2020年12月31日木曜日

新春の奥久慈への旅:棚倉城(福島県棚倉町)

 2020年2月23日訪城。

羽黒山から下山後、次は水郡線に乗って棚倉へと移動した。行先は既に何度か訪れている棚倉藩の藩庁の棚倉城跡である。何度か訪れているにも関わらず、二の丸跡については西側の石垣しか確認していなかったので、今回は二の丸の境界を反時計回りに確認することにした。

なお、今回の散策にあたっては国立図書館のデジタルアーカイブの絵図が非常に役に立った。今まで資料館の絵図やWEB公開された画像とにらめっこして記憶していたのが、手元で小さな文字まで見えるくらいの解像度で公開されているのだから良い時代になったものである。

二の丸裏門付近
駅からまず二の丸裏門付近を目指したが、自分の立っている場所は棚倉街道で、元の街道は画像の中央で左に曲がる。中央より先には本来は水堀があり、右手写真館の建物の手前の砂利の所も水堀を埋めた跡である。裏門自体は写真館と奥の四阿との間にあったようで、現在その間通っている枝分かれ車道は通路の跡のようだ。


二の丸水堀跡
画像の手前から奥にかけてが二の丸水堀跡で、地図と照らし合わせる限りでは画像の左の部分も水堀跡だが、こちらは埋め立ててさらに嵩上げされている。


二の丸土塁跡
住宅地の裏手に二の丸の北側土塁の横矢が見られるが、この辺りは民家裏のため割愛して、とりあえずその西の延長線上を確認すると、土塁の跡がちゃんと確認できた。流石に本来はもっと大きかったはずだが、街中に残っているだけでも上々である。画像の左側が水堀跡になるが、流石に埋まっていて堀だと分からない。


二の丸水堀跡
前述の土塁跡から車道を挟んで西側方面に行くと民家が建って土塁が消滅しているが、今度は水堀跡の方がハッキリと残っていた。明らかに側溝としては異常に深く、水堀を埋め立てて幅を狭くした結果こうなってしまった感じに見える。


二の丸石垣
二の丸の北西隅は住宅地の裏手にあたるため、残念ながら確認できないが、そこから南に曲った所で水堀は一旦終了となる。現在、棚倉中学校に下りて行く坂道があるが、ここは絵図と照らし合わせると空堀の跡となる。そしてこの堀跡から見上げると二の丸の現存する石垣が見えてくる。


二の丸埋門跡
二の丸の石垣は絵図だと埋門のある所まで続いており、埋門は恐らく画像のあたりだと思うが石垣は左手の林のあたりまでしか確認できなかった。埋門と言っているので、恐らく地面より低い城門だったはずで石垣もろとも埋まっているのだろうか。


二の丸南門跡
埋門跡からすぐ南に二の丸の南西隅の角があり、そこから東に曲った箇所に二の丸南門跡があるが、直接移動できないので一旦台地の上に戻って回り込む。画像のちょうど中央正面に本来は門があり、ここから車道が急に曲っているのは通路跡に沿っているからのようだ。


二の丸水堀跡
南門跡から東に向かうと水堀跡になるが、絵図と地図を確認する限りでは画像の水路より左側の住宅地や駐車場が水堀の跡だったようだ。右手の車道は絵図にも描かれている堀沿いの通路だろう。

水堀跡と二の丸の段差
南側の埋め立てられた水堀跡と二の丸の間は2~3mの高低差があり、この高低差のおかげで境界が分かり易くて良かった。ただ絵図の南側の中央付近にあった出構のような箇所は削られてしまったようだ。


二の丸南東部
絵図の二の丸南東部はたぶん本当は櫓を建てたかったのではないかと思う出っ張った特徴的な構造になっており、現在でも画像のようにその名残が残っていたのには驚かされた。流石にもうちょい画像右側膨らむように幅があったはずなので、そこは削られて奥まで真っ直ぐに整えられてしまったのだろう。


二の丸東部
二の丸の東部も南ほどではないが水堀跡との間に1m未満ほどの段差があり、これは途中民家で寸断されているものの二の丸大手門跡付近まで確認できた。


二の丸大手門跡
昔ずっと二の丸大手門跡は車道の箇所だと思い込んでいたが、実際は意外にも車道から10mほど北にずれた場所にあり、画像の盛り土の下に大手門の礎石が眠っている。つまり本来の大手道は現在民家が建っている場所を通って棚倉街道に繋がっていたことになる。本来の道が無くなって、別の位置に道が出来たのは、どうやら明治20年の東白川郡役所の工事が原因らしい。


