2021年1月30日土曜日

南三陸町への所用の旅:黒崎館(宮城県南三陸町)

 2020年3月21日訪城。

折立の大平館から下山した後は、そのまま黒崎の岬の方に移動し、ホテルのある岬の先端よりも手前にある小さな集落へと向かった。この集落自体は丘の斜面にあり、集落へ入るにもBRTガード下を通る狭い脇道を通らないといけない。目的地はこの集落の上の方にある黒崎館跡で、本吉氏重臣の黒崎氏の居館があった場所である。1586年の歌津合戦の際には本吉氏の先鋒として黒崎兵部ら数百騎が歌津へと陸上から攻め込んだが、石名坂において歌津側の浅野時重と戦い敗れ、黒崎兵部は峠にさらし首にされたという。


黒崎不動尊
ガード下を潜った先に進むと黒崎不動尊があり、ここを左手に曲った先の坂を上った先が黒崎館跡となっている。この不動尊の由緒は不明だが、ひと山越えた先にある横山不動尊と関連がありそうな気もする。


黒崎館跡
民家のある位置よりも上の方に登っていくと、道の脇に画像のような朽ちた標柱が現れる。ここが黒崎館跡で、標柱も文字はかなり掠れているが、半分ほどはまだなんとか読むことができた。


主郭跡
標柱の背後にある見晴らしの良い平場が恐らく主郭跡と思われるが、屋敷がここにあったかどうかは判断に困る微妙な面積の曲輪である。


腰郭跡
主郭の側面には腰郭が付随しており、主郭との落差が小さいことから曲輪というより通路として利用されていた可能性がある。


曲輪跡?
主郭跡は眺めも良く、三方向は急斜面のため立地としては良いが、流石に敷地が狭い気もするので、道を隔てて北側の方も恐らく曲輪跡だったと思われる。ただ、こちらは面積は広いものの、傾斜しているため建物があったかどうかは怪しい。案外、集落全体が館跡で、郎党の家中屋敷が現在の民家や畑がある場所なのかもしれない。


切通
黒崎の集落を登ってきた道は館跡の所で一旦切通となり、集落の背後にある沢へと抜ける道になっている。背後の沢沿いには田畑の跡があり、平地の無い場所での生活の苦労がみてとれる。

ただ、歌津合戦の際に黒崎兵部は金田九郎治や木村加賀と共に数百騎を率いて出陣しており、少なくとも黒崎兵部だけでも100人近くの兵が居たはずだが、現状から見て黒崎の集落にそれだけの兵力があったようには見えない。つまり黒崎集落は黒崎氏一族が暮らした場所で、兵はここより北の大久保や林の集落から動員していたのではないだろうか。

2021年1月23日土曜日

南三陸町への所用の旅:大平館(宮城県南三陸町)

 2020年3月21日訪城。

志津川で昼食をとった後は黒崎の岬を越えて戸倉の方面へと移動し、河口の北側にある丘陵へと登った。ここは折立刑部の居城の大平館(折立城、戸倉古館)があった場所で、千葉彦右衛門の居城とも伝わっており、折立氏はこの地域一帯に地頭として入った千葉氏一族の末裔と思われる。天正の大崎葛西一揆の際に、折立刑部はこの城に一揆勢の残党の浪人や百姓を集めており、伊達政宗の命で派遣された富塚仲綱によって掃討捕縛されている。

丘に登る坂の途中から見た志津川湾
丘の東端部に登り口があり、丘にはそこから容易に登ることが出来た。丘の先はすぐ志津川湾になっており、現在はかなり高い防潮堤で仕切られていた。中世の頃は恐らく画像の辺りは波が打ち寄せる海岸線で、志津川方面とは船で移動していたものと思われる。


丘陵東端部の板碑
丘陵の上の東端部にある平場は現在は墓地になっており、この日は墓参り客がそこそこ居たので流石にカメラを構えて隅々見て周ることは出来なかった。ただ、東端の一角に画像の板碑が集められており、これだけは写真に収めた。なお、『仙台領古城書上』に書かれた千葉彦右衛門の館はこの今は墓地の平場を指していると考えられている。


堀跡
曲輪は東西に伸びる丘陵にそって階段状に並んでいたと思われ、曲輪と曲輪を隔てる堀跡も確認できた。


堀跡?
坂道が途中で折れ曲がって丘を横切っている箇所も恐らく堀跡と思われ、この道沿いに「大平折立館遺跡」の看板が設置されている。看板には昭和56年の発掘調査のことが書かれているが、資料によればこの画像右側のあたりを調査して中世の曲輪跡と通路跡、柱穴などを発見している。


