2020年3月31日火曜日

夏の静岡日帰りの旅:駿府城(静岡県静岡市)

2019年8月18日訪城。

夏のある休日、静岡の駿府城へと出かけてきた。駿府城はもう何度も訪れているが、大御所徳川家康の隠居所となった近世平城である。


外堀
この日外堀の一角では工事が行われており、外堀の水が抜かれて底が見えていた。駿府城の堀はそこそこ大きい方だけに底が見える光景はなかなか珍しかった。


武家屋敷跡
この日駿府城を訪れた理由の一つに武家屋敷跡の発掘現場を見たいというのがあったが、フェンス越しに見ただけでは遺構がさっぱり見えず、ちょっと残念な結果だった。


水祭
二つ目の理由にちょうどイベントをやっているということがあったが、実際城内はかなり凄い人出だった。中でもアイドルか何かが来ているようでそれっぽいファンが舞台会場の周辺に集まっていたのが印象的だった。なお、自分は出店をはしごするのが楽しかった。


天正期の天守台跡
三つ目の理由に天守台の発掘跡を見るというのがあった、特に家康時代の天守閣の内側から秀吉時代の天守閣が出土したと聞いており、それを見たいというのもあった。画像がその秀吉時代の天守台の石垣だが、見た感じ野面積みっぽく、全く別の時代に築かれたというのが良くわかるものだった。


天守下門跡
あと、以前来た時は埋まっていた箇所が新たに見えており、これもなかなか興味深いものだった。画像の奥がその箇所でどうやら本丸の北門跡らしい。


天守台付近の絵図
画像の絵図の天守台右隣りにある桝形虎口が天守下門跡であり、本丸から二の丸に向けて木橋が架かっていたという。

2020年3月29日日曜日

夏の広島旅行:吉川元春館(広島県北広島町)

2019年7月30日訪城。

広島旅行の最終日は広島バスセンターから庄原方面行きの高速バスに乗って北広島町へと移動し、千代田インターのバス停で豊平方面行きの路線バスに乗り換えて海応寺へと向かった。海応寺地区は毛利三兄弟の次男の吉川元春が隠居の地として選んだ場所で、その館跡が整備されていると聞いて是非とも訪れたかった場所である。

戦国の庭歴史館
海応寺地区に着いてまず驚いたのは山間部のほとんど平地の無い山奥ということで、山陰の覇者である吉川家の当主が晩年に暮らした場所としては質素過ぎることであった。とりあえず、まず資料館に向かったが、場所が場所だけによっぽどの歴史マニアじゃないと訪れ無さそうな立地が心配になる。内部は普通に吉川元春館に関する展示や、映像などがあって散策の参考になった。


屋形跡の正面
屋敷は志路原川が蛇行する箇所の丘の上にあり、東側に大手の虎口がある。屋敷自体は丘の東を石垣で補強された曲輪にあり、この石垣の手前は腰郭のようにちょっとしたスペースになっている。


石垣
石垣はだいたい3mくらいでそんなに高くない為、防御というよりは丘の斜面を補強するためのものと思われる。それでも石垣がずらっと並んでいると見応えがあって良い。


復元された台所
屋敷跡では台所の建物が復元されており、内部に自由に入れるようになっていた。たぶん休憩施設も兼ねているんだろうか。


台所内部
台所の建物の内部はよく出来ており、画像のように竈なんかもしっかり作られていた。もしかすると実際に使用できたりするのだろうか。


建物跡
台所以外の建物は建物跡の表示と範囲だけが平面表示されており、これを見ると主殿なんかは思ったよりも小さく感じた。


庭園跡
屋敷の内部で特に興味深かったのは庭園の跡で、池の底には石が敷き詰められており、建物と違ってこれは当時のままだというのがポイントが高い。吉川元春が御殿で見ていた光景の一端が今も見られるのだから猶更である。


吉川元春墓所
屋敷から西の山の中に入って行くと、しばらく登った場所に吉川元春と元長の墓所があった。当初はなんでこんな森の中にと不思議に思ったが、昔は地名にもなっている海応寺(海翁寺)という寺院がここにあったようである。吉川家は結局岩国に移されており、寺院もそれで無くなったようだ。


南の空堀
屋敷の北と東は段丘崖で、西と南が丘に続いている為、この箇所に堀が造られている。西側は墓所に続いていたせいか堀が小さいが、南側はしっかり丘を切断する空堀が設けられていた。


松本屋敷跡
吉川元春館跡を散策した後は北に300mほど離れた場所にある松本屋敷跡も訪れた。こちらは吉川元春の奥方の屋敷跡で、緩やかな斜面の上に山側以外を石垣で補強された長方形区画があり、やはり中央付近に虎口と見られる凹みが見られた。ただ、吉川元春館のように整備はされておらず、内部にも入れなかった。