二の丸大手門跡の横矢部分
二の丸大手門(表門)は絵図では北側に横矢を伴っており、現在でもその横矢部分が確認出来る為、大手門の礎石の位置は絵図と一致していることが判る。ただ、二の丸の境界がハッキリ判るのはこの場所付近までで、ここから北側は不明瞭になる。


城跡多目的広場
境界に民家が建って消滅している箇所は諦めるしかないが、せめて公園になっている箇所くらいは境界がわかるようなものが欲しかった気がする。なお、画像の自分が立っている箇所から中央奥にかけてが二の丸の土塁があったと思われる塁線で、画像の右側が水堀跡、左側が二の丸の曲輪内部と推定される。

帰ってから航空写真を確認して気づいたが、ほずみやとその駐車場も水堀跡に沿って建っており、ちょうど町営の城跡北駐車場が二の丸の曲輪内になっていた。この時は夕方で日も落ちていたので、見落としてしまったようだ。

2020年12月30日水曜日

新春の奥久慈への旅:羽黒山城・その2(福島県塙町)

 2020年2月23日訪城。

その1からの続き。

出羽神社
帯曲輪から階段を登った先が主郭で、現在は出羽神社が鎮座している。神社の縁起によれば源義家が勧請したらしいので恐らく1063年頃(出羽守に任ぜられた源義家が総本社の羽黒山の社殿を修理している為)には祠か社が祀られたものと思われる。


本殿
出羽神社の本殿は背後の一段高い場所にあり、ここが羽黒山の山頂になる。この場所は佐竹氏の時代には物見台として使用していたとされている。


主郭西側の堀切
主郭の西側には堀切が設けられているが、ただでさえ狭い主郭がこれでさらに狭くなっており、西側の出丸のようになった部分を切り離す必要が本当にあったのか疑問が残る。


出丸下の腰曲輪
その出丸付近から西側の腰郭を見下ろしてみると嫌になるほど密集した笹薮になっており、ちょっと気が滅入る。


出丸から二段下の腰郭
主郭から帯曲輪に戻ってそこから南の尾根にある腰郭に回り込むが、ここもやはり笹薮化して通れそうにない。縄張り図によればこの先に西尾根の二番目の堀切があるはずなのだが…。


南尾根の堀切
しょうがないので南尾根の方に降ってこちら側の堀切を確認する。なお、この堀切は山道の分岐点にもなっており、このまま南に下れば愛宕神社裏に出る。堀切を通って西側に下れば街中に出るはずである。


西側の山道
というわけで、西側の山道から下山を開始したのだが、途中で山道が笹薮に侵食されて大変なことになっていた。それでも辛うじて足元に道が見えていたので、強行突破することにした。


西側の山道
ある程度笹薮を強行突破した結果、やっと笹薮の無い山道に出ることが出来たが、改めて見返してみると道がかなり見づらくなっている。ちなみに画像の中央から右の笹薮に曲がるルートが正しいルートである。


西側の山道
山道をある程度下山してきたら途中に行き止まりの看板があったが、要するに西側の山道は使用できない認識のようだ。画像奥が山頂側なので、この看板の通りなら道は不通という意味になる。


出羽神社の鳥居
山道を只管降りて線路の踏切を越えて街中に出ると画像の鳥居の場所に出る。これだけ立派な鳥居があるにも関わらず参道は自然に飲み込まれて消滅しかけているのだから、なんとも困った話である。

2020年12月28日月曜日

新春の奥久慈への旅:羽黒山城・その1(福島県塙町)

 2020年2月23日訪城。

塙の町で昼食をとった後、いよいよ町の中央に鎮座する羽黒山へと向かうが、羽黒山は登山口が東西南北に存在しており、街中に近い西側ではなくあえて山を回り込んだ東側から登ることにした。東側が大手道だからというのが自分の場合の理由だったが、登ってみた感じでは基本的に東から登るのが正解のようだった。

羽黒山城の始まりは不詳で、伝承だと源義家が奥州へ向かう際に築いたというのが一番古いが事実かは定かではない。説明板だと南北朝時代に築かれたものとされている。現在見られる遺構は16世紀に佐竹氏によって築かれたもので、南郷を支配するための重要な拠点だったこともあって、何度か結城氏と佐竹氏の戦いの舞台となっている。

東側の登山口
出羽神社の参道や林道羽黒山線の起点にもなっており、登山口には画像のように色々目印が立っている。ここから中腹までは舗装された林道を進むことになる。


城代屋敷跡
登って道なりに進むと林道がU字に急カーブしている箇所があり、ここの北側に城代屋敷跡がある。なお、住所の「竹之内」はここを指す館(たて)の内が由来とされている。所々藪があって散策し辛いが、画像のような土塁や堀が今でも確認できた。