曲輪跡
ただ、発掘調査が行われたとされる曲輪跡は現在は猛烈な藪になっており、現状からはたぶん平場なんだろうなということしか分からなかった。


曲輪跡
この付近には曲輪跡と思われる空間が遠目に確認でき、画像の奥なんかは植生から見て平場であることは間違いない。ただ、周囲は密度の高い笹薮などによって覆われており、流石にお手上げだった。


曲輪跡?
丘を更に登っていくと耕作地となっている平場に出るが、東側の畑は恐らく曲輪跡と思われるものの、西側の方は緩やかな傾斜地になっており、曲輪跡かどうかは判断に困る。


丘の頂上
耕作地より西側は森になっており、丘の頂上は広い平場にはなっているものの、切岸や土塁などは無く、斜面も緩やかであまり曲輪跡という感じがしない。恐らく城の主郭は丘の東端部で、後から西の丘の上に向かって曲輪が拡張されていったのではないだろうかと思われる。


頂上の板碑
頂上は前述の通り平場以外に遺構は見られないが、遺物としては板碑が散乱していることが確認できた。そこらへんに転がっている石は確認した限りでは全て板碑で、画像の通り文字がハッキリと掘られていた。


中腹付近の板碑
板碑は丘陵全体に散乱しており、画像のように何気なく転がっている石は例外なく全て板碑だった。流石に全て数える気にはなれなかったが、少なくとも二桁はあった。南三陸町の資料によれば南北朝時代あたりからこの地域では板碑がブームだったようなので、これらはその遺物と思われるが、仮に頂上付近の板碑が城より古いなら頂上付近は元は城外だったのではないだろうか。

2021年1月22日金曜日

南三陸町への所用の旅:震災復興祈念公園(宮城県南三陸町)

 2020年3月21日訪問。

朝日館の散策後、お昼が近いので一旦復興市街へと戻ることにするが、その途中で「震災復興祈念公園」へと立ち寄った。

公園の案内図
公園自体はまだ工事中で未完成だったが、主要部分は既に公開されていたので、まず真っ先に園内に高くそびえる「祈りの丘」に登ることにした。


祈りの丘から見た旧防災庁舎
「祈りの丘」は海抜20mの高さがあり、南三陸町の市街地を襲った16.5mの津波よりも高く築かれている。画像の奥に見えるのは当時の震災報道で何度も見た旧防災庁舎で、津波はこの庁舎の屋上のアンテナの高さまであった。その庁舎が眼下に見えることから、丘の高さが良くわかると思う。


祈りの丘から見た「みらいの森」
眼下に見えるのは「みらいの森」と呼ばれる園内の区画で、いずれは緑に覆われた区画になるのだろうが、今はまだ寂しい感じである。


祈りの丘の頂上
祈りの丘の頂上には海を向いた慰霊碑があり、公園は未完成であるものの既に花がいくつか手向けられていた。丘の頂上はそこそこ広く、一時的ならかなりの人数を山頂に収容できそうだが、障害物が無いので時期と天候次第ではキツイかもしれない。


旧防災庁舎
祈りの丘から降りた後は旧防災庁舎の近くまで行ってみたが、外壁が無くなった無残な状態よりも、鉄骨の支柱は十分津波に耐えれるということが良くわかる点で希望が持てる。日本全国で造られている津波タワーのスカスカ構造は実に理にかなっているのだ。


麓から見た祈りの丘
なお、祈りの丘は四方向に階段の付いた巨大な丘で、遠くから見るとまるで古代遺跡のようにも見える。なお、階段とは別にバリアフリー用のスロープも付いている。


2021年1月18日月曜日

南三陸町への所用の旅:朝日館(宮城県南三陸町)

 2020年3月21日訪城。

新井田館跡に寄り道した後は本命である朝日館跡を訪れる為、今も所々で工事が続くかつての街中を抜けて西側の丘陵地帯を目指して移動した。

朝日館は三陸沿岸に影響力を持っていた本吉氏の居城だった場所で、古くは奥州藤原氏の一族の本吉四郎冠者高衡の居城だという。ただ、中世の本吉氏は奥州合戦後にこの地方の地頭となった千葉氏の一族であり、本吉高衡の末裔では無い。