2020年3月28日土曜日

夏の広島旅行:厳島神社(広島県廿日市市)

2019年7月29日参拝。

午前中に名古屋城を散策した後は広電に乗って宮島口まで移動し、厳島神社のある宮島へと向かった。厳島神社は593年に佐伯鞍職が社殿を建てたのが始まりだが、1168年に平清盛によって寝殿造りで改築されて現在の姿になったという。

フェリーから見た厳島神社
宮島口からのフェリーは2種類出ているが、広電の一日乗車券に付いているのは松大汽船のため、そちらに乗って宮島へと向かった。なお、もう一社はJR系のフェリーのため、そちらは18きっぷ等で乗れる奴である。


表参道商店街
宮島に着いてから表参道商店街を通って神社へと向かうが、商店街は観光客で溢れており、半分以上は海外の観光客だった。ちょうど昼時だった為、参拝前に商店街で穴子飯を食べたがこれがなかなか美味かった。


宮島の鹿
宮島では至る所に鹿がおり、すっかり人に慣れていて全く逃げる素振りはなかった。流石に商店街の中には居なかったが、大きな通りや商店街の外れなどには普通に鹿が歩いていた。


大鳥居
商店街を抜けた岬の先の入り江に厳島神社は鎮座しており、ちょうど入り江の口の部分に大鳥居が建っていた。引き潮のため鳥居のそばまで行くことが出来たが、満ち潮の時は普通にここは沈んでいる場所である。今回は満ち潮まで見れなかったのでいずれは再訪したいところ。なお、この鳥居は修理に入るらしくこの日は職人さん達が足場を組んでいた。


水の参道
現地を訪れて初めてわかったことだが、神社側から海に向かって川が出来ており、この川が鳥居を通って海へと出ている。要するに水の参道が出来ており、これはなかなか興味深い構造だった。


拝殿から大鳥居を見る
厳島神社の社殿へと入り、拝殿にて参拝を済ませたが、ここの拝殿から見る大鳥居の景色がなかなか絵になる風景で良かった。


社殿正面
社殿の正面には桟橋のようなデッキが付いており、これは厳島神社でしか見られないなかなか独特な構造で素晴らしかった。平舞台と呼んでいるそうなので、画像中央の舞台で神事の舞を行ったりするのだろう。


能舞台
面白いのは本格的な能舞台も社殿の中にあり、実際ここで能が行われているそうである。ちなみにこの能舞台は毛利元就が寄進したのが始まりらしく、当時元就と三兄弟達がここで能を見ていたと思うと感慨深い。


宮島の町の風景
宮島の町はけっこう時代情緒にあふれる建物も多く、画像の建物で二階の縁側に花(コスモスか?)がある風景はパッと見で心を打たれた。


紅葉谷の滝
その後、紅葉谷の公園を通って弥山に登るロープウェー駅へと向かったが、意外と遠い場所にあり、山の中腹まで歩くことになったのは計算外だった。しかも、ロープウェー駅に着いたとたんロープウェーは落雷防止のため停止し、結局待っても再開されなかった。この日の散策は非常に未練の残る形で終了することになり、いつか必ず再訪することを強く心に誓った。

2020年3月27日金曜日

夏の広島旅行:広島城その2(広島県広島市)

2019年7月29日訪城。

京口門跡に近いホテルで一泊した翌日、再び広島城めぐりを京口門跡からスタートした。

京口門跡
画像は京口門跡があった場所で、今は京口門公園になっており、遺構は見られないが公園に石碑が立っている。画像の奥が城内で、京都方面からやって来た武士や役人は当時はここを通っていたわけである。


中堀跡
京口門跡から200mほど西に行った場所にテニスコート場があるが、ここの南側の歩道と車道は中堀の跡である。


中堀跡のプレート
歩道沿いにあるプレートには発掘された中堀の古写真が載っており、当時の広島城の三の丸と外郭の間の堀の様子が良くわかる。それだけに今はすべての中堀が埋め立てられて見ることが出来ないのが悔やまれる。


三の丸南門跡
中堀跡の西の延長線上には三の丸の南門跡があったはずだが、ここはいくら探しても痕跡や説明板等は無かった。なお、当時は内枡形の城門があったことが古絵図から判っている。


暗渠跡
三の丸跡にある交差点の地下道には暗渠跡の断面があり、この暗渠は当時は中堀と内堀を繋いでいたものだという。


二の丸跡内部
前日同様に二の丸の表御門から二の丸へと入ると、前日は暗くて判らなかったが、内部の建物跡を平面復元していることに気付いた。あと、ここはどう見ても本丸の馬出であり、二の丸と呼ばれていることに違和感が残る。