二重堀跡(外側)
しばらく登っていくと林道の左右に広い曲輪跡が確認できるようになるが、二重の横堀があるとされている箇所は今は配水場に変わってしまっていた。画像は恐らく二重堀の外側の堀だったと思われる箇所。


二重堀跡(内側)
二重堀の内側とみられる箇所は一部が残っており、この画像の右側の方に先ほどの配水場の入口がある。なお、平成三年度の発掘調査で画像左の切岸の上に石積みがあったことが確認されているが、現在はどこらへんが石積みだったのか確認できなかった。


曲輪跡と櫓台跡
前述の切岸の上は同じ調査で主殿クラスの建物跡が見つかっており、切岸側に見える土塁は櫓台の跡とされている。林道を挟んで南側の曲輪跡には大手門跡とされる場所もあるため、この辺りからが城の重要区画だったのだろう。


石積み
北側からは結局石積みは見つけられなかったが、南側の曲輪には石積みらしきものが確認できた。野面積みの石垣と違って、整えずに石を積んだものであり、中世の伊達氏の城なんかでもよく見かける奴である。


大手曲輪跡
先の曲輪跡の一段下にあった曲輪で、大手門跡があったらしいので便宜上呼び分ける為に大手曲輪と呼ばせてもらう。前述の石積みは記録と分布を見る感じではこの大手曲輪と建物があった曲輪の間の切岸を補強するために築かれたと思われる。なお、画像の中央奥に大手門があったとされる虎口跡がある。


出羽神社入口
林道羽黒山線から出羽神社の参道が分岐する箇所が画像の部分で、ここから先は舗装されていない山道になる。なお、林道の方は本来の登城路とは関係なく通っている為、ここから先が本来の登城路と同じルートとなる。


礎石建物があった曲輪
参道を登った先には比較的広い曲輪跡があり、平成四年度の発掘調査では建物の礎石が見つかっている為、ここに重要な施設があったようである。それにしても、礎石は埋め戻されているから分からないのは当然にしても、現状からはそれが全く分からないから恐ろしい。


横堀と土塁を横切って登る道
個人的に見所だと思ったのが画像の箇所で、横堀と土塁を横切って山道が通っており、藪の中に入らなくても遺構がハッキリと確認できた。


主郭下の帯郭
山道は大小の曲輪跡を縫って山頂へと続いていくが、山頂の主郭跡の直下にある帯曲輪は北側が藪になっており、主郭方面以外の北側の曲輪に行くのは困難な様子だった。

2020年12月27日日曜日

新春の奥久慈への旅:塙代官所(福島県塙町)

 2020年2月23日訪城。

東館駅から水郡線に乗って塙駅へと移動し、そこから徒歩ですぐの場所にある塙代官所跡へと向かった。

塙代官所はこの辺り一帯が天領(幕府の直轄支配領地)になった時に、幕府の出先機関(御役所)として建てられたもので、中央に御白州があり、南西側に御殿と板倉、北東側に長屋などがあったことが判っている。代官所が設置された139年間のうちに着任した代官は45人おり、中でも23代目の寺西封元の人気が高く、この人だけは離任後も生神様として民衆に祀られていた。大飢饉のときに生きる糧を失った農民に公共事業を斡旋して賃金を与えたり、農村の人口減少の要因を取り除いたりした人のようだ。


塙代官所跡
現在の代官所跡は御殿のあった場所あたりが広場になって、御白州付近が子育て地蔵尊の御堂になっている。それ以外の長屋などがあった場所は民家の敷地になっており、現状だと代官所の面影が全くない。


子育て地蔵尊
御白州跡の子育て地蔵尊の本堂脇には寺西代官の顔出し看板なんかが設置されている。まぁ、ある意味本堂の前に御白州の白石をまけば代官所に見えなくもないかもしれない。


代官中央公園
代官所の御殿や倉などがあった場所付近が今は代官中央公園になっているが、ハッキリ言って初見では公園には見えない。画像の建物の詳細はよく判らなかったが、恐らく公民館的な建物っぽい?ここは中央に見える寺西代官の座像と右に見えるDaikanCentralParkの看板がなんとも印象的だった。

ここには比較的新しい公衆トイレがあり、昼食をとってから羽黒山に登る前に用を足すことが出来て地味に助かった。

2020年12月25日金曜日

新春の奥久慈への旅:東館(福島県矢祭町)

 2020年2月23日訪城。

奥久慈を北上して福島県に入り、矢祭町で一泊した翌日、さっそく朝から宿のすぐ東に見える丘の上にある東館跡に向かった。

東館は白河の結城氏が南郷を抑える為に室町時代に築いた城で、班目氏が城代を務めていたが、佐竹氏の反撃が始まった際に落城し、以後は佐竹氏の奥州への中継ぎの城となった。