朝日館遠景
水尻川沿いに上流へ向かうと城跡のあった丘が見えてくるが、3.11の時はここまで津波が来て丘の麓にあった集落は全滅し、今は画像の通り中腹の民家だけが残っている。城跡へ登る東側山道がこちらに有るらしいが、当初は分からなかった為、丘の裏側に回って西側山道から登ることにした。なお、下山時に確認したが東側山道は画像の民家手前の坂を登っていった先にあった。


西側山道
丘の裏側に回るとそこには下保呂毛の集落があり、ちょっとした隠れ里のような雰囲気を醸し出していた。その集落の奥に向かう道の途中から分岐して西側山道があり、そこを道なりに登っていくと城跡へとたどり着く。


西側の腰郭群
山道脇にはいくつかの平場が雛壇状にあり、一部は藪化していたが果樹のような木々が植えられていた。。


虎口跡
しばらく登っていくと城内の重要な曲輪(便宜上、西曲輪と呼ぶことにする)に入る虎口が見えてくるが、特筆すべきはここに石垣が使用されていることで、葛西氏家臣の本吉氏の時代にこの辺りで石垣が使用された例は無い為、伊達氏の時代に改修されたか、廃城後に造られたものだろうか。


土塁(物見台?)
西曲輪の西側には土塁があるが、画像の箇所はどちらかというと物見台のような感じで、上には小さいながらも平場がある。構造的には曲輪の造成時に丘のピークの一部を残したように見える。


物見台らしき箇所の上には現在祠が祀られており、真新しい注連縄などから現在もちゃんと管理されているようだ。資料によってはここを城主の墳墓としており、それが本当なら祠は本吉氏を祀ったものだろうか。


西曲輪と東曲輪の境界
西曲輪内部は現在は荒れた感じになっているが、ちょっと前までは果樹園か何かだったような木々が見える。そして、西曲輪の東側には堀切を挟んで低めの土塁があって東曲輪との境界になっている。


東曲輪中央の土塁
東曲輪は真ん中付近に大きな土塁があって2つに分割されており、東側の曲輪の方が広いので主郭と思われる。この土塁は規模の大きさから見て恐らく丘の頂上に曲輪を造成した際に削り残して造った土塁だろう。それでも城内ではこの土塁が一番の見所であった。


主郭跡の観音堂
主郭跡には現在は観音堂ともう一つ小さな御堂があり、老朽化でどちらもやや痛ましくなっている箇所があった。主郭は丘の東端にあるため、恐らく当時はここから志津川湾が見えたと思うが、今は針葉樹が覆い茂っていて展望は利かない。


カモシカ
観音堂の参道は主郭南の腰郭に降りた後に東の麓に向かって伸びていた為、帰りはこちら側から下山したが、この道中でカモシカに出会った。丘自体はちょっとした森になっているものの、丘の東西には民家もあるためここにカモシカが居るのは予想外だった。なお、いつもはカメラを構えると逃げられたりするのだが、珍しく今回はずっと視線があったまま動かなかった。

2021年1月12日火曜日

南三陸町への所用の旅:新井田館(宮城県南三陸町)

 2020年3月21日訪城。

南三陸町を訪れた翌朝は志津川方面に行き、目的地に行く前にある場所に寄り道した。それはかつて本吉氏家臣の志津見五郎の居城である新井田館があった山の跡である。

新井田館跡 真東からの遠景
その山は日本全国から集められた調査員によって全山発掘調査が行われ、室町時代の詳細な城跡の様子が判明した。当時まるで天下普請のような発掘調査方法に驚いた記憶がある。画像奥の団地があるあたりに志津川湾が見渡せる高さの山城があったが、団地の建設と沿岸部の嵩上げ用の土砂の確保も兼ねて"山"ごと消滅した。

新井田館跡 南東からの遠景
山のあった場所はただの高台に変貌しており、画像左手奥に見える西側の小学校がある高台よりもむしろ低くなっている。余談になるが、googleのストリートビューに消滅直前の山の様子が残っており、山頂手前あたりまで登れる。


北側の山の名残
現在、志津川中央団地となっている跡地を散策してみたが、残念ながら新井田館跡があったことを示す標柱や説明板などは無かった。団地の北側に山裾部分が残っており、かつて山があったことの名残となるのはこれくらいだった。

2021年1月11日月曜日

南三陸町への所用の旅:歌津館(宮城県南三陸町)