櫓内部の隅の窓
前日は既に営業終了していたため櫓内部を見れなかったが、この日は営業開始に合わせて訪れた為、ちゃんと内部を見ることが出来た。内部には木造復元に関する展示等があったが、それよりもやはり建物自体の構造が興味深く、櫓の隅の窓が画像のようになっていることなどが珍しかった。


大本営跡
二の丸から本丸へと移動し、再び天守閣や御殿跡のある上段へと向かう。上段の中央付近には画像のように立派な石の台座があったが、これは広島城の遺構ではなく昭和の頃にあった大本営の建物の台座である。ただ、昭和の頃まで城が現役の軍事拠点だった証拠でもあるので、ある意味これも広島城の歴史の一部である。


天守閣礎石(移設)
本丸上段の北部には天守閣跡にあった礎石が移設されている。現在の天守閣は外観だけ復元した鉄筋コンクリートの建物であり、基礎を造る時に邪魔だった為にこちらに移されて展示されているのだという。


天守閣
前日も思ったことだが、やはり本丸内部からは樹木が邪魔で天守閣が良く見えない。なお、天守閣内部は資料館及び体験型施設になっている。


天守閣からの眺め
天守閣の最上階からは城内の様子が良く見え、なかなかいい景色だった。流石に都市の中心なだけあって本丸の周囲はビルだらけだが、当時は海まで見えたのだろうか。


三の丸土塁
天守閣に登った後は前日同様に本丸の裏門跡から出て今度は北側へと向かった。三の丸の遺構は目に見える形で残っていないと思っていたが、裁判所の北側に土塁がしっかり残っており、これは予想外の収穫だった。この土塁を越えた先は北の外郭となる。


外堀石垣(移設)
北の外郭跡は大部分が堀沿いの公園と高校の敷地になっており、その西側の歩道沿いに外堀の石垣が展示されていた。この石垣はアストラムラインの建設時に発掘された外堀の石垣を移設したものだという。


地下道の外堀跡の表示
そのアストラムラインの城北駅に隣接する地下道はちょうど外堀の角のあたりを横切っており、外堀のあった位置を石垣状のオブジェで表示していた。

2020年3月24日火曜日

夏の広島旅行:広島城その1(広島県広島市)

2019年7月28日訪城。

岩国から再び広島に戻り、西広島駅から広電に乗り換えて市の中心部へと向かった。目的地はもちろん毛利輝元が築いて、福島正則が拡張整備した広島城である。

櫓跡
太田川(本川)を渡った先はいよいよ広島城の外郭跡で、今は市街地化してしまって曲輪の痕跡は無いが、原爆ドーム駅の近くには外郭の櫓跡の石碑が立っていた。要するに広電も走っている東西に伸びる相生通りは外堀を埋めた跡ということになる。


外堀跡
前述の櫓跡は南の外郭の南西隅にあったものらしく、当然ここから北に伸びる外堀もあったはずで、実際櫓跡や大通りよりも少し低くなった通りが北に伸びていた。


西の外郭跡
一旦太田川沿いに出るが、ここも西の外郭跡になり、川沿いには当時は櫓が建ち並んでいたそうである。その櫓跡の痕跡が残ると聞いたが、残念ながらどこが櫓跡なのか特定できなかった。川沿いに突き出ている石垣は新しかったのでたぶん違うと思うが…。


中堀の石垣(移設)
川沿いから城南通りに出て東に行くと三の丸跡に入るが、外郭跡と三の丸跡の境界は全く分からなかった。アリーナの交差点の近くには石垣が移設されていたが、これは体育館を建てる時に出土した中堀の石垣だという。


表御門
すっかり日が沈んで暗くなってしまったが、広島城の二の丸、本丸は夜でも入れるようだったのでそのまま散策を続行した。画像は二の丸の表御門で、平櫓などと共に忠実に復元された建造物である。


平櫓と太鼓櫓
二の丸は内堀沿いの平櫓(画像左)と太鼓櫓(画像右)が見える景観が実に近世のお城らしくて素晴らしかった。


本丸下段跡
二の丸跡を抜けて本丸跡に入るとそこは護国神社の敷地になっており、夜だというのにまだ明りが灯っていた。


天守閣
真っ暗な本丸上段を抜けてなんとか天守閣にたどり着いたが、ライトアップされた天守閣は内側からだと、木々が邪魔で角度がキツイ等で地味に撮り辛かった。


外堀の石垣(移設)
本丸を裏門跡から抜けて東に行くと、検察庁付近にも石垣を移築したオブジェのようなものがあった。なお、検察庁の東側に南北に伸びる通りが外堀跡だという。


京口門跡
外堀跡を南に移動すると京口門公園があり、ここが外郭の東口にあたる京口門の跡だという。なお、残念ながら石碑があるだけで遺構は無いようだった。