り北の門跡を確認するが、門跡としての遺構は残っておらず、門の方へ折れて入る道が車道になっているのと、門の外側の二の丸石垣が残っているくらいだった。


時の太鼓櫓
二の丸には北の門ではなく正門である二の門跡から入る為、一旦三の丸へと戻って二の門方面へと向かう。二の門跡の正面に公園があり、ここには時の太鼓櫓が復元されている。古い絵図では時鍾堂になっているので、当初は鐘で時間を告げていたようだが、後に時太鼓堂とも書かれているので、時代によって鐘だったり太鼓だったりしたようだ。なお、復元された櫓には時計が脇に付いている為、なんだか時計台のようになっている。


二ノ門跡
三の丸から水堀に架かる橋を渡った先に二ノ門跡があるものの、こちらは門の原型が判らないほど遺構の痕跡が無い。城の絵図と見比べた感じでは画像の石垣の土橋のように見える橋は本来は存在しておらず、車道を斜めにつなげる為に後から造られたもののようだ。南側にある堀に対して直角になっている分離道の方が本来の橋の位置だろう。なお、絵図から推測する限りでは画像の民宿海舟の位置に城門があったと思われる。


二の丸から見た本丸
二の丸跡内部も基本的に市街地化しているが、早稲田佐賀付属の中高のグラウンドも二の丸跡にあり、校舎の方は一段高くなった旧二の丸御殿跡に建っている。そして校舎の背後に聳える山の上が本丸で、そこに建つ天守閣が麓から良く見える。


月見櫓跡
二の丸跡を東西に通っている車道は学校付近でカーブを描いて緩やかに曲っており、画像のように二の丸上段の隅櫓である月見櫓跡の石垣をかすめて奥に続いている。位置的には画像の右奥に見える建物のあたりに御舟入門があったようだが、舟入も含めて住宅地になっていて残っていない。


舟入門公園
画像は恐らく絵図に見られる舟入の西側の突端部を公園としたものだと思われるが、サイズがかみ合わないので公園の東側(画像右側)は舟入を埋め立てているものと思われる。


下曲輪南西隅の櫓台
舟入の出口だった場所には下曲輪の南西隅の櫓台があるが、面白いことに今は城内橋の橋台になっている。城内橋の先は江戸時代には湾内の海だった場所だが今は埋め立て地になっており、陸地が近くなったことで新たに歩道となる橋が架けられたようだ。


下曲輪南東隅の櫓跡
同じ下曲輪の南東部の櫓跡にはたぶん休憩所?と思われる模擬櫓があり、たぶん南側の対岸から見た時の景観を考えて造られたものと思われる。


腰曲輪跡
山の麓の東側は下曲輪より一段高くなっており、この辺りは腰曲輪と呼ばれている。この付近は石垣が良く残っており、絵図にも見られる涼所櫓を意識したと思われる模擬櫓(画像奥)も建っていた。なお、この時は腰曲輪の奥の方は工事のために途中で閉鎖されていた。


2021年2月21日日曜日

九州の西半分ついで旅:唐津城・その1(佐賀県唐津市)

 2020年8月4日訪城。

福岡県での用事を済ませた後は佐賀県での用事の為、筑肥線に乗って唐津へと移動し、ここでは空き時間を利用して唐津城跡へと向かった。唐津城は唐津藩の藩庁で、1602年に寺沢広高によって築かれたという。


三の丸隅櫓(辰巳櫓)
唐津城の三の丸は今は市街地と化しているが、曲輪の外周部の遺構はよく残っているようで、三の丸の南東隅には辰巳櫓が復元されていた。オリジナルは明治時代に取り壊されたようだが、石垣修復後の平成四年に復元されたという。


三の丸の石垣(南東部)
隅櫓から西に向かって石垣は続いており、画像の駐車場のあたりで途切れる。ちなみに画像左の駐車場部分は昔は水堀だった場所で、絵図には「柳堀」という名前が付いている。


旧唐津銀行
石垣が途切れた先にはこれまた歴史ありそうな建物が建っており、明治45年頃に建てられたかつての唐津銀行の建物だという。場所としては水堀跡の上に建っている為、震災などに弱そうな感じがするが、よく現代まで残ったものと思う。


三の丸大手門跡
唐津城の絵図によれば旧唐津銀行から西に少し向かった先で三の丸の塁線は北側に鉤の字に折れているが、ちょうどこの位置にかつては三の丸の大手門があった。現在は石垣も何も確認できないためサッパリだが、交差点の名前が「大手口」になっている箇所の道が明らかに歪んでおり、ここに大手門跡があったことが伺える。


模擬櫓(トイレ)
大手口交差点から唐津バスセンターを越えて西に行くと再び石垣が復活する。この石垣の上に平櫓っぽい建物が建っているが、これは櫓を模したトイレであって復元ではない。