 2020年3月20日訪城。

三嶋館跡を見た後はそこから海岸線沿いを移動して歌津館へと向かった。歌津館は伊里前湾に突き出た歌津館崎という文字通りの岬にある城館で、1586年の本吉大膳と歌津十二人衆の戦いである「志津川湾海戦」では、歌津側の主力であった馬籠四郎兵衛の居城だった場所で、合戦は馬籠四郎兵衛が清水浜の北山家の後家に婿入りしたことが発端のため戦いの当事者でもある。

歌津館遠景
伊里前漁港付近から海側を見ると湾に突き出た岬が見え、あそこが目指すべき歌津館跡である。岬の根本には港を擁しており、当時も恐らく多数の船が係留された海城だったのだろう。


通行止め
海岸線を移動して館跡まであと300mほどになった場所で、まさかの通行止めに愕然とする。海岸線はずっと一本道で、迂回するには1kmほど戻らないといけない上に、迂回した先の山の上の道路も状況が判らないので、悩んだ挙句時間的に厳しいと判断して今回は諦めることにした。


伊里前湾
なお、「志津川海戦」はこの画像の海で繰り広げられたようで、案象沖という地点で歌津十二人衆の盟主である中館藤右衛門が討死したことで歌津勢は総崩れとなり決着が付いた。

2021年1月10日日曜日

南三陸町への所用の旅:三嶋館(宮城県南三陸町)

 2020年3月20日訪城。

3月あたりからちょうどコロナの話題で騒がしくなってきており、花粉症持ちなこともあってあまり外には出たくなかったが、震災関連の所用で南三陸町に行くことになった為、この機会に南三陸町の史跡の現状を確認しておくことにした。

最初に向かった先は歌津の三嶋館跡で、葛西氏家臣の浅野時重の居館である。1586年に起こった本吉大膳と歌津十二人衆の戦いである志津川海戦において、陸上戦の激戦地だった場所であり、浅野時重はこの三嶋館の南の方にある石名坂(細浦坂)で本吉軍を一度打ち破っている。

三嶋館遠景
歌津のかつて伊里前の街があったあたりは嵩上げ等の工事が現在進行形で行われており、国道45号バイパスが津波で消滅した為、旧国道45号から三嶋館前で折れ曲がりバイパスに合流するルートが現在の国道45号となっている。画像奥に見える独立丘陵が三嶋館跡であるが、この丘は60年代頃のバイパス工事で画像右側の奥が消失している。


三嶋神社の参道から見た城下町跡
三嶋館跡には現在三嶋神社が祀られており、かつては神社の参道前から西に向かって街道がまっすぐ伸びていた。画像の手前から奥に向かって街道があったのだが、震災による津波で消滅しており、現在は更に地盤が嵩上げされて面影は全くなくなってしまった。震災前の航空写真を見ると三嶋館跡から西に伸びた道沿いに街が形成されており、元々は城下町だったことが想像できる。


三嶋神社境内
参道の階段を登った先は三嶋神社の境内になっており、恐らくここが二の曲輪跡と思われる。ここには土塁が一部残っており、北側に虎口と思われる構造が確認できる。なお、神社が館跡に勧請されたのは元禄の頃で、計仙麻大島神社から分霊したものだという。


主郭跡の切岸
神社のある曲輪よりも東に行くと主郭跡の切岸と思われる2~3mの段差が確認できる。本来はこの上が主郭跡と思われるのだが…。


主郭跡西から主郭跡東を望む
現状は画像の通りで主郭跡の中心部がごっそり丘ごと消滅している。画像の奥に東端部の残丘が見えるが、かつては手前の丘と繋がっていた。


消失した主郭跡
消失した主郭跡の丘の部分には国道45号(旧国道45号バイパス)が通っており、60年代頃のバイパス工事で消失したらしい。かろうじて60年代の白黒航空写真で主郭跡が確認できるが、70年代の航空写真では既に消滅している。


主郭跡東から主郭跡西を望む
国道脇から東の残丘に登れる道が付いているが、ここから登って神社がある側の丘を見ると画像のようになっている。


館跡の東端部
東の残丘部分にわざわざ後から道を付けた理由は画像の祠があるからのようで、この場所は東側の腰郭跡にあたる。この部分は伊里前湾に突き出た岬の先端でもあるため、当時は海側を監視するための場所だったと思われる。

2021年1月5日火曜日

新春の奥久慈への旅:池田古館(茨城県大子町)

 2020年2月24日訪城。

鏡城から下山後はそこから500mほど北にある池田古館へと向かった。池田古館は佐竹氏家臣の滑川六郎の居館と伝わっており、佐竹義篤が白川結城氏から依上保を奪還した後に池田の地を宛がわれたという。


