2020年4月30日木曜日

横手盆地の紅葉の旅:大鳥井柵(秋田県横手市)

2019年11月2日訪城。

横手城を散策した後は、横手の街の北側へと移動し大鳥山へと向かった。ここには横手城よりも古い平安時代の城柵があるからである。この城柵は清原頼遠によって築かれたもので「後三年の役」では激戦地となり焼失した。


大鳥井山神社の鳥居
大鳥山へは大鳥公園から行けるが、今回は幸町から真北に伸びる大鳥井山神社の参道からアクセスすることにした。参道を登った先には画像の通り、真っ黒い鳥居があるが、後述する神社本殿も黒かったので祭神に月夜見大神(ツクヨミ)を祀っている為なのだろう。


清原頼遠居館跡
鳥居を潜った先の平坦な曲輪は清原頼遠の居館跡とされており、画像のような石碑が建てられていた。素人目には平坦地にしか見えないので、特にこれといった見所は無かった。


堀切跡
居館跡からさらに丘に登ると堀切跡があり、この堀切は山の頂上に向かうまでに合計3つ設けられていた。


大鳥井山神社
山の頂上には大鳥井山神社が鎮座しており、この神社は横手城が廃城になった後に横手平城の建材で建てられた。しかし後に焼失し、現在の本殿は再建したものである。前述した通り祭神は月夜見大神で、本殿は真っ黒である。画像は逆光のせいで判り辛いが本当に黒いのである。


発掘調査時の写真
神社の側にあった発掘調査の説明板によると山頂は二重の堀で仕切られており、掘立柱の建物が建っていたようである。執拗に堀が設けられていることから大事な建物があったようだが、籠城時の本陣を兼ねた儀式用の施設だろうか。


二重堀跡
現在はごらんの通り埋め戻されて全く分からないが、この場所には二重堀があったという。遺構の保護も兼ねているのだろうが、贅沢を言うなら直接見えるようにしてほしいものである。


中腹の横堀
大鳥山の北側の中腹には比較的大きな横堀が設けられており、小吉山との間の沢も堀扱いだったようなので、この方面には二重三重に堀が設けてあることになる。


小吉山火葬墓跡
小吉山は南北に伸びた細長い丘で、丘の上には火葬墓跡があった。画像の箇所からは石棺が2つ発見されているが、火葬なのでどちらかというと石棺というより骨壺に近い。


雷神社
墓の隣には雷神社の小さな社が鎮座していたが、何故ここにあるのかはよく判らなかった。ちなみに神社の脇(画像左側)に火葬墓の石棺の写真に似たものが転がっているが、果たして何なのだろうか。


発掘調査時(上)と現在(下)の地図
発掘調査時と現在の図面が現地の説明板にあったので見比べてみると、現在は大鳥公園の丘の東側(画像だと下側)にかけて盛り土されて丘の平坦部が拡張されていることが判る。


二重堀跡
つなり地図を比較すると大鳥公園のグラウンドの真ん中あたりに二重堀が眠っていることになるが、画像の通り現状は全く分からない状態である。


丘の東端部
丘の東端部を見てみると羽州街道側よりも2~3mほど高くなっていることが判る。この丘の端は盛り土部分なので、本来の東端部は奥のフェンスのあたりにあったことになる。盛り土する前はこの場所には水堀に相当する池があったようである。

2020年4月29日水曜日

横手盆地の紅葉の旅:横手城(秋田県横手市)

2019年11月2日訪城。

秋も深まった頃、城址の紅葉を見る為に秋田県の内陸南部へと出かけてきた。最初に向かったのは横手市で、何度か訪れたことのある横手城がある城下町である。

羽黒の柳
まずはかつて武家屋敷があった横手市の羽黒町へと向かったが、途中に市指定天然記念物の「羽黒の柳」を見つけた。流石に柳は紅葉しないようだが、その立派な巨木っぷりに目を奪われた。これでも樹勢は衰えて幹は折れて全盛期の2/3くらいの高さになっているというのだから恐ろしい。