ふるさとランド
現在の東館跡は「ふるさとランド」とかいうアウトドア施設?の敷地になっており、さらに背後の尾根側には老人福祉センターも建っている。このため、現状だと曲輪の構造が元々どうだったのかよく判らない状態になっている。


主郭跡?二の曲輪跡?
公園のようになっている部分がたぶん主郭もしくは二の曲輪と思われ、東館についての簡単な説明板もここにひっそり立っている。位置的には尾根の先端部分で、展望台がある南側は別の曲輪だった可能性がある。


横堀?帯曲輪?
丘陵の斜面には横堀が設けられているが、もしかすると土塁を伴った帯曲輪かもしれない。実際、西の麓に向かって山道が付いているので、仮に堀だとしても堀底道のように通路の役割があったものと思われる。


帯曲輪
先の帯曲輪と思われる細い曲輪はちょうど斜面を半周しており、曲輪の外側の土塁は西側にしか見られない。


堀切
老人福祉センターの背後の尾根にはしっかり堀切が見えるが、尾根に登るには老人福祉センターの敷地を通って裏に回る必要があり、流石にこれは躊躇われた。


ふるさとランドのマップ
既に文字が一部かすれたりしているが、一応園内の道などを記したマップがあり、やはり老人福祉センターの裏から尾根に乗るようだ。ふるさとランドに来る途中の坂の途中にも山道への分岐が描かれていたが、実際現地を見てみたらそこは藪になっていた。

結局、水郡線の電車の時間が来たので消化不良のまま引き上げたが、次に来る時は東側の林道からアクセスしてみたい。あと、城址の北西部の住所に「唐目」※とあるため、この部分もよく見ておきたい。

※恐らく唐目手(搦手)のことを指しており、城の裏口の意味。

2020年12月20日日曜日

新春の奥久慈への旅:袋田の滝(茨城県大子町)

2020年2月22日観覧。

「月居峠と前山」からの続き。

前山からの下山ルート
前山の山頂まで登った後はそのまま袋田の滝の上に降りるルートに入り、下山を開始する。下山ルートは一層道幅が狭く急になり、こんな場所に麓から資材を担いで登って階段を造った先人に頭が下がる。


断崖の下に袋田の集落が見える
それにしても道のある場所のすぐ隣が断崖絶壁なのはなかなか精神的にしんどい。眼下に袋田の集落が見える光景は絶景と言えば絶景なのだが。これだと登ってくる方が余計なものが視界に入らないので精神的に楽そうだ。


袋田の滝の上
急斜面をひたすらヒィヒィ言いながら下山すると滝の音がだんだん大きくなっていき、ついに袋田の滝の上付近までたどり着いた。上の方は画像の通り小さな落差がいくつかあるだけで、滝としてはあまり凄そうには見えない。


天狗岩
滝が見える位置から更に麓を目指して下山していくと、途中で道は垂直に伸びた縦長の岩と山の断崖との間を通っていた。どうやらのこの縦長の岩が天狗岩というらしいが、やはり天狗の鼻に似ているからだろうか?


麓の階段の注意書き
ついに麓の地面が見えて安堵したが、山道と麓を繋ぐ部分だけは鉄製の階段になっていた。そして階段には画像のような注意書きがあるのだが、実際に書かれている通り急階段で急斜面な道だったので、気軽に登ろうとか考えない方がいい。


袋田の滝の下段
下山した時点で既に袋田の滝の展望台の営業終了15分前くらいで急いで展望台に向かう。途中で滝の下段をちらっと見たが、そこそこ幅のある急斜面を滑るように流れる滝がなかなか迫力があってよかった。


展望台から見た滝の上段
エレベータで展望台に登ると滝の上段まで見えたが、ちょうど画像奥の落差の低い部分が先ほど下山途中に見た部分かもしれない。


展望台から見た滝の中段
滝は中段で2つに分かれて再び滝壺で合流しているが、滝壺自体が大小いくつかに別れており微妙に変化に富んでいる。ちなみに滝は公式には4段とカウントされているらしく、「四度の滝」という別名が付いている。


トンネル内部から見た滝
今回、絵になるなと思ったのがトンネル内部から見た滝で、トンネルの先で滝を見ている観光客のシルエットによってはかなり御洒落になりそうな感じがする。


恋人の聖地
なお、トンネルの別の箇所にはハートをあしらったオブジェがあり、恋人の聖地と書かれていた。どうやら日本全国に100ヶ所以上あるカップル向け観光地の一つらしい。ちなみに滝の上から二段目の位置にハートマークが見えるらしいが、滝の画像を見返してみてもそれっぽいものは見つけれなかった。