肥後堀
石垣が復活した箇所には水堀もあるが、実はこの堀は廃城後に一度埋め立てられており、平成元年に石垣を修復した際に元の水堀へと復元したのだという。


三の丸隅櫓跡
肥後堀から先は再び堀が埋まってしまうが石垣は続いており、画像の櫓台の場所で三の丸の南西隅に到達する。ここから石垣は北に向きを変えて続いていく。


三の丸石垣(南西部)
ただ、石垣が続いているのは確認できたものの、西部の方は住宅地の裏側に入ってしまうため、確認は南部のようにはいかなかった。


三の丸西の門跡
とりあえず、西側の石垣が続いているのは確認出来、北西部まで行くと画像の三の丸西の門跡も確認出来た。画像の左側が外側で、右側の方にかつては城門があったようである。手前の車道部分がかつての道で、本来は右側で城門に向かって道が折れ曲がっていたが、現在は桝形になっていた内側の石垣が消滅して道は真っ直ぐになっている。


石垣の上
西の門跡の石垣の内側には階段が付いており上に登れるようになっていた。上の方はコンクリートで舗装されて転落対策と思われるフェンスまで設置されていたが、ここまでガチガチなのはなかなか珍しい気がする。


三の丸北西隅の櫓台から東を見る
石垣の上を進むと三の丸北西隅の櫓台へと到達する。ここから石垣は東へと向きを変えて画像のように続いているが、残念ながらここから下に降りることは出来ない為、元来た道を戻って石垣から降りてから北側に向かう。なお、画像の右側が三の丸で、左側は元は城外の砂浜だった。絵図を確認する限りでは北側の砂浜方面には堀は無かったようである。


三の丸埋門跡
三の丸北側の石垣の外側にある車道伝いに東へ向かっていくと、途中横矢の箇所で道が折れるものの道は続いていき、画像の箇所で道は鉤の字に折れて石垣の内側の方に入ってしまう。この箇所はどうやら三の丸の埋門跡で、かつては三の丸から北の砂浜に出る為の城門だった。

旧高取邸
埋門跡から石垣の追跡が困難になるが、それというのも石垣の北側が広大な屋敷の中に組み込まれてしまうからであり、ちょうどこの位置にあるのが国の重要建築物にもなっている旧高取邸である。画像の手前が三の丸側で高取邸があるのは城外側のため、手間の道より奥の屋敷のある方が低くなっているのが判る。時間があれば旧高取邸も確認したかったのだが、唐津城へと行くのが目的の為、今回は屋敷内部の方は見て周っていない。


2021年2月18日木曜日

九州の西半分ついで旅:福岡城・その2(福岡県福岡市)

 2020年8月4日訪城。

その1の続き。

本丸裏御門跡
天守台から再び本丸に戻り、今度は裏御門跡から二の丸に出る。この裏御門跡に隣接して櫓台(画像左)が残っており、ここは当時は古時打櫓と呼ばれていた。要するに時刻を知らせる役目を持った櫓で、太鼓で時刻を知らせていた為に太鼓櫓とも称されいる。ちなみに現在福岡城内にある伝潮見櫓は実際はここにあった古時打櫓の可能性が高いことが平成の初めの頃に判明している。


南の丸入口
二の丸を南側に行くと南の丸があるが、流石に午前中のまだ早い時間だったせいもあって閉鎖されていた。ここが閉鎖されている理由は、福岡城内で唯一ここだけが当時の建物を残しているからであり、国指定の重要文化財にもなっている多聞櫓があるからである。


南の丸跡
たまたま近くにいた管理の方が少し早いが鍵を開けてくださったので、南の丸に入ることが出来たが、流石に夏場なだけあって園道以外は夏草が茫々だった。


多聞櫓(内側)
多聞櫓は南の丸の西側に残っており、北西隅と南西隅の隅櫓もセットで現存している。多聞櫓は長く伸びた平屋の櫓のことで、内部に廊下が通っている回廊タイプもあるが、福岡城の場合は16の小部屋に別れた長屋タイプになっている。画像は多聞櫓の内側で、それぞれ窓と出入口が沢山あることが判る。なお、多聞櫓の語源はこの出入口が多くあることから来ている。


多聞櫓(外側)
南の丸から二の丸に戻り、桐木坂御門跡から三の丸に出て今度は南の丸を外側から見に向かう。画像は多聞櫓を外側から見たもので、一定の間隔で石落としがあることが判る。この風景だけは江戸時代に福岡藩士たちが見ていた光景と同じと思うと、なかなか感慨深い。


名島門
多聞櫓周辺を堪能した後は、三の丸跡を貫通している市道舞鶴公園線から大濠池方面へ曲った場所にある名島門を見に行った。名島門は元は名島城にあった城門で、黒田長政が福岡城を築いた際に移築されて、家臣の林掃部に与えた門である。時代と共に何度か移築されて、この場所にやってきた。武家屋敷の表門に使用されていたらしいが、櫓門が使用されるのはちょっと珍しい気がする。