羽黒町の武家屋敷通り
残念ながら武家屋敷そのものは残っていないが、鍵の字に折れた道などの町割りが今も残っており、木製の黒塀に紅葉が映えていい感じの風景だった。


八柏大和守道為殉難の地
羽黒町から城の大手に向かって進むと、途中で橋のたもとに「八柏大和守道為殉難の地」の石碑がある。八柏道為は小野寺氏の重臣で、智謀に長けて戦にも強かったという。このため、敵対する山形の最上義光は道為が最上氏に内通しているという嘘の情報を流した。これを信じた小野寺義道は横手へ登城する途中の道為をこの地で暗殺したという。小野寺氏は義道の代にはかなり追い込まれており、精神的にも弱っていたところを付け込まれたのだろうが諸行無常である。


七曲坂
城下から七曲坂を通って横手城へと登城するが、この道は当時の大手道だという。ただ、今は車道になった搦手道から皆城に登る為、この道はあまり人が通らないようだ。実際、道の上の方の日の当たる箇所では草が茫々になっていた。


大手門跡
大手道を登り切った場所にかつては大手門があったそうで、大手門跡の標柱が立っている。この先は武者溜で本丸と二の丸の間にあった曲輪である。


本丸跡
大手門跡を抜けて右手のさらに一段高くなった場所が本丸跡で、現在ここには秋田神社が鎮座しているが、この神社は横手城の大手門などを解体した建材で出来ているという。神社の前に綺麗に黄葉した銀杏の木があったが、若木のようなので比較的最近植えられたものだろうか。


横手城二の丸
本丸から再び武者溜に戻り、今度は二の丸に向かうがここには模擬天守閣が鎮座しており、横手城の画像ではよくこの模擬天守が出てくることが多い。本来の二の丸には屋敷があったようで今も庭園の跡がある。


模擬天守閣最上階から見た二の丸
画像は二の丸のちょうど庭園跡のある辺りを見下ろしたものだが、紅葉も黄葉もやや緑がかっており、ちょっとイマイチな状態だった。


根岸町の銀杏
再び城から城下に降りて根岸町を移動すると、銀杏並木が綺麗な場所があった。ここもやや緑がかった銀杏はあったが、全体的によく黄葉していて良かった。


外郭の塁壁跡(横手境界)
根岸町の端には横手城の外郭の塁壁があり、この先は街道が通る城下町になる。現在、この塁壁の上には横手教会が建っている。


城門跡
かつての武家屋敷だった根岸町から、城下町だった本町へと抜ける箇所には当然ながら城門があったわけで、この跡地が画像のあたりになる。画像の奥が本町、手前が根岸町である。ちなみにここよりも北側にもう一つ桝形虎口の城門があったようだが、今は住宅地になって道さえ失われていた。


外郭の塁壁跡(中央公民館)
城門跡を挟んで更に南に塁壁の痕跡が続いているが、画像の塁壁跡は横手中央公民館の敷地になっている。判り辛いが画像左側は落差3~5mほどの斜面になっている。斜面の下には当時は水堀があったようだが、残念ながら今は全て埋め立てられている。


外郭の塁壁の先端部(鐘突き堂)
外郭の塁壁の南端部は横手川に接しており、横手城から見てもこの箇所は川に突き出るようになっていて且つ鐘突き堂があり特異な風景である。当時の絵図を見ると、実際はもっと川に突き出ていたか、川が内側を抉るように描かれており、護岸工事で今のような風景になったようだ。

2020年4月27日月曜日

秋の関西旅行:真田丸(大阪府大阪市)