池田古館内部
池田古館は久慈川左岸にある方形単郭の平城で、久慈川の浸食の影響なのか元からなのかはわからないが、やや長方形の縄張りになっている。内部は画像の通り畑になっており、特に目に付くものは無かった。


北側の空堀
古館の西側は久慈川に接し、残りの3方向に空堀が掘られているのが今も確認できるが、特に北側の空堀がよく残っており、ここが一番の見所だった。


南側の空堀
東側の空堀は中華料理店の裏あたりは埋め立てられており、南東に僅かに確認できるが国道118号が通っているため元の幅が良くわからない。南側の空堀は北側に比べると小さすぎる為、畑の拡張などで埋められてしまった感じがする。


2021年1月3日日曜日

新春の奥久慈への旅:鏡城(茨城県大子町)

 2020年2月24日訪城。

棚倉町から矢祭町に戻って一泊した翌日は水郡線で再び水戸方面へと移動し、大子町で代替バスに乗り換える為に駅から出た。バスの待ち時間が勿体ない為、乗るバスは何本か後に回し、大子の街中を抜けて久慈川を渡った先にある鏡城を目指した。

鏡城は707年に近津明神のお告げを夢で見て近津神社を創建した藤原富得の居城と伝わっており、子孫は代々宮司を務めて中世には佐竹氏の家臣となっている。16世紀の白川結城氏の常陸侵攻時に家臣の関氏によって攻め落とされており、白河結城氏家臣の深谷氏が一時城代を務めたが、後の佐竹義篤の反攻で奪還されている。

山倉稲荷神社
城のある山への登山口はおおまかに2つあるようだが、登りは山倉稲荷神社という目印がある南の尾根先から登った。


南尾根
南尾根は一旦尾根に登ってしまえば緩やかな登りで歩きやすかったが、途中に画像のような岩場があって道が折り曲げられていた。尾根筋の道を登ってきた敵を迎撃するにはちょうどいい構造だが、見た感じでは自然石のため意図して造られた構造なのか偶然たまたまこうなっただけなのかは判断がつかない。


尾根の分岐点
南尾根は途中で南東方面に伸びる尾根と合流し、北に鏡山があるため逆Y字型の構造になっている。今回は南東尾根も気になったので、鏡山に登る前に確認しておくことにした。


南東尾根のピーク
南東尾根は見た感じでは自然地形で、しばらく進むと南尾根よりも高いピークに辿り着いた。地形的には東に広がる山々と繋がっているが、このピークの先は急斜面になっており、実質ここで切断されている。


南東尾根ピークからの眺め
ピークの上は狭くハッキリ言って城の遺構らしいものは確認できないが、画像のように街の方面を眼下に見ることが出来たので、物見台があった可能性があるかもしれない。


鏡山鞍部
南東尾根から再び合流点へと戻り北に進むと一旦鞍部になるが、ここでもう一つの登山道と合流している。また合流ポイントに城址の説明板も設置してあった。


文化二年の供養碑
鞍部から更に進んで鏡山斜面の山道を登っていくと、途中に文化二年の供養碑があった。時代的には江戸時代で、ちょうど伊能忠敬が地図作成のために東海道付近を測量していた頃である。梵字でオンの後に「最勝三□讀誦供養」(※□は該当する漢字が見当たらなかった)と書いてあるので法要に関するものだとは思うが、何故ここにあるのかは謎である。


雷神社
山道をしばらく登ると頂上の雷神社の鳥居が見えてくるが、鳥居の手前には帯曲輪があることが確認できた。ただ、この帯曲輪に至るまでは特にこれといった遺構は見られなかった。


主郭
主郭部分は想像していたよりも広く、神社の東側には画像のように削平地が広がっていた。この主郭以外は小さな腰郭や帯曲輪でしか無い為、山城としてはかなりシンプルな構造である。

帯曲輪
主郭の一段下に帯曲輪があり、北側は腰郭と合わせて三段になっているが、曲輪自体はかなり狭い。斜面がやや急なので年月の風化で削れたのかもしれない。


鏡山南西麓の登山口
結局、見所は山頂の周囲にしか無かったので、ぐるりと見た後は下山した。帰りは鞍部から西側に降りる登山道を使ったが、こっちは雨水で道が削られていたりして意外と歩きづらかった。登山道を下りて行くと画像の畑のあたりに出てくるが、車道に出るまで農道や民家裏を通る為、予め知っていないと判り辛いかもしれない。