2018年11月24日訪城。
脇本城を訪れた翌日は八郎潟を挟んで内陸側にある八郎潟町に向かった。目的地は八郎潟町の北東の浦大町にある浦城跡で、三浦氏の居城だった場所である。この三浦氏は相模の三浦氏と同じ一族で、流浪の末にこの地に土着したようだが、三浦盛永の代に檜山安東氏と湊安東氏の争いに巻き込まれて滅亡している。
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高岳山と浦城 |
八郎潟の街の中心から郊外に移動すると水田地帯が広がっているが、その先にかつての城下町である浦大町の集落が見える。画像左の山に目が行くが、こちらは高岳山(たかおかやま)という副川神社が鎮座する山で、城跡がある山は画像右の低い山の方である。
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副川神社の参道 |
集落から城跡に登るルートは3つあるようだが、今回は副川神社の参道から登るルートから入った。恐らくここが一番登りやすいルートだと思われる。
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駐車場 |
駐車場も副川神社ルートの途中にあるため、車で来た場合でも困らなそうだ。駐車場にはトイレもあるが、手作り感満載なので地元の方々が整備したのだろう。
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堀切 |
山道を指示通りに登っていくと、やがて高岳山との付け根にある堀切に出るが、ここが城跡の西端部となる。ここから曲輪に入り、どんどん東に行くと本丸に至るという連郭式のお手本のような御城である。
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朽ちた櫓 |
曲輪内部には秘密基地的な感じの櫓が設置されていたりしたが、残念ながらかなり年季が入っているようで、既に階段部分が朽ちてしまっていた。
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曲輪に設けられた柵 |
曲輪には他にも柵が設けられていて中世の城の雰囲気を再現しようとしている感があったが、こちらもかなり年季が入っているようだった。
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切岸を登る階段 |
曲輪を2つほど移動したところで、堀切の先に急な切岸が現れたが、ここには切岸を登るための階段が設けられていた。足場に多少不安なところがあったが、手すりのロープが比較的新しいものだったため、ここはなんとか登ることが出来た。ちなみに登らなくても帯曲輪を通って先に移動することはできる。
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屋敷跡の曲輪から鐘突き堂方面を望む |
切岸を登った先の曲輪は比較的広く、麓の看板に屋敷跡とあったのはこの曲輪のことなのだろう。曲輪の先に進むとまたしても堀切ごしに切岸が立ちはだかるが、ここは流石に高すぎるためか道は脇から登るようになっていた。
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鐘突き堂 |
登った先の曲輪は鐘突き堂のあった曲輪で、曲輪の端に櫓台のように盛り上がった土塁があり、この上にこれもお手製の鐘突き堂が建てられていた。ちなみに実際に鐘が釣られて突けるようになっていたので、訪城記念に一発叩いておいた。
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武者溜まり |
鐘突き堂のある曲輪から2mほど登った場所にある平場は武者溜まりの跡で、ここから見える画像の切岸の上がいよいよ本丸跡となる。
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本丸 |
本丸跡は意外と広く、何やら建物もあったが閉鎖されていて何の建物なのか判らなかった。この建物の裏には広場があり、遺構としては大きな井戸が確認できた。ここが城内最高所だが展望は微妙で、城下町方面を眺めるなら先ほどの武者溜まりからの方が良い。
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二重堀切 |
本丸から東にもさらに曲輪は続いており、二の曲輪とされる場所を抜けた先には二重堀切が確認出来た。ちなみに前述した屋敷跡のところの堀切も浅くはなっているが二重堀切っぽい感じだったので、重要な曲輪の外側には二重堀切を設けている感じだろうか。
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高速道路により消失した箇所 |
二重堀切より東にもさらに曲輪があったようだが、この部分は高速道路が通って山が切り取られており、これより東には移動できなくなっていた。本来ならば画像手前から奥に見える山の部分まで繋がっていたのである。
余談になるが浦城の本丸より南東側は八郎潟町ではなく五城目町になっており、浦城の内部に市町村の境界があるという不思議なことになっている。