2019年10月22日訪城。

岸和田から大阪へと戻った後、以前から一度行きたかった大阪城の南に築かれた出丸である真田丸跡へと向かった。


真田丸跡の顕彰碑
真田丸跡の石碑は上町台場の心眼寺坂にあり、心眼寺などの寺がある場所と画像の背後のグラウンドが曲輪の跡だという。


空堀跡
真田丸跡の北側に上町台地を横切る谷があり、「空堀町」と名前が付いていることから大坂城の外堀であることが判る。要するに人力で造った谷なのだ。


上町台地の上
一方、真田丸跡の南側の堀の跡については、上町台地の上を散策してみたがよく判らなかった。まぁ、大坂夏の陣の時点で埋められたようなので、しょうがないのかもしれない。

2020年4月26日日曜日

秋の関西旅行:岸和田城(大阪府岸和田市)

2019年10月22日訪城。

竹田城から大阪に移動して一泊した翌日、以前から一度訪れたかった岸和田城へと出かけた。岸和田城の始まりは諸説あるが、本格的な城郭になったのは1585年に小出秀政が岸和田の領主になった時で、この時に天守閣が建てられたという。江戸時代には岸和田藩の藩庁となり、松平康重によって総構えと城下町が整備された。

東大手門跡
商店街から岸和田城跡へと移動すると城見橋の交差点に出るが、この交差点の先が東大手門跡となる。残念ながら遺構は何も無いが、東大手門跡のプレートが設置してあった。手前を横切っている県道39号は外堀跡で実際城跡側よりも低くなっている。


外堀の外側の川
岸和田城の絵図には外堀の外側に川が流れており、この川が水路になって残っている。なお、川の名前までは確認出来なかった。


県道39号沿いの石垣
県道39号が外堀跡なのは確認していたが、道の脇に石垣もあった。ただ、本物の外堀跡の石垣なのか、歩道を石垣っぽくデザインしただけなのかはよく判らなかった。


坂口門跡
東大手門跡は城の面影は無かったが、画像の坂口門跡付近は狭い道が残っており、何故か白壁等もあって城っぽい雰囲気が出ていた。


北口門跡
北口門跡付近にも石垣があったが、これもやはり遺構を加工したものなのか、全く新しく石垣っぽいものを造ったのか判断が付かなかった。


二の丸跡
市役所と岸和田高校の間の道を抜けるといよいよ二の丸跡で、二の丸跡に関しては他と違って曲輪の周囲の水堀と石垣がハッキリ残っていて良かった。ただ、曲輪内部には特に見るべきところが無く、画像の時代時計っぽいものや櫓っぽいトイレがあるくらいだった。


本丸表門
二の丸跡から土橋を渡った先が本丸跡で、本丸跡に関しては城門や櫓がちゃんとあるものの実は全て昭和に建てられた模擬建築である。城門については外観は良く出来ていると思うが、隅櫓は江戸時代の絵とは全く違う盛に盛ったものだった。


復興天守閣
天守閣についてはかつて5層のものがあったと記録にあるが、昭和に再建された鉄筋コンクリート天守閣は3層のオリジナルデザインになっている。なお、内部は資料館で、最上階が展望台になっている辺りは他の城址と同じである。


八陣の庭
本丸跡には庭園アーティストの重森三玲が「八陣の庭」というオブジェを造っているが、これがなんだかよくわからない。説明を見る限りでは諸葛孔明の八陣をイメージして造ったらしいが、芸術というのはよく判らないものである。というか「何故城の本丸跡に八陣を?」という疑問が湧いてしょうがない。


内堀越しに見た本丸跡
天守閣から降りた後は内堀の外側を散策して本丸を眺めたが、見た目は模擬とは思えないくらい良く出来ていると思えた。


本丸裏門跡
内堀沿いを本丸の裏が見える位置に移動すると裏門跡が見えるが、この部分は絵図でも門は描かれているものの橋は描かれていない。なので、もしかすると船着き場だったのではとも思うが、ただ内堀は完全に閉じている構造のため、船で外には出れない。内堀の対岸に渡るためだけに船を用意していた可能性もあるが、なんとも謎である。


武家屋敷佐々木家
最後に三の丸跡に残る武家屋敷の佐々木家を見に行ったが、長屋門に土壁っぽい塀もあって実に外観は武家屋敷っぽかった。なお、内部は残念ながら非公開である。

