2020年2月2日訪城。
小山田城から下山後は再び秋田内陸縦貫鉄道に乗って角館に戻り、武家屋敷付近の「桜の里」で昼食を食べた。流石に時期が時期だけに観光客は少なく、角館でも営業している店はかなり少なかった。
昼食後はさっそく武家屋敷の北部にある古城山へと向かったが、この古城山こそが戸沢氏が門屋城の次に居城とした小松山城である。戸沢氏が常陸国に転封された後は、佐竹氏一門の蘆名義勝が居城とするが、1620年に南麓に屋形を整備してからは廃城に近い扱いとなっている。
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城址碑
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とりあえず南麓から登り始めるが、ここにある城址碑は古城山城になっている。古城山城も小松山城も角館城も同じ城の名前だが、厳密には戸沢氏時代は小松山城で、蘆名氏時代は角館城(もしくは角館)、廃城後が古城山城の呼称である。
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南の登山道
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古城山の山頂まで車道サイズの楽な山道が付いているが、今回は急いでいることもあって南の直登に近い山道から頂上を目指した。
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腰郭
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中腹よりもやや上に来た所で腰郭を経由するが、ここはもしかすると元は横堀かもしれない。
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南の曲輪
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腰郭から更に登ると比較的大きな曲輪に到達するが、ここからは角館の城下町が一望できて素晴らしい。また、この曲輪は本丸直下の帯曲輪を経由して旧大手坂に繋がっている為、戸沢氏時代は何か重要な役目があった曲輪と思われる。
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帯曲輪
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前述の帯曲輪は笹薮に覆われており、冬場でも通行が面倒だった為、強引に押し通るのは断念した。
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本丸
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南の曲輪から階段を登った先が頂上の本丸で、山の上とは思えないくらい広い。現在は中心に五輪の塔と小松山城と書かれた城址碑があるだけだが、姥杉と姥桜という2本の天然記念物も存在する。ただ、前者の方は落雷で一度折れており、ちょっと無残なことになっている。
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北の曲輪脇の旧道
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今回は本丸に登ることではなく、戸沢氏時代の遺構を見ることが目的の為、階段状に北に伸びる曲輪脇の旧道から下山を開始した。ここを通ると山の北側に降りることになるが、戸沢氏時代は北側が大手で、城下町も北側の小松にあった。現在の城下町は1620年に蘆名義勝が整備したもので、この時に北にあった町屋を南に移してしまったのである。
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北の曲輪からの眺め
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北の階段状の曲輪群からは山の北側にある戸沢氏の所領が良く見え、ここに城を構えた理由が良くわかる立地である。なお、この時は午前中に居た門屋方面は雪雲に覆われていた。
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旧大手坂
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山道を降るとすぐに大きな旧道に合流するが、ここが恐らく旧大手坂で、画像の登った先が前述した帯曲輪に繋がっている。道を塞ぐように木々が生えていることから、山の北側は公園化で破壊されることなく自然に残ったようだ。
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旧大手坂の土塁
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旧大手坂を下っていくと、途中から坂の外側に土塁が設けられて下まで続いており、堀底道のような構造に変化する。なお、土塁の外側は沢になっており、ある意味巨大な竪堀である。
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枡形虎口
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麓に近いところまで来ると道は土塁で強引に折り曲げられており、この箇所が桝形虎口になっている。画像は枡形内側から見た土塁で、真後ろから降って来た道はここで左折を余儀なくされる。道自体は土塁の先に続いている為、虎口を目指して外から来た敵はこの土塁の上から狙い撃ちされることになる。
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旧大手口
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枡形虎口を抜けるとそこは麓の旧大手口で、ここにも城址碑がちゃんと立っていたのには驚いた。南の公園口方面は広葉樹(主に桜)なのに対して、こちら側は針葉樹で覆われている為、雰囲気としては真逆である。
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木橋
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大手口の前を横切る水路に対して木橋が架けられているが、やや朽ちかけてて渡る時に壊れそうなのが怖かった。
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本町橋跡
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大手口から出て水路を渡った正面には院内川が流れているが、戸沢氏時代はここに橋が架けられていて、対岸の小松の城下町(本町)へ続いていた。現在でも国土地理院の地図を見ると不自然に道が川で途切れているのが判る。なお、橋は1704年の絵図には本町橋という名前で描かれているが、それ以降の絵図には描かれていない為、江戸時代中頃に廃止されたか。
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旧城下町(本町)
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画像は旧城下町のメインストリートで、奥に見える山が古城山城(小松山城)である。現状では全く城下町らしいものが残っていないが、蘆名義勝の城下町移転が徹底していた証拠でもあるだろう。