旧母里太兵衛邸長屋門
名島門から再び公園線の車道に戻った北側の場所に、移築された母里太兵衛の武家屋敷の長屋門がある。母里太兵衛といえば黒田節にも歌われる酒豪にして黒田家随一の武人である。漆喰が塗られていることから長屋門としてはかなり立派なもので、格式が感じられる。


御鷹屋敷跡
前述の長屋門の背後には小さな丘があり、現在は牡丹芍薬園になっているが、元は黒田如水の隠居所跡である。三の丸内部ではここだけ丘になっており、元からの地形なのか人工的に盛ったのかは気になる。なお、開園前で閉鎖されていたため内部は見ていない。


伝潮見櫓
御鷹屋敷跡から北に行くと県指定の重要文化財にもなっている潮見櫓があるが、実はこの櫓は「潮見櫓ではない」ことが平成3年に判明している。本当の潮見櫓は崇福寺の仏殿に移築されており、これを裏付ける棟札が仏殿に残されていたのが見つかった。移築の際の記録に混乱が見られ、あやふやなまま伝えられたことが原因のようで、浜町の黒田家別邸に移築されたのは太鼓櫓という記録もあることから、本当は当時太鼓櫓とも呼ばれていた古時打櫓であるという説が今は有力になっている。



下之橋御門
伝潮見櫓の近くには下之橋御門があり、福岡城では唯一本来の場所に建っている城門となっている。県指定の重要文化財だが、平成12年に放火によって消失し、平成20年に修復復元された。この付近は枡形に土橋、そして水堀もあるため、南の丸に次いで見所がある。


2021年2月14日日曜日

九州の西半分ついで旅:福岡城・その1(福岡県福岡市)

 2020年8月4日訪城。

前回の福岡城・鴻臚館からの続き。

二の丸東御門跡
福岡城三の丸の鴻臚館跡を見た後は二の丸に向かう為に東御門へと向かったが、流石に近世城郭の城門跡だけあって内部が階段になった立派な枡形門だった。


謎の湧水
この東御門の階段の下では何故か湧水が出来ており、一応危険なためかカラーコーンで封鎖されていた。明らかに水が湧くような場所では無い為、鴻臚館資料館か公衆トイレに繋がる地下の水道管から水漏れしているのだろうか?それとも本丸二の丸に降った雨水が一時的に地下を通って湧いている感じだろうか?


二の丸御殿跡
二の丸は東と西に別れているが、東二の丸はかつては御殿があった。現在は画像の通り、ラグビー場になっているが、グランドはやや低くなっており、地形が大きく改変されているものとみられる。


扇坂御門跡
東二の丸から西の上段の二の丸に向かう箇所には扇坂御門跡があり、枡形門の奥が扇状の坂になっているのが特徴である。現在は画像の奥のように扇坂ではなく二方向の階段になっている。


祈念櫓跡付近
画像は扇坂御門跡から二の丸上段に入り本丸祈念櫓跡を見た箇所で、この付近は石垣の修復工事が行われており、令和4年の4月まで続くようだ。


本丸表御門跡
二の丸から本丸に入る箇所には本丸の表御門跡があり、本丸の正門だけあってなかなか大きな枡形門跡であった。


本丸跡
本丸跡内部は全体的に木々が茂る公園で、ぱっと見ではほとんどが桜の木のようだったので春には華やかな景色になりそうだ。


天守台鉄御門跡
本丸から天守台に登る入口は鉄門の跡で、本丸より2mほど高い位置にあるため、画像のように仮設の階段が設けられている。また、門としても高さに比べてやや幅が狭い感じがする。


天守台埋門跡
鉄門の先は天守台の下段部分で、小さな枡形の曲輪になっている。画像に見えるのは鉄門とは別の方向にある埋門跡で、ここを抜けると本丸の南側の小さな曲輪に抜け出てしまう。天守台の上段に登るには、画像のようにこの埋門の石垣に登って門の上を通り天守台の地階に入るようになっている。この辺りはなかなか技巧的面白い。


天守台内部
天守台の内部の地階だった場所には礎石が残っており、鉄門跡からここまでの遺構を見ると、天守台は築いたが天守閣は築かれなかった説はちょっと信じがたい。最新の研究だと天守閣があったことを示す資料が見つかっており、天守閣を築いた後に何らかの理由で取り壊した説が有力になっている。


天守台からの眺め
福岡城自体は小高い丘陵の上に築かれている為、丘の頂上の本丸よりも高い位置にある天守台からの眺めはなかなか良い。建物が無くても画像のように遠くまで見渡せるため、天守閣があったとするなら最上階からの眺めは絶景だったと思われる。