2020年4月21日火曜日

秋の関西旅行:竹田城(兵庫県朝来市)

2019年10月21日訪城。

福知山から山陰本線で和田山へと移動し、そこから乗り換えて竹田へと向かった。行先はもちろん竹田城で、訪れるのは2度目になるが、以前来たのはまだ竹田城が無名で整備されていない頃だった。

竹田城の登山口
竹田城への登り口は複数あるが、今回は竹田駅の裏側の登山口から登った。ただ、駅の裏側に回れる箇所が離れている為、地味に遠回りしないといけないのがもどかしい。


竹田城の旧道
竹田駅の裏側一帯は竹田城の根小屋があった場所と言われている為、そこから城に登っていく道は恐らく大手道なのだろう。道の急な箇所には石段が設けられており、既に所々が破損しているため地味に歩きづらかった。


大手の石垣
道は途中で整備された山道に合流し、合流点にある料金所で料金を払って山道を進んでいくといよいよ目の前に石垣の壁が現れた。料金所のあたりは以前来た時は無かったが、この石垣の風景は見覚えがある風景だった。


大手門跡
まず初めにあるのは大手門跡の桝形で、これまでの山道には似つかわしくないほど立派な石垣の桝形虎口だった。


北千畳
大手門を抜けた先は北千畳と呼ばれる曲輪で、山の上とは思えないくらい広い曲輪だった。大手門を入ってすぐなので直属の家臣の屋敷か的場でもあったのだろうか。


三の丸の堀
北千畳から再び桝形虎口を抜けると三の丸になるが、その先は道が石垣と堀でしつこく折り曲げられており、なかなか近世城郭らしい構造だった。


二の丸から見た本丸と天守台
二の丸まで来るといよいよ目の前に本丸と天守台が見えてくるが、昔来た時は無かった一方通行の分離帯や、本丸に登る木造階段などがあってなんとも新鮮な光景だった。


本丸表門跡
木造階段は登城路を通って器用に本丸表門の桝形を折れ曲がっておりなかなか面白い。千畳敷から二の丸までは緩やかな傾斜だが、本丸だけは急傾斜の登城路なので保護のための措置なのだろう。


本丸裏門跡
なお、裏門側は更に急傾斜の階段になっており、通行禁止のバリケードが張られていた。画像の通り真ん中に踊り場があるため、埋門構造だったのだろうか。


天守閣から見た風景
本丸から天守台に登ると360度絶景が見られたが、やはり写真でよく見る南千畳を見た景色が天空の城感があって良かった。


花屋敷方面
本丸から裏門は通れないため、再び表門から二の丸に戻った後、本丸直下の帯曲輪を通って南二の丸へと抜ける。途中で西の花屋敷に下る画像の道もあったが、こちらは立ち入り禁止になっていたので、現状どうなっているのかよく判らない。


AED
帯曲輪から南二の丸に下る場所にはまさかのAEDがあり、ちょっと驚かされた。流石に心肺に障害がある状態で山城に登るのはどうかと思うが…。


南千畳から南二の丸方面を見た景色
南二の丸を抜けて南千畳から振り返ると石垣の並び立つ光景がなかなか素晴らしかった。


南千畳
南千畳も北千畳と同様に広い曲輪だったが、北千畳よりも凸凹しており、わざわざ通路が制限されていたので、北千畳とは別の役割があった曲輪なのだろうか。


搦手門跡
南千畳にも北千畳同様に桝形虎口があり、こちらは搦手門跡になるようだ。ここから出て山道を降っていくと舗装道路に合流する。その道路を降っていくと城の南麓あたりに出た。


城下町
以前訪れた時は晩秋の雪が降り始めた中だったので、城下町は歩くことが無かったが、今回歩いてみると思いのほか昔の街道の街並みのような面影が残っていることに気づかされた。比較的新しい宿屋なんかもあったので、竹田城ブームの後に出来たものだろうか。