2020年4月18日土曜日

秋の関西旅行:福知山城その1(京都府福知山市)

2019年10月21日訪城。

福知山にて一泊した翌朝、さっそく福知山城へと出かけた。福知山城は元々横山氏の横山城があった場所に明智光秀(明智光満説もあり)が築いた城で、「山崎の戦い」で明智光秀が羽柴秀吉に敗れてからは城主は頻繁に交代し、朽木殖昌が入ってからは福知山藩の藩庁として幕末まで続いている。

西の櫓跡
福知山駅から線路沿いに城のある丘を目指すと、ちょうど丘陵を鉄道が貫いている箇所に西の櫓跡の説明板があった。櫓の位置は画像の左奥の西田記念館のあたりになるが、正確には内記丸の丘の上にあったものなので櫓跡どころか地形が丸ごと消失していることになる。


外堀跡と清水門跡の説明板
西田記念館から真東の延長線上にある車道は外堀跡で、車道の片側は1~2mほどの落差がある。この部分に石垣が見えるが、「正保城絵図」ではここに石垣は描かれていない為、後世に造られたものだろう。なお、外堀が南に折れ曲がる箇所に画像の清水門跡の説明板がある。


清水門跡
清水門があった場所は画像の交差点の場所で、当時の通路や堀を埋めて作った道路が交わっている為、かなり歪んだ形の交差点になっている。文章では説明が難しいが、福知山城下今昔地図を見ると何故こうなったのかがよく判る。


清水門跡付近の外堀跡
清水門があった場所は城絵図では桝形ではなく出構みたいな場所だったようで、この出構の外側に今も外堀跡の痕跡を見ることが出来る。


御泉水跡
清水門から城内に入った場所は福知山城の外郭だった場所で、当時は屋敷や庭園などがあったという。現状はその面影がまったく見られないほど住宅地と工場になっている。画像は煎餅屋のちぎり屋の前にある説明板で、庭園の御泉水についての説明が書かれている。


内記丸(西の丸)跡
外郭から内記丸、伯耆丸のある丘に登るが、内記丸については丘の南側が消滅して北側だけが残っている状態である。曲輪跡は現在はほぼ駐車場で、市の施設が1棟建っているだけだった。画像奥が内記丸で、手前を横切っている車道は堀切跡である。


伯耆丸(三の丸)跡
一方の伯耆丸の方はテニスコートのようなものがある公園で、車道に近い場所に伯耆丸についての説明板があった。ここは福知山城の三の丸だった場所で、伯耆丸の名前は有馬伯耆守の屋敷があったことに由来している。


伯耆丸から見た二の丸と本丸
伯耆丸の東には本来は伯耆丸と同じ高さの二の丸があり、その間の堀には廊下橋が架けられていたというが、今は画像の通りのごらん折り様で、二の丸のあった「丘」そのものが消滅している。本来の福知山城は東西に伸びた丘陵を堀切で切った連郭式のお手本のような城だったのである。


堀切兼切通跡
二の丸と伯耆丸の間の堀は城絵図で見ると南北の外郭を繋ぐ切通だったようで、この上に二の丸と伯耆丸を繋ぐ橋が架かり、道が立体交差する場所だった。


銅門跡
切通の北側には銅門跡があり、石垣を模した生垣?の位置に説明板があった。画像中央やや左が門跡で、右側に入る車道は門脇の堀の跡である。奥に見えるのが前述の切通跡。


銅門番所(移築)
なお、銅門の脇にあった番所は現存しており、今は本丸跡に移築されている。今も残る数少ない城の建造物の一つで、地形も含めて失われたものが多い福知山城にとっては貴重な歴史遺産である。